いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十五  わが公再度参議の恩詔を拝し、これを受ける     『京都守護職始末2』

 わが公感激す     二十三日、わが公は召しによって参内、伝奏衆飛鳥井雅典卿から、左の勅を伝えられた。

先帝の叡慮を遵奉、永々守護の職掌を相励み、その功少なからず、叡感候。これによって、参議に推任され候事。

 また命があり、再度の推任であるから固辞しても允(ゆる)さないということであったので、わが公は、恩命の至渥に恐懼し、それでもなお辞退の念があったので、このことを重臣たちに謀った。重臣たちは口をそろえて、「先帝の叡慮伝々とあり、特に固辞しないようにと言われたのを、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」と言う。
 そこで、ただちに幕府に稟し、五月二日、左の上表をして恩を謝した。

不肖の容保、守護職を命ぜられて以来、先帝の海嶽の厚眷、かつて分寸の功労もこれなく、恐懼仕り居り候ところ、料(はか)らずも天崩れ、地折れ、臣の慟哭、この上なく御座候。なお、報恩の道を日夜に心配仕り候えども、今上〔天皇〕御継述の日なお少なく、臣将順の儀も未だ浅し。
しかるに今般、存じ寄らず先帝の叡慮を遵奉し、永々守護の職掌を相励み、その功少なからずとの叡感思し召され、参議に推任せられる旨仰せ下され、伏謝して感泣す。すでに先年、参議を推任せられるの旨、御沙汰を蒙り、臣が不肖の堪ゆるところにこれなきをもって、先祖正之へ御追贈の儀を願の通り仰せつけられ、臣が栄耀これにすぎざる儀に御座候。
然るところ、またまたこの度の御寵命、重々の天恩、幾重にも辞謙申し上ぐべき儀に御座候えども、微衷を御垂憐のうえ、両朝のかくまでの御重命をこの上固辞仕り候ては、かえって恐縮至極に御座候間、その趣を幕府へも相伺い、謹んで御請け申し上げ奉り候。以上






 四藩主の建白     四月二十三日、慶永卿、豊信朝臣、久光朝臣、宗城朝臣が左の書状を幕府に奉り、意見を述べてきた。

天下の大政は公明正大、至公の極をつくし、明世的当、内外緩急の弁を明らかにし、御施行御座なく候わでは、相行なわれがたき儀もちろんに候。全体救うべからざるの今日に至りたる根由を推察仕り候えば、はばかりながら幕府の年来の御失体より醸し出され候。殊に長防再討の御一挙より、物議沸騰し、天下離反の姿に相及び候次第に御座候。
これによって、明日至当の筋をもって防長御処置急務たるべく、兵庫開港、防長の事件は、大いに緩急、先後、順序あるの段談合の上、しばしば建言仕り候儀にて、とくと退考仕り候ところ、右区別をもって曲直、当否の分を立てさせられ、御反正の御実跡の顕(あら)わるると顕われざるとに相拘わる事につき、虚心をもって御反察あらせられ候よう願い奉り候。
二件につき、朝廷に奉せしめらるべき旨拝承仕り候えども、全国の御安危に関係仕り候につき、是非、至公至大の道をもって、私権を抜かせられ、治久の大策を立てさせられ候よう御座ありたく、重大の事柄黙止しがたく、なお再考の趣言上仕り候。誠惶敬白。(五月二十三日


 これでみると、けだし防長のことを先にし、兵庫のことを後にずべしと言っているもののようである。





 衆論嗷々     二十四日、朝廷は諸侯を召し、この問題を延議せしめたところ、衆論嗷嗷として、ようやく翌朝になって、開港の止むをえないことに決定した。そこで、朝廷は左の勅令を配布した。

長防の儀、昨年上京の諸藩と、当年上京の四藩等、各々寛大の処置を御沙汰あるべく言上、大樹に於ても、寛大の処置を言上これあり、朝廷にも同様に思し召され候間、早々寛大の処置を計らるべきこと。
兵庫開港のことは、元来容易ならず、殊に先帝止めおかせられ候えども、大樹、余儀なき時勢を言上し、かつ諸藩の建白の趣もこれあり、当節上京の四藩も同様に申し上げ候間、まことに止むを得させられず、御差し許しに相成り候。ついては、諸事きっと取締り相立て申すべきこと。
  五月二十四日


 追達
兵庫止められ候こと、条約結約【注一】のこと、右取り消され候。


 この日、久光、豊信の二朝臣は、朝議に参列しなかったのに、「四藩も同様に」云々の言葉があるのは、怪しむべきことのようである。





 再び四藩主建白     つづいて、二十六日に至って、四人の人々が上書【注二】して、意見を述べてきた。その書面いわく、

兵庫開港、長防処置の一件は、当時容易ならざる御大事と存じ奉り候。全体、幕府の長防再討の妄挙は、無名の師を動かし、平威をもって圧倒致すべき心づもりに候ところ、全く奏功に至らず、天下の騒乱を引き出し候次第ゆえ、各藩人離反して、物議相起り候時宜に御座候。ついては、即今、国基を立てさせられ候急務は、公明正大の御処置をもって天下にのぞませられず候わでは、一円治り相付かず候。
長防の儀は、大膳父子の官位旧に戻し、平常の御沙汰に相成り、幕府反正の実跡相立て候儀第一と相心得申し候間、断然明白の実蹟相顕われ候うえ、天下の人心はじめて安堵仕るべく候。第二に、兵庫開港は、時勢相当の処置を立てさせされ、順序を得申すべくかねて勘考仕り候。先に御下問を蒙り候えども、未だ一同、勅問に対しお答え仕らざるうち、前文二件、順序区別をもって幕府へしばしば申し出でおき候ところ、一昨二十四日、長防の儀は寛大の処置を計らるべく、兵庫開港の儀は、当節上京の四藩も同様に申し上げ候間、まことに止むを得させられず御差し許しに相成り候云々の御沙汰の御書付を拝見し、じつもって意外の次第、驚愕に堪えざる仕合わせに御座候。
朝廷よりの御沙汰の儀なれば、容易に申し上げ奉るべき筋これなく、甚だ恐縮の至りに存じ奉り候えども、皇国の重大事なれば、事実相違の儀を黙止し罷りあり候場合に御座なく候間、止むをえず、一応御伺い上げ候。以上。(卯年五月二十六日)






 薩長提携成る     敬親の家臣らが禁闕に向って発砲したごときは、その罪を免かるべきでないことである。しかるに、それを今、何のいわれもなく、官位の復旧を論議するなどとは、じつに理解できないことである。また、「無名の師」云々の口実も、前に論じたごとく、慶勝卿の退兵を曲解したもので、再征と称するが、じつはこれも再征でなくして、退兵したのを再度集合させたにすぎない。
 思うに、この頃、薩長の提携全く成り、薩摩は幕府を攻める口実として、長州再征問題を言い出したのであろう。それにしても、慶永卿らの意中こそ奇怪至極である。





 【注】

【一 条約結約】 『徳川慶喜公伝』によれば「条約結改」となっている。条約改正の意味である。

【二 四人の人々が上書】 四月二十三日の松平慶永・山内豊信・島津久光・伊達宗城連署の建白書は、長州処分を寛大にして、この問題を解決するを先決すべしという勅旨であった。これにたいし幕府は兵庫開港の勅許を主眼としたが、四侯の建議に鑑み、長州処分と兵庫開港の同時解決を奏承することとした。朝議には、慶永、宗城のみが加わり、摂政の要請にもかかわらず、久光は病と称して応じなかった。薩州藩は、二十四日の御沙汰書中に、四藩と幕府と同意見のように扱っているのは、事実と相違していると不満をもち、この点を明らかにする伺書を朝廷に出すことを越前・土州・宇和島に交渉した。宗城はただちに同意し、慶永・豊信は強いて反対しなかったので、薩州藩の手で、二十六日付伺書を四藩の名で提出することとなった。
思うに、薩州としては、異論のきわめて多い両問題につき、幕府と責任をともにするのを嫌ったのである。慶永は、他の三藩と幕府との間を仲介しようとしたが、幕府としては、長州藩の嘆願書の提出をまって、藩主父子の官位復旧、領地安堵の処置をとることで、自己の両目を保とうとし、この方針を固辞したため、慶永の尽力も奏効しなかった。
八月四日、朝廷は、先の四藩の伺書にたいする返答の御沙汰書を出した。その内容は、長州処分の寛大と兵庫開港は幕府と同一なので、御取捨の上仰せ出されたのだというあいまいなもので、慶永は服したが、久光と宗城は承服せず、再度伺書を出した。こうして四侯と幕府・朝廷との関係は悪化したので、慶永・久光・宗城は八月に帰藩してしまった(豊信は早く五月帰藩)。
すでにこの時薩州の藩論は、倒幕の実行にかたまり、倒幕のための薩長芸同盟締結の交渉に着手していた。
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/19(月) 15:27:10|
  2. 京都守護職始末2
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