いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十九  密勅     『京都守護職始末2』

 賊臣慶喜を殄戮せよ     この月(十月)十三日、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の諸卿から、薩摩、長門の二藩に、左の密勅【注一】を下し賜わったと言う。

詔(みことのり)す。源慶喜、累世の威を籍(か)り、闔族(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)して顧みず、罪悪の至るところ、神州まさに傾覆せんとす。朕、今民の父母として、この賊にして討たずんば、何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや。これ、朕の憂憤のあるところ、諒闇も顧みざるは、万止むべからざるなり、汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、もって速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安きに措(お)くべし。この朕の願い、敢えて懈(おこた)ることあることなかれ。
 慶応三年十月十三日奉
  正二位 藤原忠能
  正二位 藤原実愛
  権中納言 藤原経之


 これと同時に、わが公と定敬朝臣を誅伐すべき旨の密勅をも下されたと言う。

   会津宰相
  桑名中将
右二人、久しく輦下に滞在し、幕賊の暴を助け、その罪軽からず。これによって、速やかに誅戮を加うべき旨仰せ下され候事。
 十月十四日
  忠能
  実愛
  経之

 
 嗚呼、わが公は、文久二年守護職の大任を受けて登京して以来、六年の間、公武の間に周旋して、幕府をして朝廷に尊崇せしめ、先朝の叡旨によりて公武一和を謀ったのに、はしなくも天譴に触れ、遂にこの密勅が出るに至ったのは、天か、命か。それとも姓駑にして至誠九天に達しないためであろうか。





 疑うべき問答録     最近出版された。岡谷某が正親町三条実愛公に倒幕の詔に関して質問した質問録【注二】というものをみると、

問 倒幕の勅書を薩長二藩に賜わったのは、いかなる次第でしょうか?
答 余と中御門の取り計らいだ。

問 中山公と(のの誤であろう)御名もありますが、これはいかなる次第でしょうか?
答 中山故一位は、名ばかりの加名である。それは岩倉(岩倉具視)の骨折りだ。

問 勅旨と称するものと、綸旨(りんし)との違いはどうですか?
答 薩長に賜わったのは綸旨というべきだろう。

問 綸旨の文案は何人(なんぴと)の起草に係ったものですか?
答 玉松操【注三】と言うものの文章だ。玉松は至って奇人であった。

問 筆者は何人(なんぴと)ですか?
答 薩州に賜わったのは余が書いた。長州に賜わったのは中御門が書いた。

問 右のことは二条摂政(二条斉敬)や親王方と御協議のあったことですか。
答 右のことは二条にも親王方にもすこしも漏らさず、極内々のことで、自分ら三人と岩倉の外、誰も知るものはない。

 
 とある。摂政関白殿下にも知らせ賜わなかったことであるなら、いったい如何なる手続きで執奏せられたのであろう。その手続きが踏んであったのなら、ここに記されてあるべきであるが、何の記載もない。疑うべきの極みである。





 将軍参内     十五日、将軍家は召しによって参内。わが公が扈従したが、その時、左の詔を賜わった。

祖宗以来御委任、厚く御依頼あらせられ候えども、方今、宇内の形勢を考察し、建白の旨趣尤もに思し召され候間、聞こし召され候。なお、天下と共に同心力を致し、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉るべく御沙汰候事。

大事件外夷の一条は、衆議をつくし、その外諸大名の伺い仰せ出だされ等は、朝廷、両役に於て取り扱い、自余の議は、召しの諸侯上京の上御決定これあるべく、それまでのところ、支配地、市中取締り等はこれまでの通り、追って御沙汰に及ばれ候事。






 軍職を辞退     これによって、二十四日(十月)、将軍家は左の上奏をして、軍職を事態した。

臣慶喜、昨秋相続仕り候節、将軍職の儀、固く御辞退申し上げ、その後、厚く御沙汰を蒙り候につき、御受け仕り、奏職罷りあり候ところ、今般奏問仕り候次第もこれあり候間、将軍職を御辞退申し上げ奉りたく、この段奏聞仕り候。以上。

 即日、左の裁可を賜わった。

諸藩上京の上、追って御沙汰これあるべきこと。





 わが公の進退     ここにおいて、わが重臣らは、公の進退を評議して、「大将軍がすでに政権を奉権し、軍職を解かれることを奏請したとなれば、元来、幕府が設けた守護職の役を依然として奉職していては、事理を解しないように思われるであろう。その上、幕府を離れて独立することは、藩の遺訓に悖(もと)ることになる。速やかに職を辞されて、幕府と存亡を共にされんことを」ということになった。
 わが公は、この論をきいて、「なるほど、その議も一理あるが、朝廷がお召しの諸侯が上京し、衆議を経る時までは、旧通り幕府が百事を執り行なうようにということである。このことを知っていて、予が急に職を辞退すれば、おそらく軽忽のそしりを免れないであろう」と言われた。
 よって、老中板倉勝静朝臣に相談したところ、まず辞退を止めて、単に進退伺いを出すべしということになり、十一月朔日、左の書を呈した。

この度御改革を仰せ出でられ候については、守護職の儀、如何心得てしかるべきや、伺い奉り候。

 即日、「追って相達し候までは、これまでの通りと心得らるべく候」と指令があった。





 領国へ親書     十月十六日、わが公は、家臣内田武八(この頃、藩の用所、密事頭取の役にあった。密事頭取は幕府の奥祐筆頭取に相当する)を会津につかわし、親書を持たせて、幕臣を戒飭させた。その書面は、

態(わざ)と武八をつかわし候。ここもと容易ならざる形勢は、委曲を家老共より申しつかわし、承知致し候筈に候。この上は拙者の恃(たの)むところは、家老はじめ、一和一力に相成り、あらん限りの力をつくし、累代の御恩を報じ奉り候外、他事これなく候。
右はもとより覚悟の事に候えども、今日俄かにかくまで切迫致し候ことは、じつに不慮の儀に候。この上は、いかなる不慮の儀生じ候も計りがたく、ついても、軍政筋をはじめ改革をもっとも第一の急務と致し候ところ、右は明春、ここもとへ打寄り決議候筈に候えども、前段の都合については、大儀ながら至急に登京致しくれ、ただちに論決の上、万事、今日より手卸し致し候よう致したく候。
しかし、若狭も在国の事にこれあり(これより前、わが世子喜徳公は、九月十一日京師を発して東下した)、ことに留主の儀は古より大任と致し候ことに候えば、これまた申し合わせの上、一人は居残り、国内の儀いささかも案ずる筋これなきよう、破格に吟味をこらし、二百里の外相隔たり候とも、ここもとと合体し、予が苦心を察し、憤発興起致しくれ候よう頼み入り候なり。






 長藩奉命せず     さきに幕府が勅を奉じて、長門藩の重臣と末家の輩を大阪に召したが、来ようとしなかった。この頃になって、長州藩士らが、京師に潜入しはじめたという流説が紛紛と飛んだ。
 そこで、十一月朔日、幕府は左の書を奉って、勅旨を候した【注四】。

長坊の処置重大の事件につき、改めて衆諸侯の公議の上、朝廷より御沙汰あらせられ候御儀と存じ奉り候。

 十四日になって、左の勅が下った。

毛利大膳家老以上上坂のこと、幕府より沙汰これあり候ところ、なお、朝廷より御沙汰これあり候までは、上坂見合わすべき旨、相達せらるべく候事。

 よって、幕府は安芸藩に通牒して、このことを長門藩に通達させたが、長門藩は命を無視して、毛利淡路名代毛利内匠らは国を出て、十二月朔日、すでに摂津の尼ガ崎まで来たとの報があった。そこで幕府は、朝命を伝え、大阪で後命を待つように言ってやった。





 【注】

【一 密勅】 薩州藩は、一旦は土州藩の大政奉還建白の企てに同意したが、本心は挙兵討幕であり、大政奉還の成果を一気にくつがえす秘策、すなわち討幕の密勅降下を画策していた。薩州藩は、西郷、大久保が藩論を指導していたが、藩上層には倒幕を支持せぬものも多く、そのためにも詔勅の権威が必要であった。岩倉具視と手をむすんだ大久保、西郷は、十月八日中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之に詔勅の降下を要請し、岩倉の腹心玉松操の起草した倒幕の詔勅案を中山を経て「上奏」したという。但し「上奏」も「宸裁」も、それを証拠だてる史料は見当らない。この密勅降下は公卿では岩倉、中山、正親町三条、中御門以外は知るものがなかったが、同じ十四日、将軍慶喜は、武家伝奏を通じて、大政奉還の上奏を差し出した。十月十五日、内御所において各親王、摂政以下の正式朝議が開かれ、慶喜の奏請を勅許するその御沙汰書が出た。討幕の密勅が出ると日を同じくして、大政奉還建白が勅許されたことは、討幕の密勅の名義を失わせる効果をもつものであった。

【二 質問録】 岡谷繁実編「嵯峨実愛維新内外事情問録」(史談会速記録)。岡谷繁実(一八三五~一九一九)は館林藩士で、漢学文才に長じ、正親町三条実愛の知遇を得た。征長の役に際し、長州救解のために朝廷・長州間の裏面工作をおこなった。「名将言行録」等の著がある。

【三 玉松操】 一八一〇~七二。侍従山本公弘の第二子に生まれ、幼年、宇治醍醐寺に入り僧となったが、後還俗して山本毅軒、また玉松操と改称した。博学で、とくに皇学に詳しく、岩倉具視の知遇を得、その腹心として謀議に参画した。明治二年堂上に列せられ侍読となったが、新政を喜ばず辞官した。

【四 勅旨を候した】 長州藩は、先に幕府から末家および家老の上坂を命ぜられていたので、これに応ずるとの理由で、徳山藩世子毛利元功、支族吉川経幹の名代として家老宮庄主水、本藩家老毛利内匠に率兵上坂を命じた。そこで幕府はこの企てを阻止するため、末家、家老召致の中止を奏請し、十一月十四日の勅となったのである。
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  1. 2012/11/19(月) 16:15:02|
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