いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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岩倉の野心     

岩倉の野心 
 
 これより先三条実美卿等は大宰府にありて薩長と謀り、西南の諸侯を説かしめ、また京都一味の公卿と結び内外より事を挙げんと欲し、土州藩坂本龍馬、中岡慎太郎を上京せしむ、坂本、中岡は公卿を歴訪せしかどもその人を得ず、大橋慎三に就いて岩倉具視朝臣を見るに及び、その常人に非らざるを知り、互いに相喜び方略を議し、大宰府に帰り報ず、実美卿は久しく具視朝臣を姦物視したるをもって容易に同意せざりしが、東久世通禧朝臣が中に居り務めてこれを和解したるにより、ようやく心解けこの年六月ついにその意を通ずるに至れりと云う、元来具視朝臣は公武一致論者なりしが、久しく幽閉のわざわい逢いて志を得ず、ひそかに諸藩の志士と会見し、時世の推移を見て公武一致論を固辞するの自己に不利なるを察し、ようやく王政復古論に変節するに至り、これを実行するには先ず要路に当たる関白二条斉敬公、朝彦親王を退くるに在りとなし、宰相中御門経之卿、三位大原重徳卿と謀り、慶応二年八月党を結びて直奏せしめたるに、孝明天皇は逆鱗し給い、盡くその議をしりぞけその不敬を責めてこれを処分す、どれほどもなくして天皇崩ず、これにおいて討幕の野心ある者は幼冲の天子を擁して素志を遂げんとせり、これより先文久三年堺町門の変ありし以来、長州人士の最も憎悪したるは朝彦親王と会薩二藩とす、親王は伏見邦家親王の御子にて、初め洛東なる青蓮院に住職せられ、後勅命により復飾し弾正尹に任じ、尹宮、賀陽宮、中川宮と称し賜う、長州人は親王をもって同論者とみなしたるが、堺町門の変は同親王の上奏によれるを知り、深く親王を怨み彼らの間においては親王をののしりて単に坊主と称し、また彼らは会奸薩賊とののしり恨みたりと云う、薩藩の実際の主たる久光朝臣は、実兄斉彬朝臣の意志を奉じ、公武合体論者なりしかば、これに昵懇せる者も皆公武合体論者なりしが故に、会薩の了解成りしをもって、堺町門の変、蛤門の変にあたり、両藩力を会わせ暴徒を鎮圧するを得たりしなり、然るに薩藩公武合体論者の勢力ようやく衰退し、西郷吉之助、大久保一蔵等過激論者が薩藩を左右するに至る、ここにおいて薩長の了解初めてなる、この時薩州邸潜伏せる山県狂介、品川弥次郎を長州に返し、吉之助、一蔵もまた長州に赴き、密に木戸準一郎、廣澤兵助等と議して討幕の議を決し、芸州藩をも説きてしたがはしむ、一蔵、弥次郎と共に京都に帰り具視朝臣を見てその状を告ぐ、時に十月六日なりしと云う、具視朝臣は討幕の密勅を得るに非ざればその名正しからず、天下の人心帰郷せざるを憂へ薩州藩小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、長州藩廣澤兵助、品川弥次郎、芸州藩辻将曹、植田乙次郎、寺尾左十郎と共に中山忠能卿、中御門経之卿を見て三藩合議書を呈せしむ。

一 三藩軍兵大阪着船の一左右次第朝廷向断然の御尽力兼ねて奉願置候事

一 不容易御大事の御時節に付爲朝廷抛国家(国家とは面々の藩をいう)必死の尽力可致事

一 三藩決議確定の上は如何の異議被聞食候とも御疑惑被下間敷事


この覚書と共に事を挙ぐるの旨趣を述ふる一通を提出し、忠能卿に密奏を依頼したりと云う。
 同十三日中山忠能卿等密旨を具視朝臣に傅ふ、具視朝臣はその子息を遣わして廣澤兵助、大久保一蔵を招き、毛利大膳父子の官位を復し、入朝すべきの宣旨を授く。

 毛利宰相
 同 少将
戊午以来邦国多事天歩艱難のみぎり東西周旋その労不尠候処幕府暴戻の餘讒搆百出ついに乙丑丙寅の始末におよび候へども従来爲皇国竭忠誠候父子の至情徹底おいて先帝顧命の際も深く被留叡慮候よりの今般御意志継述本官本位に被復候間すみやかに可有入朝以干城の勤不可怠旨御沙汰候事
 慶応三年十月十三日
  忠能
  実愛
  経之






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1 
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/22(木) 09:09:49|
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