いがぐり史料館

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二十三  わが公の嗣余八麿を将軍の嗣とし、余九麿を改めて嗣とする     『京都守護職始末2』

 余九麿は十二歳     十二月朔日、徳川慶篤卿の弟余九麿(喜徳君、わが藩の世子)をわが公の養子にした。
 これよりさき、わが公は幕府の内諭により、徳川慶篤卿の弟民部大輔昭武(初名余八麿)を嗣子とする約束があったが、未だ公許を得ないうちに、将軍家が薨去された。
 中納言が宗家に入って継承する時、ある日、わが公に諭旨して「予が宗家を継いだけれども、方今、内外多難の日に際し、永くその負荷に堪えられぬことは言を持たない。ゆえに、今より親藩のなかから器量のある者をえらび、欧州にやって知見を広めさせ、その者をわが嗣にしたい。思うに、民部大輔がそれにふさわし人である。ところが、彼はかつて卿の嗣となる約束があった。しかし、そのような事情であるから、彼の弟の余九麿を卿の嗣に代えてほしい。余九麿は未だ年は十二であるが、民部大輔の弟でもあり、その所生は同じである。どうか、卿にこのことを承知してほしい」と言われた。
 わが藩臣たちは「民部君を養子とすることは、故大将軍の命に出たものであって、未だ墓の土も乾かないうちに、命にそむくのはしのびない」と言うものがあったが、わが公がこれを慰諭し、また「予も年若な子を養子としたい考えだ」と言われたので、藩臣らも、それに従った。





 征夷大将軍     十二月五日、朝廷は権中納言徳川慶喜卿を征夷大将軍に補し、正二位に叙し、権大納言に任ぜられた。その他兼補するところも、歴代将軍の旧典通りであった。つづいて、内大臣に任ぜられ、勅使として、権大納言飛鳥井雅典卿と権大納言野宮定功卿が、二条城にのぞみ、宣旨を伝えられた。
 わが公は老中、所司代とともに、その席につらなった。儀式が終って、わが公は太刀、馬代を献じて、これを賀した。
 この日、在京の諸大名らもそれぞれ登城し、太刀、馬代を献じてこれを賀することも、すべて旧例のごとくであった。
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  1. 2012/11/19(月) 13:57:05|
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