いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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三  生麦の変     『京都守護職始末1』

 空前の大任     さきに勅使大原重徳卿が西に帰るや、島津三郎もそれに従って西上し、その途中、武州の生麦駅で、英国人が儀従を犯したかどでこれを斬首したが(世にこれを生麦の変とよぶ【注一】)、入京するに及んで、諸公卿はその疎暴を論難するどころでなく、かえって勇敢たのむに足るとなし、殊に先に伏見において浮浪の徒の騒擾をしずめ、今また、勅使にしたがって攘夷督促の綸命をくだし、幕府をしてこれを奉戴させた、その効、大なりというわけで、長く彼を輦下にとどめて守護の任にあたらせようとした。
 しかし、長州土州の二藩がこれを喜ばないので、まだ命を発せずにいたが、幕府はそれをきいて、外藩を京都の守護職にするのは得策でないばかりか、しまいには制令が分岐する害をきたす恐れがあり、人心が帰嚮(ききょう)に迷うようにもならぬとも計り難い、はやく親藩中から守護職を選ばねばならぬと気づいたが、親藩中で重望があり、そのうえ兵力の充実したものを求めるとなると、まず指を越前、会津の両家に屈しなければならない。
 しかしるに、越前の慶永朝臣は現に総裁職にあるから、幕府の儀はわが公にこれをあてようと、まずわが家老横山常徳(主税)を召して、その内意を示した。
 たまたま公が時疫にかかっていたので重臣を登城させ、老中に会って、「いやしくも台命とあらば、何事にせよお受けするのが藩祖からの家訓でもあり、つつしんで命を奉じもしようが、顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信がない。そのうえ、わが城邑は東北に僻在していて、家臣らはおおむね都の風習にはくらく、なまじいに台命と藩祖の遺訓を重んじて、浅才を忘れ、大任に当たるとしても、万一の過失のあった場合一身一家のあやまちでは納まらず、累を宗家に及ぼさぬともはかれぬ。宗家に累を及ぼすことは、すなわち国家に累を及ぼすとおなじで、万死もこれで償いがたい。願わくば微意御諒察下されたい」と言って固辞したが、幕府の有司たちは耳にも入れず、慶永朝臣のごときは、駕で駆けつけて勧告にこれつとめた。わが公は病をおして面接し、ねんごろに奉命をすすめられるのをかたくことわりつづけた。

 



 松平慶永の勧誘     慶永朝臣らはきかず、あるいは書をよせ、あるいは重臣を招くなど、頻繁な勧誘日夜たえずといったありさまであった。いま、左にその一班を示そう。

一翰啓上つかまつり候。秋の余熱なお去り兼ね候ところ、まずもって公方様はますます御機嫌よくいらせられ候条御心をやすんじられるべく候。いよいよの御清栄珍重に存じ候。さてまた、貴恙はいかがあらせられ候や。日々関情の次第、なにぶん御摂養の上、一日も早く御登城ねがい奉り候。
かつまた御家老横山主税よび出し、申しきかせ候儀いかがお聞きとり下され候や。 而して方今、京師の方よりしきりに風説も相きこえ、不穏の様子。殊に薩州屋敷も(御出勤の上委細申し上ぐべく候)いつ暴発の患も料りがたく、そのうえ伝奏より三郎高官位任叙の儀も申し越し(このころ島津三郎に官位任叙の内命があり、後につまびらかである)、刑部殿(一橋慶喜)はじめ一同深くこの節憂痛至極に御坐候。
それについても京師御手薄にてはなにぶん相成りがたく、是非にも御受けなさらず候では、公武合体に至り兼ね申すと存じ奉り候。
当今(この二三日)右の仕合ゆえ、なにとぞなにとぞ一旦御受けにさえ相成り候えば、その上の御内願筋などは小生が尽力申し、是非々々御都合相成り候よう取りはからい申したく存じ奉り候。
昨今かくのごときの儀故、一旦の御受けは速やかになし下されたく、ひとえに以て懇願し奉り候。すなわち、今日も召され候ておたずねもあらせられ、上にも殊の外の御心配に御坐候。私御役前に取り候ても、早々御出勤の上、一旦御受け相成り候えば、大原(重徳)への申訳も相立ち、第一御尊奉筋にとり最上の御都合に御坐候。機会は失うべからず、速やかに御英断なし下され候様願い奉り候。御国元の御都合もあらせらるべく候えども、それまで相待ち候ては、すなわち足下の御受遅滞に及び候ては、上の御尊奉筋に関係致し、容易ならざる儀、右のところ御汲察下さるべく候。早々主税始めへ御談じ、御返答下さるべく候。まずは右用事のみ。早々。不備(八月七日付、慶永朝臣自署春嶽)
     
尚々、時下御自愛専念に候。土津公(会津藩祖先中将正之公の神諡、正之公は徳川二代将軍秀忠の三男である)以来の御家柄と申し、旁々今の艱難を御亮察下され、只今御受け相成り候わば、将軍家の重んじさせられる京師の信義も相立ち、私共に於ても有難く存じ奉り候。
激切の儀申し上げ候は、甚だ恐れ入り候えども、公方様御いとおしく、姑息の様に候えども、御心配の御様子見上げ候えば、落涙の外これなく存じ奉り候。台徳院様(秀忠公の諡)の御血脈の公方様、土津様御末胤の貴兄に候えば、御情においては御同様と存じ奉り候。徳川氏の信不信の相立ち、公武御合体の有無は貴兄の受の断、不断にあり。小生泣いて申し上げ候も、方今台徳院様、土津公あらせられ候わば、必ず御受けに相成り申すべくと存じ奉り候。末世に候えども御同情と存じ奉り候。以上。
また一翰謹んで啓上つかまつり候。とかく蒸熱に御坐候ところいよいよ御安情、珍重に存じ奉り候。然らば、今朝申し上げ候儀いかが御聞取り下され候や。
何分関心の次第、日々京師の事については一同焦慮罷りあり候。
今日も御前へ罷り出で候ところ、段々の御たずねもこれあり、御受け御待兼ねあそばされ候御様子にあらせられ候。それにつき今夕退出より登館仕り、御病床へ罷り出で御談判致したく候。早々。(慶永朝臣署名、春嶽)






 【注】

【一 生麦の変】 文久二年(一八六二)八月二十一日、島津久光は兵四百をしたがえ、江戸を出発、帰国の途についた。行列が生麦にさしかかった時、婦人をまじえたイギリス人四名が騎馬でくるのに出会った。先供の者が、手まねで引きかえせと合図したが、英人は一旦は、騎馬のまま道のわきにさけたが、久光のかごが近づくと、引き返えそうと馬の向きを変えたため、かえって行列にふれる結果となった。攘夷熱のたかかった藩士奈良原喜左衛門や有村武次(海江田信義)らは、その一人を無礼者と斬り殺し、他の二人を負傷させた。イギリス側は翌年二月、正式に陳謝と償金十万ポンドを幕府に要求し、薩州藩には下手人の処刑と遺族扶助料、慰謝料二万五千ポンドを要求した。幕府はこれを承諾したが、薩摩は下手人は行方不明と称して要求を拒否した。そのため、七集のイギリス艦隊は、翌年七月二日、鹿児島城下に砲撃を加え、薩藩も反撃し、戦闘は三時間半に及んだ。結局、犯人は捕え次第処刑する、償金は払うということで、九月、薩英間に講和が成立した。生麦事件は、攘夷の実行のあらわれとして、全国の志士に刺激をあたえ、外国側も強硬な対抗策をとる原因の一をなしたが、薩英戦争は、かえって、その後の両者の接近をもたらすきっかけとなった。

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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/10/25(木) 17:02:01|
  2. 京都守護職始末1
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