いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十四  天皇の御不予ならびに崩御     『京都守護職始末2』

 御疱瘡御悩     その頃、京師に疱瘡(ほうそう)が流行していた。この月(十二月)十八日、禁裏裡付【注一】の松平若狭守が、わが営に急使を馳せて、天皇の御悩の由を報じた。
 わが公は愕然として、馬を駆って参内し、天機をうかがい奉ったところ、御疱瘡に決定したということであった。よって数刻、殿上に伺候し、また家臣に命じて九門外を警邏させ、非常を戒めさせた。
 それ以来、日々参内して、御容子をうかがっていたが、二十五日夜半になって、御容態が悪化し、危篤との報を聞いて、参内し、天機をうかがい、暁になってひとまず退出したが、ふたたび参内して殿上に伺候すること連日に及んだ。





 践祚の儀御治定     二十六日、摂家および大臣、伝議の両奏衆が左の事項を奏上した。

一 御大統の儀御急決のこと。

一 殿下へ摂政を宣下のこと。

一 賀陽宮、御出勤のこと。

一 外戚の御取扱いのこと。

一 幽閉の堂上赦免のこと。

一 時宜次第、伝議へ警衛を付け、刀を添え候こと。


 これに対して勅裁があったので、摂家、大臣、伝議の両奏衆が小御所に列座して、殿下から左の勅を伝宣された。

一 主上御不予につき、親王受禅【注二】あるべきのところ、御大切、御残念ながら践祚御治定仰せ出だされ候こと。

一 准后、立后【注三】のこと、親王の思し召しあらせられ候間、明後年の春、立大后冊命(さくめい)と御治定のこと。

右につき、親王、准后へ一両日中に参賀のこと。


 二十八日、詔があって、関白二条斉敬公を摂政となした。





 億兆慟哭す     二十九日、辰の刻〔午前八時頃〕に、天皇は崩御【注四】された。
 天下諒闇【注五】の勅命が布かれ、億兆の蒼生は慟天哭地、天地はために晦冥となった。
 いわんや、京師守護の重職を奉じ、親しく聖旨を奉戴して、万一の報効を期していたわが公の悲しみにおいておや。公(おおやけ) のことにしてみても、公武一和の叡望は未だその基礎ができあがらず、国家の大勢が帰するところを知らないのに、俄然、大喪に際会し、人心は恟々として、統一して頼るべき所を失い、百事ほとんど去らんとする有様である。私事として考えてみても、数回にわたる優渥の聖詔が髣髴として今なお耳に聞えてくる。当時を追想するごとに、哀痛きわまって、腸を断つ思いであり、暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴える所がない。
 遂に慶応二年も暮れていった。





 暗躍日々に多し     明くれば慶応三年丁卯、天下は諒闇であるので、雲物暗澹として、春もまた春でないようであるのに、諸藩士らは大喪中を憚るところもなく、かえって人心の沈憂しているのを機として、ひそかに宮堂上の間に入説するものが、日一日と多くなった。
 そのため、遂に公卿たちの間でも、互いに党を樹てて相軋轢(あつれき)し、伝奏衆の野宮定功卿のごときも、今は変心して、この月(正月)八日、中川宮に書を呈して、国事掛を辞任されるように勧めるに至った。





 中川宮の辞意     これよりさき、将軍家はわが公と謀って、殿下および議奏衆を通じて宮の参朝を促していたが、宮はふたたび紛議の生ずるのを慮って、たやすく応じようとされなかった。将軍家は、野宮のことを聞くに及んで、左の書を殿下に呈し、宮の辞職を引き止めた。

昨日はゆるゆる御対顔、謝し奉り候。しからばその節、御談し御座候賀陽宮〔中川宮〕の御進退の儀は、なおまた再応熟考仕り候えば、なにぶん不慮の次第より永々御引込みに相成り、今さら御所労とは申しながら、御大喪にのぞみ、御棺拝も相成りがたきようにては、なんとも恐れ入り候のみならず、御事体に於ても如何。且つこれまで皇国の御為、一と方ならず厚く御尽力も御座候儀ゆえ、是非御出仕あらせられ候ようこれなく候わでは、天下の耳目も如何これあるべきや。ついては、御国事掛御迷惑にて御願書等御座候とも、早々差し留められ、御出仕相成り候よう、よろしく御評議の程願い奉り候。
心付きに任せ、申し上げ候。早々頓首。


 しかし、時事日々に非であるのを知って、宮は心安んぜられず、遂に辞表を呈したが、殿下はこれを却けて、懇諭再三、ようやく二月十三日になって参朝あり、旧通り、朝議に参列された。





 大喪の恩赦     十五日、朝議は大喪による大赦を行ない、壬戌の年勅勘を蒙った人人、九条円心ら、甲子の年勅勘を蒙った有栖川宮その他堂上十余人に恩赦があった。作冬建言に座して【注六】勅勘を蒙った人々、常陸宮〔山階宮晃親王〕以下二十余人にもまた、恩赦の命があった。





 征長解兵を奉請     その時、幕府はまた、大喪によって征長の解兵を奏請しようとして、この日(二月十三日)、わが公と定敬朝臣を召し、将軍家に代ってこれを奏上するように命じた。
 わが公は、これを不可とし、「征長のことは、先帝の宸断に出て、当時の聖詔が未だ耳にのこっているほどである。しかるに、それを今、幕府から進んでこれを翻えそうとするのは、どういうつもりなのか、容保はじつにその可否に惑う。この使命はあえておことわりする」と辞退した。将軍家もまた強いてとは言わず、ただ旧のごとく職務に精励するように、と慰諭した。
 幕府は改めて、老中板倉勝静朝臣と所司代松平定敬朝臣に、征長解兵の奏請を命じた。





 わが藩士の怒り     わが藩臣らは、これを聞いて怫然として、
「征長のことは、じつに先帝の宸断に出たことで、当時、賊輩は禁闕に発砲し、兇逆の挙動、今なお歴歴として眼に浮かんでくる。わが公は病を勉めて、露営暁に達し、じつに櫛風沐雨の苦難を重ねたものである。以来、征長出師(すいし)の挙あるや、旗下および先鋒の諸藩の兵はおおむね怯懦で、毎戦利を得ず、いたずらに賊の勢いを猖獗ならしめた。ゆえに当大将軍御相続のはじめに、親征を勧め、わが公が一方の攻め口にあたることを請うたときも、逡巡して決せず、つづいて今また休戦を持ち出し、解兵を奏請するとは、そもどういうことなのか。いったい幕府は、叡旨を奉行することもできず、軍職にありながら武力を発揚することもできず、尽言を進めても採用もしない。また、わが公に大政に参与するように命じておきながら、これほどの大事を決定するのに、わが公に相談もなく、今ではもはや、輔翼の道は絶えた。顧みるに、わが公の今日までの報公で、いささかながら天恩の万分の一は報い奉ったし、宗家への義務もつくした。その上、藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。今はただ一刻も早く職を辞して、領土に帰るにしくはない。けだし、今がその時機である」
 と、甲論乙和、慷概の気運怫然たるものがあった。公はこれを慰諭されたが、わが藩臣らの議論がようやく過激になっていったのは、じつにこのことに起因している。
 正月二十九日、朝廷では、大行天皇【注七】を泉涌寺の陵に葬り、諡(おくりな)を孝明天皇と上(たてまつ)った。





 わが公辞意を決意     これよりさき、またわが公は病いがちで、十日あまり政務を見ないでいたが、この日、病を勉めて参内し、清涼殿西廂で御柩(ひつぎ)を拝し奉った。
 薄暮、御柩が出御あった。摂政、大将軍および諸公卿、守護職、老中、所司代等が扈従し奉り、儀式が終って、二月朔日、わが公は京師に帰った。
 ここにおいて、わが公は重臣を召して、「不肖容保、守護職を、奉じて以来、天恩の優渥、じつに海山にも比べられない。すでに大葬も終った。顧みるに方今の情勢からみて、容保の帰国は、かえって宗家のために益となるかもしれない。よって守護職を辞して、国に帰ろうと思う」と言われた。重臣等は、一人も意義はなかった。そこで、辞表を出すことに決めた。
 超えて五日、老中稲葉正邦朝臣が定敬朝臣とともにわが営に来たり、面会を求めた。わが公は病中であったので、ことわった。
 二人は、将軍家の内旨を持って来たと言うので、やむなく面会すると、二人は、病を勉めて旧のごとく奉職するようにとの台命を伝えた。わが公は先の理由を述べて、命に従わなかった。
 十一日(二月)、明日さらに辞表を幕府に呈出しようとして、重臣を二条殿下のもとにつかわし、そのことを幕府が上奏してきた場合には、速やかにお允(ゆる)しあるようにと内請し、またそのことを所司代定敬朝臣に告げ、翌十二日、辞表を幕府に呈した。
 時に、将軍家は大阪にあり、はるばる旨をさずけて、在京の老中板倉勝静朝臣、所司代松平定敬朝臣をつかわし、「辞表の趣旨は諒解するが、長防の処置が未だ終局せず、今俄かに裁可することはむずかしい。よって、旧来通り奉職するように」と諭し、また、わが家臣田中玄清、梶原影雄(平馬)をその席に召し、深く慰諭してわが公の辞意を止めさせようとした。玄清らは、公の帰邑がやむをえない事情を縷陳した。





 帰国中止の懇望     定敬朝臣らは、なおも諭して、「中将がしばしば辞職して北へ帰ろうとされる。公私のため、まことにやむをえない至情の程は、全く無理もないことで、速やかに允許あらせらるべきではあるが、近頃、薩摩藩が続続と大兵を京師に入れるにもかかわらず、跋扈を逞しうしないのは、中将が大兵を引きつれて、輦下にあるためである。中将が一度足をぬけば、どのような変が起るかも測られない。願わくば、北下のことはしばらく時機を待ち、旧のごとく職務に励精せよとの台命を奉体してほしい」ということであった。
 十八日、老中勝静朝臣は、わが家臣野村直臣と手代木勝任を招いて、将軍家の内諭をねんごろに告げ、左の手書を伝えた。

この程以来不参候ところ、所労如何の御様子に候や、甚だ案じ申し候。追々長引きに相成り候につき、かれこれの世説も差し起り、掛念少なからず候間、いささかも収まり候わば早々出勤致すべく、且つ種々の内情もこれあるべく候えども、方今容易ならざるの時勢にて、長防の処置も全く片づき申さず、内外多端の折りから、年来の苦心、ここに至り貫徹これなきようにては、我等に於ても不本意の筋につき、右の辺年寄共より家臣へ向け、委曲申し談じ候間、とくと承わり届け、一藩内の折合いよろしきよう幾重にも勘弁致し、速やかに出勤の程、頼み存じ候也。





 英兵庫開港を迫る     これよりさき、英国公使が江戸にあって、兵庫開港を促すこと頻り【注八】で、留守の老中共も、延期の言葉に窮していた。そのため、英国公使はますますこれを迫り、遂に、みずから帝都に入って談判すると言い出した。老中の人々は、このことを大阪に急報した。
 将軍家は遂に意を決して、これを奏請するため、急にわが公を召した。
わが公は病を勉めてうかがい、また時勢のやむをえないのを察して、その議に賛同し、三月十二日、ともに参内して奏請した。その大意は、

一昨丑年〔慶応元年〕の十月中、条約勅許の節、兵庫は止められ候旨御沙汰の趣、早速外国人へ申し渡すべく候ところ、さ候ては、たちまち瓦解に及び、折角平穏の御趣意も水泡に相帰すべく、且つ一旦、取結び候条約を相変じ候は、ただただ信を万国に失い候のみにて、所詮、行なわるべき儀にこれなく、その断深く仕り候えども、一時切迫の情態御諒察の上、条約を勅許あらせられ候儀、なおまたかれこれ申し上げ候も斟酌仕るべき筋につき、まずそのまま申し上げ置き、とくと熟考仕るべく存じ奉り候折から、長防の事件差し起り、引続き、故大樹の大故にも及び候。ついに開港の期限差し迫り、各国よりは毎々申し立て候条件もこれあり、右について、なお再応熟慮、勘弁相尽し候ところ、条約変更の儀、強いて施工仕り候は必定、義理曲直の論に及び、大いに不都合相生じ、詰り、百万の生霊いたずらに塗炭の苦しみ、皇国の御浮沈にも相拘わり候よう成りゆくべきは目前にこれあり、右ようの形勢に立ち至り候上、よんどころなく条約履行候ては、じつに御国体御威信ともすべて相立たず、職掌に於て、もっとも相済まざる次第、殊に堅艦、利器、彼の長所を採り、皇国の富強を謀り候は、今日の急務に候間、いずれも開港仕るべきは至当の儀にこれあり。(下略、三月十九日)





 朝議開港を許さず     書を奉ったが、朝議はしばらく同意せず、「兵庫開港は先帝の勅許し賜わなかったことであり、容易ならぬ重大事件であるから、諸藩に諮詢あるべく、幕府もまた再考すべし」と、伝奏衆飛鳥井雅典卿から達せられた。 将軍家はわが公らを召して、協議の上、左の奉答書を呈せられた。

兵庫開港条約履行の儀につき、過日、見込みの趣を建言仕り候ところ、右は重大の事件にて、先朝に体せられ候ても御沙汰に及ばれがたき筋につき、なお早々諸藩の見込みをも聞し召され候て、とくと再考仕るべき旨御沙汰の趣、畏り奉り、慶喜儀、年来闕下に罷りあり、先朝以来の御趣意のほども、親しく皇国の御為、利害得失を勘考候えば、いずれにも過日建言仕り候通りの儀に御座なくでは、永久に御国体相立ちがたく、軽重を斟酌仕り申し上げ候次第にて、この上に勘弁仕るべきよう御座なく候。且つ、一旦取結び条約変更の儀は、所詮相叶いがたき時勢に御座候間、各国より申し立て候儀これあるの節、過日建言の趣意をもって、それぞれ申し達しおき候ことに御座候。
尤も重大の事件につき、何とか取計らい申さず候わでは相すまざる儀に御座候ところ、これまで遷延仕りおり、今更かれこれ申し上げ候段、深く恐縮の至りと存じ奉り候。尤も国家の御安危の界につき、幾重にも一身に引きうけ、御断り申し上ぐべく存じ奉り候。
右の情実を、とくと御承知あらせられたく、この段御尋ねにつき、重ねて奏聞仕り候。以上。(三月二十一日)


 四月三日、松平慶永卿、鍋島斉正卿(閑叟)、山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、島津久光朝臣等が前後して入京してきた。よって朝廷では、兵庫開港、防長の所置についての意見を奉らせた。

 



 帰国の賜暇を申請     四月四日、先帝の御遺物である黄銅の花瓶、花台および御小屏風、絵巻物をわが公に賜わった。
 この時にあたって、わが公は重臣らをしばしば老中の人々につかわして、帰国を内請した。老中の人人も、今はやむをえないと察し、「朝廷において許可があれば、一年もしくは一年半の期限つきで帰国を許すが、守護職は解かず、帰国して留守中は、継子の余九麿を衛兵とともに京都に止めて、守護の職務を行なわせるように」とのことであった。
 そこで家臣を摂政殿下のもとにやり、帰国を申請させた。殿下もはじめのうちは許されなかったが、家臣らがそのやむをえないわけを縷々陳述したので、はじめて殿下の允裁が出た。
 そこで、四月八日、左の書面を幕府に呈して、賜暇を申請した。

拙者儀、不肖の身をもって、戌年〔文久二年〕中当職を仰せつけられ候て以来、都合六ヵ年に罷り成り候ところ、右については、莫大の御下米金も成し下され候儀に候えども、かねて内証逼迫致し候。下って昨年八月中、国元大火にて、城下の過半焼失し、加うるに非常の違作にて、当卯年出穀までの飯米も差し支え候振合いにこれあり、四民飢餓、離散の程、千万心配仕り候仕合せにて、自然、人気居り会わず、且つ永々の在京については、家中の風俗も相弛み、この節改革向きについても頑固の風習、家来共ばかりにては行き届かざることもあり、かたがたもって罷り下り、取締り向き手近に申しつけたく、よっては、しばらくの間御暇下しおかれたく、この節柄、右よう願い奉り候も至極恐縮の儀に御座候えども、その内実、止むをえざるの仕合せ、御憐察の上、御許容なされ候ようこの段よろしく御執り成し相願い候。以上。





 駿府転封案     老中の人々は、公の帰国を許したが、なお百万、その心を翻えさせようとして、左の内旨を下して、公を引き止めようとした。
 それは「領国が頻年の災危でもって、上下の苦心は察するにあまりがあり、東帰を願うのも真にやむをえないことと察する。思うに、会津は東北に僻在して不便である。顧みるに、海内今日の不安は、西南にあって、東北は何事もない。ゆえに、卿を駿府に移したいと思う。そもそも駿府は、京師と江戸との中枢に位して、枢要な地であるばかりでなく、神祖終焉の地域であるから、甲府とともに、諸侯を封じない所であるが、卿の家系は、他の諸侯とは比すべくもない。且つ多年忠勤をぬきんで、深く信頼しているから、この要鎮たらしめようと思う。ゆえに、東帰の情を忍んで、しばらく待っているように」と言うのであった。
 いくばくもなく、また内旨があって、家臣を駿河につかわし、城代、代官らにはかり、会津との郷村に実数を調べ、領域を按検させた。
 しかし、すでにその時は、大政奉還に際していて、遂にこのことは実現せずに終った。





 【注】

【一 禁裡付】 一巻一六三頁注一を見よ。

【二 親王】 睦仁親王、のちの明治天皇。母は典侍中山慶子(中山忠能の娘)。慶応三年正月九日践祚。時に数え年十六。

【三 准后、立后のこと】 准后は准三后の略。
親王、内親王、諸王、女御、御外祖父母、執政の大臣で、三宮(太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮)に准ずる優遇をあたえられた者。この場合は、孝明天皇妃九条夙子(のちの英照皇太后)である。立后は公式に皇后を立てることをいうが、本文の意味は皇太后冊立(立太后)のことを指すと思われる。夙子は明治元年三月十八日、皇太后に冊立された。

【四 崩御】 孝明天皇の崩御は十二月二十五日亥半刻(午後十一時)であるが、喪を発せず、二十九日辰刻に崩御と発表された。そして、慶応三年正月二十七日大喪が執行された。


【五 諒闇】 天子が父子の喪に服する期間。幕府は在京諸侯および旗本に命じ、大喪の天機奉伺のため、十二月晦日総出仕を命じ、また年始松飾、普請、鳴物ならびに銃隊調練を禁止した。

【六 作冬建言に座して…】 慶応二年八月晦日中御門経之、大原重徳ら二十二人が列参し、これにたいし、十月二十七日晃親王をはじめ列参関係者が処罰されたこと。本書二一九頁を見よ。

【七 大行天皇】 天皇が崩御して、未だ諡を奉らぬ間の称。孝明天皇をさす。

【八 兵庫開港を促すこと頻り】 一九六頁注二にのべたように、四国連合艦隊長州攻撃事件後、列国は条約勅許と兵庫の早期開港とを要求した。しかし朝廷は兵庫については許さなかった。それにしても、文久二年のロンドン覚書によれば、江戸、大阪の開市、兵庫、新潟の開港の期日は、慶応三年十二月七日と定められていた。英国公使パークスは、この履行を強く幕府に要求した。フランス公使ロッシュも、反幕府を支持している英国が武力に訴えても条約の履行を幕府に迫るであろうから、それと対抗するためにも、少なくとも兵庫の開港を実行すべきだと説いた。これにたいし幕府は、長州処分の厄介な問題の解決に全力をそそぐためには、列国との紛争を避ける必要があって、兵庫開港を決意することとなった。
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  1. 2012/11/19(月) 15:11:25|
  2. 京都守護職始末2
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