いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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三十四  伏見開戦     『京都守護職始末2』

 悉く水泡     この日、わが前駆の隊が伏見に到達するや、関門守衛の諸藩兵が、急に関門を鎖(とざ)して、「徳川内府が兵を率いて入京することは、朝廷の禁ずるところ」と称して、あえて門を開かない。
 わが前隊は、これに答えて「内府は、召勅によって入朝するのである。兵を率いているのは、警戒、自衛のためにほかならない。朝廷が入京を禁じられるとは、われわれは未だ聞いていない。たとえ真に勅命で禁ぜられたとしても、これを犯す責任は、内府甘んじてこれを受け、決して累を諸君に及ぼさない。どうか聞いてほしい」とかれこれ問答をしているうちに、突然、彼の方より砲撃してきた。
 武門の習い、どうしてこれを黙過することができよう。ここに至って、わが公が多年辛苦し、尽瘁してきた公武一和は、むなしく一朝の水泡と化し去り、遂に戊辰変乱の基となった【注一】のである。噫(ああ)。





 【注】

【一 戊辰変乱の基となった】 明治元年正月二日、旧幕軍は、会津・桑名の藩兵を先鋒として京都に向け進軍した。これより先、朝廷側では、岩倉具視は、徳川慶勝・松平慶永の斡旋に期待するとの穏和論であったが、参与の大久保一蔵・西郷吉之助は討幕の強硬論を主張した。三日の朝議は、慶喜に上京中止を命ずることに決したが、すでに二日夕刻には、兵庫沖で旧幕府軍艦と薩州藩船との間に放火が交えられ、三日午後五時頃から、鳥羽、伏見で戦闘がはじまった。結果は薩長軍側の勝利におわった。
六日、慶喜は松平容保、松平定敬らを従えて、夜にまぎれ大阪城を脱出し、軍艦に投じて十二日江戸城に帰った。正月七日慶喜追討令が発せられ、十日には容保、定敬をはじめ旧幕府要路の官位は奪われた。東征大総督熾仁親王の指揮する京都軍は、三方より江戸に進撃し、三月十五日を期して江戸城総攻撃を行なう予定であったが、英国公使パークスの斡旋もあり、西郷吉之助と勝海舟との会談によって慶喜は恭順謝罪し、四月四日京都軍は無血入城した。
この日慶喜は水戸におもむき、藩校弘道館の一室で謹慎した。閏四月徳川氏の処分が決まり、田安亀之助(家達)が家督をつぎ、駿府七十万石に移封され、慶喜も駿府に移った。
他方、容保は二月十六日江戸を発して会津に帰ったが、藩では、薩長にたいする主戦論が支配し、戦備を整えるとともに、まず庄内藩と同盟をむすんだ。閏四月十一日には、仙台藩、米沢藩の呼びかけに応じ、盛岡・二本松・守山・棚倉・中村・三春・山形・福島・上ノ山・亀田・一ノ関の奥羽諸藩の重臣が白石城に集り、会津藩の救解を決議し、その恭順謝罪をみとめてほしいとの連署嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。そしてこれが却下されるや、五月三日二十五藩は奥羽列藩同盟を組織して対抗したが、これより先、閏四月二十日よりすでに各所で京都軍と戦闘をはじめた。戦況は京都軍に有利であり、七月二十九日二本松は落城し、九月三日米沢藩は降伏し、同十五日には仙台藩も降伏した。
参謀板垣退助の指揮する京都軍は、八月二十日より会津攻撃を始め、老幼婦女二千をふくめて、数千の籠城する若松城を包囲すること約一ヵ月に及んだ。ついに九月十六日、容保は降伏を申し入れ、二十二日開城し、容保、喜徳(余九麿)父子は滝沢村妙国寺に入り、藩兵も猪苗代で幽閉された。会津落城後間もなく盛岡、庄内等の諸藩も降り、ここに道北地方の戊辰戦役は終った。戦後の処分で、容保父子は永禁錮、その封土は没収されたが、明治二年十一月三日、松平家は容保の子容大を立てて家名を興し、陸奥斗南の三万石をあたえられた。ついで、五年正月六日、容保父子は、松平定敬等とともに赦免された。


〔下巻おわり〕
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  1. 2012/11/19(月) 19:17:26|
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