いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十七  政権奉還の議起る     『京都守護職始末2』

 公然たる廃幕論     この時にあたり、雲上の風色はまったく一変して、次第に幕府を疎外するのみならず、ややもすれば欠点を挙げて、これを強調し、公然と廃幕を囂々(ごうごう)するに至った。
 ゆえに、わが公が一歩退けば、たちまち公武の間は全く疎隔し、また一歩進めば、たちまち朝議の紛乱を招く有様である。ただわずかに、先朝から信頼を寄せていられる二条殿下と中川宮から、朝廷の消息を伺うのみで、それだけが、からくも公武一和をつなぐ一すじの細糸であった。





 後藤象二郎来る     果せるかな、十月四日、土佐藩士の後藤象二郎が、わが藩士に会見を求めてきた。そこで、外島義直と手代木勝任、上田伝治に合わしめた。象二郎が言うには、
「方今天下の形勢は、外患日に迫り、内は人心和せず、今、一大革新を断行しなければ、おそらく手のつけられない事態に至るであろう。寡君は憂慮措くあたわず、ひそかに思うには、方今、朝命と幕命とが二途に出て、往々適従するところに迷わしめ、特に外国交際のごときは、最も至難を極めている。これを善処するには、政令が一途に出て、人心の帰嚮を一定するの一あるのみ。そもそも徳川氏が政権を執って以来三百年になる。どうして幕府が百世もつくづくことがあろうか。今や政権を万世一系の皇室へ返し奉り、この時勢の危殆を挽回し、国威を日々に新しく拡張し、皇室を泰山の安きに置くのには、ただこの一策があるのみ、と涙をふるって、二、三の家臣に命じ、今回、政権の奉還を幕府に建議した。わが藩と貴藩とは、日頃交誼親眤の間柄であるから、腹心を吐露して申し上げるのだ。どうかこの議に賛助してほしい。万一あるいは賛助されないとしても、わが藩ではこの議を中止するわけにはいかない。すでに他の一、二藩と約するところがあり【注一】、期限もまた旦夕に迫っているゆえに、告げる次第である」
 と言った。わが家臣は、帰って報告した。
 すでにして、将軍家もまたわが公を召して、土佐藩の建議を示し、採納するつもりでいるとの意中を告げた。わが公は、その英断を賞揚し、遂に政権奉還の議は決した。
 わが公は家臣を諭して、「政権が将門に帰してより、皇室の式徴は、志あるものの常に慨嘆するところであった。今や大将軍家は、大義に照らし、時勢に鑑みて、断然明決された。これよりはその意を体して、ますます忠誠をつくし、万一の報効を勉めねばなるまい。汝らも、よくこの意を体し、努力して事に従え」と言われたので、一同粛然としてその命を奉った。
 この日(十月四日)、後藤象二郎が二条城に登城し、老中板倉勝静朝臣を通して「今日の急務は、よろしく天下の広議を集め、一新更張の方針をとり、皇国独立の基礎を鞏固(きょうこ)にし、それによって外侮を防ぐことが第一である。事一日おくれれば、一日だけ宇内の大勢からおくれることになる」と上言した。
 勝静朝臣はこの言を採納し、さらに諸藩の意見を諮詢したいと答えた。





 各藩の意見を徴す     十三日(十月)、幕府は在京五十余藩の重臣らを二条城に召し(わが藩は内藤信節、外島義直、広沢安任らが登城した)、将軍家みずから左の書を示して、意見を徴した。

わが皇国、時運の沿革を観るに、昔王綱〔天子のおきて〕紐を解きて、相家権を執り、保平の乱【注二】、政権部門に移りしより、わが祖宗に至り、さらに寵眷(ちょうけん)を蒙り二百余年、子孫相受け、われ、その職を奉ずといえども、政刑当を失うこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致すところ、慚懼に堪えず候。いわんや当今、外国との交際日に盛んなるより、いよいよ朝権一途に出でず候わでは、綱紀立ちがたく候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し、広く天下の広議をつくし、聖断を仰ぎ、同心協力して、ともに皇国を保護し、必ず海外万国と並び立つべく、わが国家につくすところ、これに過ぎず候。さりながら、なお見込みの儀もこれあり候わば、いささかも忌諱を憚らず申し聞かすべく候。





 【注】

【一 他の一、二藩と約するところがあり】 慶応三年六月、土州藩の後藤象二郎は、山内豊信の命によって長崎から京都におもむく時、坂本竜馬とともに立案したのが、「船中八策」といわれるもので、政権を朝廷に帰し、広義政体の採用によって新政を樹立する方策であり、在京藩重役の同意をえて、これにもとづく大政奉還の建白をすることに決した。そこで象二郎は、薩州藩士小松帯刀、西郷吉之助を説き、その同意をえ、ついで芸州藩家老辻将曹とも会談し、賛成をえた。七月象二郎は、藩地の意向をまとめるため帰藩し、山内豊信の同意をえて、正式の藩論を決した上で、九月四日京都に帰った。しかしこの二カ月の間に、薩州藩の西郷と大久保は、挙兵倒幕の方針を実現する準備を急速にすすめていた。そして、大久保は薩藩の代表として長州を訪問し、九月十九日木戸孝允、広沢真臣ら長藩代表との間に、出兵盟約をむすび、別に薩州藩主島津茂久の弟島津備後は、九月十七日入京した。上京した後藤は、小松、西郷と合ったが、西郷は挙兵倒幕の計画を語って、大政奉還に関する貴藩との盟約を破棄する旨申し入れた、後藤は、芸州の辻の賛成をえて西郷説得に努め、ようやく十月二日、建白の提出に異論ない旨の言質をえたのである。こうして十月三日、後藤は老中板倉勝静を訪れ、山内豊信よりの大政奉還建白書を提出した。

【二 保平の乱】 保元平治の乱の略。保元の乱は、保元元年(一一五六)鳥羽法皇と崇徳上皇との不和を中心として起り、藤原頼長が崇徳上皇を奉じて政権をとろうとして、源為義、源為朝らを味方にして挙兵したが、官軍の源義朝、平清盛の軍に敗られ、上皇は讃岐に遷された戦乱。平治の乱は、平治元年(一一六〇)藤原信頼と源義朝が京都で謀叛を起し、源氏が平氏の軍に破られた戦乱。なお、第一四章注一参照。
この二つの戦乱によって、朝廷と藤原氏の勢力はとみに衰え、源平二氏を中心とする武士階級の興る気運がひらかれた。
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  1. 2012/11/19(月) 15:55:18|
  2. 京都守護職始末2
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