いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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三十一  王政復古の詔勅     『京都守護職始末2』

 摂政・幕府等廃止     九日、王政復古の詔勅を下し賜うた。

徳川内府、従前御委任の大政返上と将軍職辞退の両条は、今般、断然と聞こし食(め)され候。そもそも癸丑〔嘉永六年、ペリー来航〕以来、未曽有の国難にて、先年も頻年宸襟を悩ませられ候次第は、衆庶の知るところに候。
これによって、叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基を立たせられ候間、自今、摂関、幕府等廃せられ、総裁、議定(ぎじょう)、参予【注一】の三職を置かれ、万機を行なわせられ、諸事神武創業の始めにもとづき、縉紳(しんしん)、武井、堂上、地下(じげ)の別これなきの至当の公議をつくし、天下と休戚(きゅうせき)を同じくあそばさるべき叡慮に候条、各々勉励し、旧来の驕惰(きょうだ)の汚習を洗い、尽忠報国の至誠をもって奉公致すべく候事。


 また勅して、内覧、関白、国事掛、議奏、武家伝奏、守護職、所司代はすべて廃せられた。
 ここに至って、会津、桑名等佐幕藩の九門守護を罷(や)め、薩摩、土佐、安芸の諸藩がこれに代った。
 よって、わが藩は唐門、蛤門の守衛を土佐藩に交付し、また旧守護職邸にいた婦女たちを、ことごとく黒谷と鞍馬口の邸に移し、漸次会津へ帰還させた。





 幕臣らの鬱憤     はじめ十一月十四日、内府の政権奉還の上表があってから、堂上、諸侯らはたちまち内府以下守護職、老中、所司代等を疎外し、朝議があっても、これに与らしめず、諸藩士中の過激の徒はわれわれを仇敵視し、往々討幕を喋々した。
 徳川家旗下の諸士等は、この上表があってから、俄然権力を失い、心ひそかに平らかならざるものを抱いていたが、日々に情勢がわれに非になってゆくのを見聞するごとに、層一層、その念を増し、憤慨を禁じ得ない。「そもそも今回の内府公の英断は、本朝空前の盛挙であって、けだし人臣が上に奉ずる道として、これ以上の道はない。ゆえに、朝廷でもまたその至誠を嘉賞あって、天下とともに同心して力を致し、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉るようにと詔があったのである。しかるに、かの諸藩等は、みだりに猜疑を逞しゅうし、公卿を誘惑して、わが公の至誠を讒害(ざんがい)し、かえって敵視させるとは何ごとであるか。君辱(はずか)しめらるれば臣死す、という言葉があるが、今がその秋(とき)である」と、口々に論じて喧囂を加えた。
 しかし、今や九門の守護もまた佐幕藩の手から去って以来、わが藩士や桑名藩士らも旗下連と和同して、おのおの切歯扼腕(せっしやくわん)し、機会を待ちかまえている有様であった。 





 一触即発     これを見て、わが公と定敬朝臣らは、二条城に入り、まず旗下や藩士等を切論懇告して、その気鋒をゆるめようとした。九門守衛の諸藩兵らも、この状況を見て、真意のあるところを悟らず、ひそかに往年の長門藩士の兇逆になぞらえて、ことさらに兵威を張り、二条城と対峙する勢いを示した。
 京中の人心は、これがために恟々として、荷担して起つまでになった。
 十一日、大阪にあった毛利内匠が、勅によって、兵を率いて京師に入ってきた。それを知ったわが衆は、さらに憤慨の度を高め、禍機の切迫は、ますます度を加え、旦夕を料(はか)りがたい状態となった。





 闕下の血を恐る     十二日、内府は、俄にわが公を召し、就封の暇を賜い、また馬を賜わった。
 つづいて、徳川慶勝、松平慶永の両卿が二条城に罷り、内府に謁して、目下の形勢について大いに危懽していることを述べ、速やかに旗下連やわが藩、桑名の勢を大阪城にうつし、禍乱を末萠に鎮定すべきことを勧めた。内府も、これを可として、わが家老田中玄清を召して「予、つらつら刻下の形勢を視るに、ついには君側の奸を清掃しなければなるまいと思う。しかし、闕下(けっか)を血でけがし、宮禁を驚動せしめると、かの毛利敬親の臣らの行為のようなことになることを恐れている。ゆえに、しばらく大阪城に避け、旗下の人心を鎮定しようと思う。宰相(わが公)も随伴して来るように」という命を下した。
 そして、左の上疏を草して、慶勝、慶永の二卿に託して朝廷に上(たてまつ)り、即日、二条城を出発した。わが公と桑名侯らも、藩士を率いて、これに従った。

防長御処置の儀につき、御尋ねの上叡慮の通り仰せ出だされ、異議申し上げ候もこれなき筋に候えども、万一異存の輩もこれあり、騒動に及ぶ儀も候わば、御幼君にもあらせられ候折から、自然、右様の儀これあり候わば、御驚動はもちろん、皇位も如何ならせらるべきやと深く叡慮を悩まされ候御次第にて、鎮撫、説得の力をつくし候よう御沙汰の趣、畏り奉り候。
その後、宮闕戒装をもって御固めの上、非常の御改革を仰せ出だされ候については、別して鎮撫方を深く痛心仕り候。諸役人はじめ、今日まで精々相さとし置き候えども、なにぶん多人数の鎮撫方深く心配仕り候。不肖ながら、誠意をもって尊王の道を尽し、罷りあり候えども、徒らに下輩の粗忽より水泡に属し候よう相成り候ては、この上にも深く恐れ入り奉り候儀につき、右人心折合い候まで、暫時大阪表へ罷り越し申し候。
右はまったく末々の者を鎮撫致し、禁闕の下、御安心の御場合に仕りたきまでの儀に御座候間、微衷の程、御諒察成し下されたく候。尤も、伺済みの上出立仕るべき儀に候えども、かれこれ手間取り候内に、万々一の軽挙の過誤より国家の大事を牽き出し候ては、かえって恐れ入り奉り候につき、すぐさま出発仕り候儀に御座候。よって、この段申し上げおき候。以上。


 尾張、越前両侯もまた、左の書を上(たてまつ)った。

この度、内府、政権を帰し奉り候につき、旗下軽輩の者にいたり、心得違いこれあり、自然、輦轂(れんこく)の下紛擾に相成り候ては、御幼帝にもあらせられ候折から、別に恐れ入り候間、人心の折合い候まで、暫時下坂、精々鎮撫行き届き候上にて、速やかに上京、御沙汰を待ち奉り候方然るべきやと存じ奉り候。会、桑二藩の儀も、一同召し連れ、一と先ず下坂、海路にて発途仕らせ候筈に御座候。
右は、伺済みの上、登程仕るべき筈に候えども、かれこれ機会を失い、万一不慮の儀出来候ては、皇国の大害につき、止むをえず即刻発途仕らせ候。内府に於ても、伺済みの上取り計らい候心得に候ところ、両人にて機会を熟慮し、相勤め申し候。右の儀は、まったく臣ら両人の取り計らいに候間、御譴責も御座候わば、謹んで甘んじ請け候心得に候事。






 京師を去る     越えて数日、わが藩は、京師留守居内藤信節、諏訪頼徳らが旧守護職邸を土佐藩に引き渡して下坂した。ここに至り、徳川の旗下と会津、桑名の藩士は、ことごとく京師を去った。





 【注】

【一 参予】 参与が正しい。総裁は有栖川宮熾仁親王、議定には純仁親王・晃親王・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・徳川慶勝・松平慶永・浅野茂勲・山内豊信・島津茂久、参与には大原重徳・万里小路博房・長谷川信篤・岩倉具視・橋本実梁が任ぜられ、ついで尾州・越前・芸州・土州・薩州の五藩士の中から後藤象二郎・西郷吉之助・大久保一蔵ら十五名が参与に任命された。これにたいし二条斉敬・朝彦親王・九条道孝・大炊御門家信・近衛忠煕・鷹司輔煕・近衛忠房・徳大寺公純・一条実良・広幡忠礼・柳原光愛・葉室長順・日野資宗・飛鳥井雅典らは罷免、参朝を停められた。
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/19(月) 17:53:16|
  2. 京都守護職始末2
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