いがぐり史料館

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山内容堂の建白

山内容堂の建白

 慶応三丁卯年十月四日、山内豊信朝臣は薩長両藩の密に約して討幕の師を挙げんとし、芸州藩もまたこれに加わりたるを知り、天下の大乱に至らんことを憂へ、その家臣後藤象二郎、福岡藤次、神山佐多をして大阪に行きて建白書を大将軍徳川慶喜公に呈せしむ、次いで後藤象二郎等密に我が藩士に会合せんことを求めたるに依りて、公用人外島機兵、同手代木直右衛門、同上田傅治、これに面会す、象二郎いわく、このごろ天下の形勢外患日に迫り内憂もこれ極れり、早く経国の大策を定めずんば復た如何ともすること能はざるに至らん、寡君容堂深くこれを憂へ、以爲(おもえ)らく今や政令朝幕の二途に出ては人々適従する所を知らず、外国に接するが如き最も手を下し難し、故に今日の急務は先づ政令一途に出て、以て人心を収めんことをとらざるべからず、抑々幕府政権を執りて以来ほとんど三百年なり、然れども豈に能く百世の幕府あらんや、この際よろしく政権を皇室に奉還し上下議員を設けて政体を確立すべし、時勢を制し国を張り、皇室を泰山の安きに置くは唯この一策あるのみ、寡君及二三の家臣に命じて政権返上を建白せしむ、貴藩と弊藩とは平素交際親密なるを以てあえてこれを吐露す、願わくばともに尽力せられんことを、假令意義あるもすでに一二の藩と約する所あれば竟に中止すべからず、期亦旦夕に迫れり、請う熟慮して速やかに決答せられよと、三人帰り報ず、然れども議容易に決せず、すでにして慶喜公もまた我が公及び執政に土州藩の建白を示しこれを採納するの意を告ぐ、我が公すなわちその英断を称揚し遂に政権返上の議決す、これにおいて我が藩士中あるいは不平の言をなす者あり、我が公これを諭していわく、政権部門に帰してより皇室の式微なるは志士の慨歎する所なり、今大将軍大義を明にして、時勢を察してもってこの更革の議を決せらる、自今この意を体して皇室を翼戴すべきのみ、汝らみだりに議することなかれと、藩士これを服鷹して違はざるに至れり。
 この日(十月四日)、後藤象二郎二条城に至り、老中勝静朝臣に就きて説いていわく、このごろの急務はよろしく天下の公議を集め、政令を一新し、皇国独立の基礎を強固にし、以て外侮を防がざるべからず、事一日を緩うすれば一日宇内の大勢に後れんと、勝静朝臣これを納れ諸藩の意見を諮詢すべきを答う。
 十月六日浅野長勲朝臣またその藩相辻将曹をして、建白書を幕府に提出して時勢を論ぜしむ、この日薩州藩大山格之助等兵一大隊を率いて周防三田尻に来るという。
 十月八日慶喜公我が公に言ういわく、曩日原忠成の横死あり、板倉勝静香、永井尚志等必ず戒心あらん、よろしく新選組をしてその登営往来を護衛せしむべしと。

{安政年代より文久年代に至り、浮浪の徒京都において跋扈を極む、江戸において大に浪士を募り寄合鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎、松岡萬等をしてこれを統轄せしむ、文久三年家茂将軍上洛の時、列外の警衛として中山道をへて京都に入る、蓋しこれをもって京都の浪士を圧せんとする策なりき、その京都に着するや議論嗷々(ごうごう)として挙動もまた粗暴を極む、英人の来り迫るの報あるや、東帰して攘夷の先鋒たらんことを望むものあり、また京都に止りて将軍を守衛せんことを望むものあり、鳩翁等力これを制御する能はず、ついに東帰せんとする者をば鳩翁自ら率いて東帰す、後これを新徴組と称し、庄内藩主酒井左衛門尉に付属せしめ江戸の保安に当らしむ、その京都に止まらんと欲する者を、会津家に付属せしめこれを新選組と云い京都の取締に当たらしむ、その壬生寺に止宿するにより世これを壬生浪士という、新選組規律厳粛士気勇悍守護職の用をなせる多し、初め芹沢鴨これが長たりしが後近藤勇これに代わり土方歳三次長なり}

 十月九日新選組隊長近藤勇守護職邸に来り報じていわく、隊士村山謙吉は土州浪人なるがその探知するところによれば、今や長州人召に応じて上京するに際し薩州は長州に勧むるに目下容易に上京すべきの秋にあらず、ただ戎装して大阪に来るを可とす、幕府必ずその戎装を厳責すべし、その時に臨んで歎願と称して入京せば、これを機として薩州兵は二条城を攻め、土州浪士、十津川浪士は守護職邸を襲い、新選組宿舎は他の浮浪の徒をして当たらしむべしと、この約已に成りてこの月十五日を期とし変をなすの策あり、ただし長州兵大阪に来らずば事を発せざるべしと、この事は独り謙吉のみならず、本国寺に住する水戸人のひそかに土州浪士に応ずる者を縛して鞠門して得る所もまた同じ実に危急旦夕に迫れり、速やかに戒厳せらるべしと。
 同十日慶喜公、板倉勝静朝臣をして政権返上に就き、ひそかに松平慶永朝臣に問はしめたるが慶永朝臣は賛成に躊躇せり。
 同十二日慶喜公は老中その他大目付、目付諸臣を召して、政権返上に就き諸藩に諮問せらるべき所の書を示してその意見を問う。諸臣唯々として命を奉ぜしも心中遺憾を抱くの徒少なからず、就中老中格大河内正質朝臣、大目付滝川具挙、陸軍奉行竹中重固、若年寄並外国総奉行平山敬忠等憤慨して幕威を維持せんとす。 

{徳川幕府の末年においては、重臣の大目付、目付等を集めて大事を議せしむることありき、本来大目付は老中に属し大名に関する事を監察し、目付は若年寄に属し旗本に関する事を監察して、各これを報告する事を勤めとす、而して大目付は三千石高にて布衣席を有す、諸大夫、布衣役高に就いては下の幕府陸軍武官制度の説明を見るべし。} 

この日幕府より在京の諸藩へ左の令あり。

国家之大事見込御尋之議有之候間詰合之重役明後十三日四ッ時二条城へ罷出候様尤重役詰合無之向は国事に携候者可能出候此段相達候

 これにおいて翌十三日四十余藩の重臣等を二条城に召し、勝静朝臣をして政権返上に関し意見を徴せしめ、また老中より旗本へも論達する所ありたり、この時我が藩においては家老内藤介右衛門、公用人外島機兵衛、公用方廣澤富次郎を遣せり。
 時に勝静朝臣、大目付戸田忠愛等出席して諮問案を廻覧せしめ、親しく将軍に謁して意見を陳べんと欲する者はその言を聴かんことを傅へしに、諸藩の重臣等多くは退出せるに薩州藩小松帯刀、土州藩後藤象二郎、及び芸州備前の重臣慶喜公に謁す、帯刀いわく、今日の英断を以て大綱すでに定まる、速やかに上奏せらるるに如かずと、他の三藩士も交々大同小異の言を上陳して退出せり。






 
卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1 
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  1. 2012/11/21(水) 16:45:08|
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