いがぐり史料館

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政権奉還の上表

政権奉還の上表

 この日(十月十四日)大将軍徳川慶喜公は、所司代松平定敬朝臣をもって政権奉還の事を上奏す。
 即日小松帯刀、後藤象二郎、福岡籐次、辻将曹等、摂政二条斉敬公に謁していわく、大将軍の上奏必ず裁可せられんことを請う、否らずんば殿下の身に利あらざらんと、暗殺をも成しかねまじくほのめかしてこれを脅せしかば斉敬公これを諾す、仍て帯刀等ただちに二条城に登り、老中板倉勝静朝臣に謁して摂政殿下の許容したるを告げ、かつ曰く、その細目の如きは調査して進達せんと。
 十月十五日慶喜公に依りて参内す、我が公扈従す、左の詔諸を賜う。

祖宗以来御委任厚御依頼被為在候得共方今宇内の形勢を考察し建白の趣旨尤に被思食候間被聞召候猶天下と共に同心尽力致し皇国を維持可奏安宸襟御沙汰候事
大事件外夷一条者盡衆議其余諸大名同被仰出等者朝廷於両役取扱自余の儀者召諸候上京之上御決定定可有之夫迄之処徳川支配地市中取締等者先迄之通にて追て可及御沙汰候事


 この如く政権奉還の表を上がりし前日に討幕密勅を下され、しかして慶喜公に賜わりし詔書には、政権を奉還するともなお天下と同心協力し、皇国を維持し、宸襟を安んずべしとの懇命ありて、詔旨全く相反し、一見すこぶる奇怪の観なき能わざるも、深くその事情を察すればすこしも怪しむに足らざるなり。
 当時朝廷は二条摂政殿下以下の要路者と、岩倉具視朝臣一味の公卿と二派に分かれ、慶喜公へ賜わりし詔書は二条摂政殿の手より出て、討幕の密勅は岩倉一派の密謀に成りしものなればなり、しかして摂政殿下より出でたる詔書の適法にして真勅なるは勿論なり。
 この日朝命ありて十萬石以上の諸侯を召す、特に松平慶永朝臣、鍋島斉正朝臣、山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、島津久光朝臣に速やかに上京すべきの命あり。
 十月二十日二条摂政殿下以下参朝し、十萬石以上の諸藩の重臣を会す傅奏、議奏は三条実美以下脱走人の件、並びに外国処分の件と、慶喜公稟議の件とを諮詢す。
 十月二十一日薩芸土三藩連署して意見書を議奏にしめす、諸藩の上陳する所もおおむね同じかりき、その大意は王政復古は大に賛成なれど、当時上京の噂ありし実美等の人々のことは、長防の処分と共に諸藩侯上京の上衆議をつくし決すべしと云うにあり。
 この時にあたりて前大納言徳川慶勝卿は形勢の切迫を視察して大に憂うる所あり、十月二十一日の日付にて手書を我が公に贈りて引退の時期なるを勧説す。

一書肅呈霜威相加候処彌々御情適打舞之至に候不日上京拝晤可致と海山相楽み候足下御事永々御在京年来御職掌之御功績も相顕候義早速功成名遂るの御場合とも見詰候間此節一旦御轉遷之方自然の天理にも相協朝家の御為別しては尊家之御為にも必定可然と朝暮存続候義に御座候尤武力之御家定めて御藩論も區々に可有之歟に候へ共愚見には機会今日に至りと存詰候間断然御決着必ず所仰に御座候尤右之義に付いては朝幕よりも何とか御沙汰も可有之哉何れとも御決心御藩中篤と御告諭に相成愚者之一得御採用萬々希入申候御間柄の至情に不堪欺く申入候心中迚も筆端に難述賤臣よりも猶申上候義も可有之能々御聴納可被下候頓首

 使者また来りて慶勝卿の意見を縷述したり、この時にあたり数百年因襲し来りたる武家政治を廃し、王政を行わんすることはほとんど確定したるも、この重大なる政態の変動をして有終の美あらしむるは、難事中の難事なり、如し一歩を過らんか測るべからざる事態を生じ、累を皇室に及ぼす恐れあり、慶勝卿の忠告に従って退京するは、身を保する上乗の策なるは我が公の熟知する所なれども、国歩艱難の秋にあたり一身の利害のため、先帝に対し奉り京都を墳墓の地となすを期し、王事に勤むべく誓いし言を食んで退京するは、我が公の忍ぶ所にあらず、ついに利害を顧みず慶勝卿の忠告を斥けゝり。
 同二十三日朝廷より幕府に令す、
  
五卿之事
自然上京候へば諸侯上京迄之処於浪花滞留之事
但従朝廷可申渡之事

外夷之事
召之諸侯上京之上御決定可相成候へ共夫迄之処差向候儀有之候はゞ諸侯上京迄外国之事情に通候両三藩と申合可取扱事


 この命令の出づるや我が藩及び紀州、熊本、津の藩士等倡首となり十萬石以上二十五六藩の諸藩士を東山圓山に会し議していわく、外国の事両三藩と協議処理すべしとの朝命は、衆議採納の趣旨に反せり、殊に両三藩と云うはその指す所あるが如し、よろしく傅奏議奏に質して朝旨を伺うべしと、両三藩を除くの外はことごとくこれを賛成したるをもって、傳議両奏に就てその理由を質す、然るにこの事に関しては延議に定見ありしにあらず、薩州藩吉井幸輔が議奏大納言柳原光愛卿の邸にまいり、外夷の事はその情に通暁したる者にあらざれば交渉甚だ難し、故に土州、薩州、芸州に命ぜば平穏ならんと説けるを軽信して命令を発するに至りしものなれば、両奏その事実を明言することを得ず甚だ答うるに窮せりと云う、果然十一月五日慶喜公上書して、両三藩とは果たしていずれなるか定めかねる所なるが、今一応諸藩衆議をつくすの趣旨に出でられんことを乞いたるに対し、同九日朝議においては両三藩の見込みなければ差向きたる事件については、諸藩衆議の上決定する所あるべきことを批答せられたり。
 斯くて諸侯上京までは、徳川家の職務略々舊によると定まりしかば、十月二十四日慶喜公、所司代松平定敬朝臣をして将軍職を辞するの表を上らしむ。

臣(慶喜)昨秋相続仕候節将軍職之議固く御辞退申上其後蒙御沙汰候に付御請仕奉職罷在候処今般奏聞仕候次第も有之候間将軍職御辞退奏申上度此段奏聞仕候以上

 十月二十七日朝廷は慶喜公の将軍職辞退の上表に対して左の如く沙汰せらる。

諸藩上京の上追て御沙汰の事
但夫迄の処これまでの通可心得候事


 これにおいて我が公自ら処するの計をなす、藩相等もって為らく大将軍己に政権を奉還しまた軍職を辞す、しかして守護職は固と幕府の置く所なれば、今日依然職にあるの理なし、かつ幕府と相離れて独立するは土津公の遺訓にそむく、よろしく職を辞して存亡を共にすべしと、我が公思うには、朝廷すでに諸侯の上京衆議をえるまで幕府をして旧により職をとらしむるの命あり、今これを知りて職を辞せば恐らくは軽躁に失せんと、よりて勝静朝臣を見てこれを謀る、勝静朝臣いわく、辞表提出はしばらくこれを見合わせ先づ進退を禀すべしと、すなわち十一月一日我が公幕府に稟請す。

今度御改革被仰出候に﨤付而者守護職の儀如何相心得可然哉奉伺候以上
即日指令あり曰く、
追而相達候迄は是迄之通可被心得候


 十一月八日摂政二条斉敬公は岩倉具視朝臣に寛典の命を伝えしむその書にいわく、

去三月二十九日被免入京候節住居洛外之事且月一度計帰宅不苦一宿外不相成候事
右被仰出有之候得共自今帰宅可為勝手被仰出候旨摂政殿下被命候事


 右の御沙汰ありしは具視朝臣一味の人々の運動の奏功したる為なるべし、しかしてその陰謀をば摂政殿下を始め要路の人々は全く知らざりしならん。
 十一月九日慶喜公思えらく、十月二十三日の朝命に、外国の情に通ずる両三藩と限らるゝは、公議興論の趣旨にそむくと左の稟請書をしめす、この日朝廷付箋してこれを裁可す。

外国取扱之儀此程相伺候処御付紙之両三藩は朝廷御見込も被為在候哉於私差定兼候間今一応諸藩衆議わ被盡候様仕度此段相伺候
  慶喜
付箋 両三藩之義於朝廷御見込不被為在候差向候義有之候節は諸藩衆議之上御決定に可相成候事


 この月朔日慶喜公長防処置の稟請書に対し、十一月九日朝廷これを裁可す。

長防之義寛大之処置可取計旨五月中被仰出候に付家老並末家吉川監物上坂候様松平安芸守を以て申達候処末家監物には不快に付家老一人上坂可致段届出候間少々も快候はゞ家老一同上坂可致旨猶又相達置候処重大之事件に付改て衆諸侯公議之上従朝廷御沙汰被為在候御儀と奉存候此段奉申上候以上
  慶喜
付箋 家老以下上坂之事従幕府沙汰有之候処猶従朝廷御沙汰有之候迄上坂可身合旨被相達候事


 これによりて慶喜公は浅野長勲朝臣をして、朝命を毛利家及び吉川監物に伝えしむ。

  松平安芸守
長防之義は早々寛大之処置可取計旨御所より被仰出候に付申達候義有之候間末家之内一人吉川監物並家老一人致上坂候様毛利家へ可相達旨当七月中相達置候へ共右は猶従朝廷御沙汰有之候迄上坂可見合旨申達候様従朝廷被仰出候間其段毛利家並吉川監物へも可相達候


 十一月十七日朝廷は幕府及び尾州、紀州、越前三藩に諮問書を下す。

政権之儀式家へ御委任以来数百年於朝廷廃絶之舊典即今難被為行届儀者十目の所視に候乍去奉還被聞食候上者神祇官を始太政官夫々舊議御再興之思召に候間何れ八省の外寮司之内へ諸藩を被召加年々交代可有勤仕細目之儀者追々被仰出朝廷御基本に被為在候間右に基き見込言上可有之思召候事

一 何れ往古郡県之通に者難相成に付封建の儘名文明に相立候様被遊度候

一 御政務筋往古之通に者迚も難相運被思召候得共総而新法而已之御政務に相成候而者甚不宜候間可相成義者精々舊儀に基き候様被思召候事


 十一月二十五日夜土州藩後藤象二郎、福岡籐次、神山左多衛はひそかに松平慶永朝臣に謁していわく、某等顧うに今日の謀はすみやかに在京の諸侯を会して至公の大本を立つるにあり、大本いやしくも立たば私意を挟む者ありといえども何ぞ意とするにたらん、しからば公平の議をなす各藩を糾合して上三卿を説き、しかして上京の諸侯を召して意見を尋問し、御前において誓言せしめば、議事院その他の条目も諸につくを得べしと、慶永朝臣いわく善しと、象二郎は慶永朝臣の臣中根雪江、酒井十之丞を見てその順序を定めていわく、越前は尾州、肥後に説き、土州は芸州に説き、芸州より因備を説かしむべく、薩州は土州より説くべしと、またいわく、明朝象二郎等、永井尚志を見てその意見を問いこれを報ずべしと、雪江等は尾州と肥後に説き、その後会同してこれを議し、次いで公卿に説くべきを約せり。
 これにおいて翌二十六日中根雪江は尾州藩田宮如雲をその旅宿に訪ねいてこれを謀りしに、如雲大にこれを賛成す、酒井十之丞は津田山三郎を肥後邸に訪ねしに、青池源右衛門もまた来り会しければ、十之丞は昨夜の議を説きしに、山三郎等いわく、我が藩さきに大将軍政権奉還の盛意を聞くを得て疑惑氷解感動する所あり、同志の各藩を一致して大将軍の盛意を貫徹するの外なし、すでに使を熊本に遣し、藩主細川慶順あるいは長岡良之助の上京を請いたり何ぞ異議あらんやと、後藤象二郎は永井尚志にその意を問いしに、尚志喜んでその議を賛し、先づ諸藩においてきっかけを開くべしとなし、大将軍の内意はついに郡県制度に変ぜんことを期するにありと、当時訛言紛々として、あるいは幕府密に旗本及び譜代の諸侯に命じて出兵をうながし、海陸並びに進んで京都に入らんとすと云い、あるいは大垣藩士井田五蔵策を幕府に献じ火を禁闕および藩邸に縦ち、乗輿を奉じて大阪に入り、西南諸侯を制御すべしと説きたりと伝へ、事変を生ずること旦夕に迫れるが如くなりしかば、岩倉具視朝臣洛北岩倉村にありてこれを聞き、大に憂へ薩州邸に微行し、吉井幸輔、伊地知正治を見てこれを告げ兵備を厳にせしむ。
 十一月二十七日松平慶永朝臣は薩の意向を知らんと欲し、大久保一蔵をその邸に招き今後の意見を問う、一蔵いわく、朝廷の基本立たざれば業成りがたし、しかして朝廷人材に乏しきを苦しむ、会議公論皆正大に帰するを要すれども、その基礎を定むるの順序に至りては、藩論未だ決せざれば答うる能はずと、慶永朝臣は重ねて大将軍内意のある所を告げしに、一蔵いわく、なお一層の実行を見ざれば疑惑を解きがたし、かつ紀州会桑等幕威を回復せんとするの計画あるを伝うる者あり、ゆえに大将軍はすみやかに実行せられんことを請いねがうと、この時薩州はすでに討幕の勅を受けたる後なれば、ただ言葉を瞹昧にして難しきを徳川氏に求めたるが如し、翌二十八日慶永朝臣さらに我が藩公用人手代木直右衛門を招きその意見を問う、直右衛門いわく、幕府すでに政権を奉還す、徳川氏自今朝命を奉じて政務を執ること至当なるべし、公議は諸藩の見るところによりて異なれば、果たして何れに帰するを知らずと、会薩両藩の執るところ大に差異あるゆえに一歩を誤らばたちまち変動を生ぜんことを恐れ、慶永朝臣は二条城に登り勝静朝臣を見て、一蔵の語る所を告げて薩州の疑団を解かんとしたるも薩人の密に岩倉具視朝臣と計りて大になすあらんとするをおぼえる能はざりき。
 これよりさき小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、廣澤兵助、品川弥次郎、福田侠平等討幕の密勅を奉じて京師を発し、山口に到り兵を出すの議を定めんとし、十月二十二日周防三田尻に到る、当時薩長芸の三藩はすでに兵士の東上を期して、薩州の軍艦三隻三田尻にあり、第一艦大山格之助以下兵員四百、他の二藩は五小隊を乗せて討幕の密勅を待ち、まさに大阪に航せんとせしに、大将軍政権奉還ありしより、京都の形勢とみに変ぜしをもって、三藩兵の東上はその機にあらずとし、先づ薩州兵を別船に乗せて東上せしめ、格之助等は三艦と共に鹿児島に帰るに決し二十四日三田尻を発して一は東上し一は西に帰れり、長芸の二藩は薩州の報知を待ちてただちに兵を出さんとし、浅野長勲朝臣は毛利元徳と周防国新港に会し、島津忠義朝臣もしくは久光朝臣の来るを待ち共に京都に入らんとす。
 この時にあたりさきに島津久光朝臣の意見を受けて、公武合体論を主張せし奈良原幸五郎等は、鹿児島にありて討幕論を不可とす、ゆえに薩州は大兵を出すことあたわず、久光朝臣もまた病と称して朝召しに応ぜず、しかして忠義朝臣の久光朝臣に代わりて上京に決せしは、同藩非討幕派の不幸と言うべし、これにおいて大久保一蔵は先発し、忠義朝臣は西郷吉之助等を従えて鹿児島を発し、三田尻に至りて毛利元徳に会見し、薩長芸三藩は共に浪花を根居とし、薩摩の一軍は守衛の任に当り長芸これに力を添うること、薩摩の一軍はもっぱら京都を守衛し長芸の一藩これに応援すること、また聖篭を山崎路より西ノ宮に迎えてさらに芸州に奉還すべしと議定し、忠義朝臣等は大阪に出て十一月二十三日入京し相国寺に屯す、兵三千、一萬と声言す、二十八日浅野長勲朝臣は兵三百を率いて京都に入り妙顕寺に館す。
 長州は薩芸と相呼応し兵を発したれども、なお尋常の如く浅野長勲朝臣に謀りて書を傅奏にしめし、上坂を差控ゆべき命令と行違に、末家その外すでに出発せしにつき、大阪において朝命を待つべきと声明す。
 長州藩すでに薩芸と相約して出兵し、なおこの言をなすゆえんのものは、表面幕府にそむくの状あるを忌みて、末家その他すでに国を発したる後なりと称し、その実討幕を実行せんが為に、仮に芸州藩をして対面を装いはしめたるに過ぎず、鞠府丸には毛利内匠及び右田の一隊、癸亥丸には整武隊、丙辰丸には銃武隊、丙寅丸には右田一隊、乙丑丸には第二奇兵隊、満珠丸には銃武隊、庚申丸には奇兵隊、遊撃隊、慶応隊を乗せ、二十六日諸隊進んで御手洗港に至る、芸州兵これに合し、芸藩の諸兵総督岸九兵衛、兵艦を向導し、五艘には薩州芸州の微章、二艘には長州の微章をもちいて御手洗港を発し、二十九日摂州打出ノ浜に着し、大洲藩の先導を得て上陸し親王寺を本営とし、尋いで西ノ宮に移る、浅野長勲朝臣は京にありてこの報を得、書を朝廷にしめして長浜上坂を報告す。
 かつまた長勲朝臣はよく晦日ひそかに二条摂政殿下に申告して長浜の為に弁疎す。
 これもとより長州の内意を受け、巧言もって討幕にあらざるを表白せるに過ぎず、これにおいて幕府は事態の容易ならざるを察して警戒す、ことに我が藩桑名藩は長州の挙動を憤り、二条摂政殿下に謁して国に帰らしむべきを迫る、しかれども幕府はこれに反し勝静朝臣、松平慶永朝臣と議し長浜をして先づ大阪に滞留せしめ、朝命に従って進退せしむるに決し、戸田忠至に命じて朝廷に奏せしむ。
 長浜西ノ宮上陸して京都に入らんとするの風説行われたれば、十二月四日山崎関門の守衛藤堂高潔の家臣深井半左衛門幕府に受申して、長浜入京に際しての処置を仰ぐところあり。

防長御処置兼ねて寛大の御沙汰は被為在候へ共長人入京の義は勅許にも相成居不申山崎関門筋罷登候はゞ無論戦争の覚悟に相心得可然哉此段奉伺候事

 幕府はこれに対して長州人もし京都に入らんとせば、先づ朝命を請うべきを諭してこれをとどめ、強いて通過せんとば、討伐すべきことを内示す、半左衛門また幕府に藩兵の配置を改めんことを請う。

此度長州人の趣にて一昨日と昨日と凡千人計り摂州打出ノ浜へ上陸西ノ宮辺へ宿陣致し候趣に付伊州表は近畿の儀兼ねて援兵差出候筈に有之候へ共一両日出兵の隙も有之且警衛三ヶ所に相成兵勢相分かれ候故山崎街道自然今明日の際侵入候も難計候に付素より山崎表警衛人数は備置候へ共猶兵数増加仕度依て内分佐渡守宇治警衛所並に下立売御門護衛相徹し上牧並に高浜等川陸御関所防御仕度臨時不得止候儀に付急速御許容奉願候事

 幕府下立売門の撤兵を許さずして、宇治警衛の兵を分かちて山崎に合せしむ、この日芸州藩熊谷兵衛は長浜より島津忠義朝臣提出したり陳情書なりとて、長軍の参謀楫取素彦、国貞直人の連書にて在京の薩芸二藩の重臣に贈れる書を寄す。

先達て従朝廷御召登之段御達有之候砌末家中気分不相勝罷在重大の御沙汰筋等閑に打過候儀奉恐入候に付不取敢家老計発途為仕候段及御達置候処末家の内病気少にても快候はゞ一同大阪表へ可差出との御事に付種々保養相加候得共今以聢と無之余り遷延仕候ても重々奉恐入候に付淡路名代毛利平六郎並家老毛利内匠監物名代宮庄主水一同上坂為仕兼て芸州様御誘引の御約束に付出張仕候処於御手洗港重て従朝廷御沙汰被為在候迄の間上坂被止候段奉候へ共今般於朝廷大政被聞食□猶列藩の公議を被盡御基本可被為立被仰出候旨奉傅奉皇国の大慶不過之奉存候然る処是迄弊邑之儀奉蒙天譴以外の干戈に相及候次第毫末奉対朝廷異心無御座大膳父子に於ては不奉堪恐縮候へ共於武門不可止之場合と相成右時宜に及申候父子勤王之至誠天地に不愧と士民一圖思入候情義難黙止廔以取傅へ幕府へ言上に及候へ共微衷更に徹上仕兼必定中間擁蔽暗雲覆天日之義と晝夜泣血罷在候処豈圖今日之御機会と変轉仕実に大早雲霓之懐を為し浪花迄到着仕御沙汰相待罷在候間此上は幾応も宿志貫徹仕候様奉至願候旁之趣朝廷向宜御取計致御頼候以上
 長州藩 楫取素庵
       国貞直人


 この書の出づるや我が藩と桑名藩とは、長州藩は朝命を蔑如せるをもって帰国を命じ、また芸州藩を糺問あるべしと、二条摂政殿下、朝彦親王に迫れども朝議決せず議論紛々たり、大納言正親町三条実愛卿、前大納言中山忠能卿、中納言中御門経之卿、岩倉具視朝臣と謀りひそかに芸州の奉状に対し左の意味の沙汰書を下せしという。

可被仰出義も被為在候間各々上坂御沙汰可相待事

 十一月九日には『従朝廷御沙汰有之候迄上坂可見合』旨達せられ、長防処分は諸侯の衆議にて決することになりたるに、今この御沙汰ありたるは摂政殿下の裁可をへたるものにあらざるべし、これ蓋し具視朝臣が実愛卿等と謀り私に作成したるものゝ如し。
 この時にあたり山崎を守れる藤堂藩の隊長深井半左衛門は朝廷に稟請していわく、長州兵強いて関門を通過せんとせば、言うを待たず、戦を開くべしと、左大臣九条道孝公、右大臣大炊御門家信公、内大臣広幡忠禮公等その兵端を開かんことを恐れ、毛利父子赦免の事を松平慶永朝臣に謀る、慶永朝臣いわく、朝廷より天下の諸侯を召すゆえんのものはこの大事を議せしめんが為なり、しかして朝廷今この処置を専断せば何ぞ諸侯の会同を要せん、ゆえに諸侯の上京を待ちて議を決するに如かずと。
 五日松平慶永朝臣は二条城に登り、我が藩士の二条摂政殿下に迫りし、趣を慶喜公に告ぐ、慶喜公すなわち我が公に左の命を下し、長防処置の事一に聖断を仰がしむ。

長防御処置の儀に付ては妄に堂上方に立入り周旋ヶ間敷事有之候ては御処置の品従朝廷出候とも御真意に無様相当り恐入候儀に付朝廷の聖断を可奉仰事

平山敬忠はこの命を我が藩公用人手代木直右衛門につたへ、我が藩をしてさらに桑名藩その他の親藩につたえしむ、この間近衛、九条、広幡、柳原等の諸公卿は二条摂政殿下の邸に会して長州処分の評議を催し、ついに毛利大膳父子及び大宰府なる三条実美等五人の官位を復してその入京を許し、国事に関して罪を得たる公卿をも赦免することに内定し、翌六日二条摂政殿下は戸田忠至を召して、毛利父子入京参朝を許すの件を慶喜公に諮詢せしむ、忠至はただちに二条城に登りしに、御用部屋には板倉勝静朝臣、および我が公、定敬朝臣等在りしかば忠至思えらく、かくては議論沸騰し意思あるいは貫徹し難きの恐れありと、よりて勝静朝臣を別室に延いて使命を述ぶ、勝静朝臣、慶喜公に告ぐ、これにおいて慶喜公は我が公、定敬朝臣、老中以下の有司を召してこれを議せしむ、忠至いわく、すでに今日は政権奉還の後なれば、ひとえに朝議に従うべしと、我が公いわく、しからず朝廷国家の大事を議せんが為に諸侯を召す、しかしてこの如きの大事朝廷の独断をもって決するは不可なり、許否共に衆議をつくさしめ、しかしてその決する所によりて勅命下るを至当とすと、有司交々論じてついに決せず、翌七日慶喜公は奉答書を上げる。
  
長防御処置の議に付御内尋の趣拝承仕候右は私へ御尋座候議に候へば兼ねて被仰出候通り衆議を被為盡候上被仰出候方に可有御座真の英断を以て被仰出候儀に候はゞ別段存寄無御座候以上

 朝廷も強いて断行せず、しかれども時日を無駄に過ごせば山崎関門の戦起らんも知るべからざるを恐れ、藤堂藩に令して長藩強いて入京せんとするの形勢あらば、これを抑止して処置を仰がしむ。
 これより先岩倉具視朝臣は島津忠義朝臣、浅野長勲朝臣相ついで上京し、毛利内匠、毛利平六郎等兵を率い来りて西ノ宮にあるをもって、密に西郷吉之助、大久保一蔵等と謀り、徳川慶勝卿、松平慶永朝臣をその議に加えて、前大納言中山忠能卿、大納言正親町三条実愛卿をもって密書を奉請し、徳川氏を諸侯の列に降ろし朝廷の公武合体派を排斥し、自党をもって新政府を組織するの議を定め、この月八日をもって大号令を発せんとす、しかれども後藤象二郎、福岡籐次は山内豊信朝臣の入京を待たんことを請い、具視朝臣これを諾す、中山、正親町三条、諸卿は徳川氏の処分について異議あり、具視朝臣は西郷、大久保及び岩下左次右衛門に意見を問う、三人書をもってこれに答う、その旨趣は王政復古の原則極まりたる上は断然としてこれを実行し、徳川氏に対しては苛酷なる処置をなしために兵を動かすにいたるも、人心を一新する利益あれば顧慮するに及ばずとせるものゝ如し。
 八日二条摂政殿下は、国事係宮公卿及び徳川慶喜公以下在京の諸侯を朝廷に召して、三条実美以下および毛利父子の官位を復し入京を許し、幽閉の公卿を赦免するの件を議せしむ、慶喜公、我が公、定敬朝臣は朝せず、議論百出ついに決せずして暁に徹す、この夜子の刻二条摂政殿下はついに松平慶永朝臣に話していわく、過刻より薩州以下の諸藩士四方に奔走して尋常ならずという何故なるやと、慶永朝臣は心大に怖れて俄かに病と称して退朝す、すでにして尾州兵数百時期を誤り清和院門に到り、人馬喧噪し満朝の人色を失う、後重臣丹羽淳太郎参朝分疏陳謝するによりて皆心を安んじたり、当時人心不安を極めしを知るべし。
 具視朝臣は機失うべからずとなし、急に薩州、土州、芸州、尾州、越前五藩の重臣を招き、書を作りて明日の参朝うながす。
 
応召早速登京御満足候従て不容易大事件御評決之儀有之只今参朝可有之候間御沙汰候事

 朝廷戒厳令を下し、会津、桑名等の親藩、譜代、諸藩の九門守衛をやめ、薩州、土州、芸州、尾州、越前の兵をもってこれに代う。
 この如き命令はみな具視朝臣が西郷吉之助、大久保一蔵と謀りて計画せるところなり、これにおいて土州藩後藤象二郎は大に驚き、急きょ具視朝臣を見てつまりていわく、大号令を発せらるゝ日は徳川前大将軍を重職に補し、朝廷の枢機に参興せしめ、会津桑名以下の激動を鎮撫せしむるにありき、しかるにただちに戒厳の令を下し、時むべによりては、兵力をも辞せざるが如きは、前言を食むもまた甚だと言うべしと、具視朝臣答えていわく、これ衆議に出づる所にして、余一人の能くすべきにあらずと、象二郎は憮然として退く。
 九日侍従千種有任朝臣を勅使として岩倉邸につかわし、蟄居を免じ改飾参朝あるべきの命をつたえしむ。

今度以思召被免蟄居直に改飾参朝可有之旨被仰出候事

 また毛利敬親父子およびその末家を赦免するの勅を下すいわく、

此度大樹奉帰政権朝廷一新之折柄弥以天下之人心居合不相付に於ては追々改古の典も難被行深被悩宸襟候且来春御元服並立太后追々御大礼被為行且又先帝御一周忌に相成候に付所言既往不咎之御時節候故人心一和専要に被思召候間先年来長防之事件彼是混雑有之候得共寛大之御処置被為在大膳父子末家等被免入洛官位如元被改候旨被仰出候事

 十月十三日付の勅書にて、毛利父子は本官本位に復せられ入朝を命ぜられたるに、今また官位如元又被免入京とあるは心得難きことなり、十月十三日の勅書は忠能、実愛、経之三卿の私に作成したる偽勅書なるが如し、はたしてしからば実に怖れ多き極みというべし。
 
この日辰の刻薩州藩大久保一蔵、西郷吉之助等唐門前に来り、公卿の諸大夫と思わるゝ者と密語して門内に入り、しばらくして出て来りしが、薩州藩士二名美麗の戎装をなしたる者来りて一蔵と密語せり、しばらくして間もなく唐門を閉鎖し、薩州人門に立ちて出入りを誰可す、我が藩唐門衛舎の当直大砲隊組頭小池勝吉は不穏の情勢あるを見て、部下をつかわしてこれを蛤門守衛隊長番頭生駒五兵衛に報ぜしむ、すでにして薩州兵一中隊戎装し来りて唐門前に進みしが、転じて御台所門より入り、ついで芸州兵一小隊来る、勝吉行きて薩州兵に問いていわく、なぜに戎装をなすせしやと、薩兵答えていわく、寡君参内するに改心ありて許可を得たりと、また芸州兵に問いしに薩州兵より警衛すべきの報あるによりて、兵を出したるもその故をしらずと、我が藩の守兵心ひそかに死を期す、巳の刻我が藩の別選組隊長佐川官兵衛来り勝吉に告げていわく、衛舎を徹するの命あらんも知るべからずといえども、忍耐して礼を失うべからずと、未の刻島津忠義朝臣参内す、従者皆麻上下を着く、また土州兵半大隊唐門前に至りて警衛す、芸州兵銃丸を塡装して市中を巡邏す、この夜子の刻に至り、はたして蛤門、唐門の守衛土州藩に交付すべきの命を我が藩につたわる、我が藩公用人手代木直右衛門、田中左内、土州藩寺田典膳に会するを約し蛤門においてこれを待つ、守衛隊長番頭生駒五兵衛、大砲隊組頭小池勝吉等指揮してことごとく塵埃を清掃せしむ、寅の刻典膳一小隊を率い来りて授受を終わる、応接すこぶる慇懃なりき、これにおいて五兵衛等兵を率いて藩邸に入る。
 この時にあたりて朝廷三条実美以下五人の入京を許し、その位を復しその官においては前官を称し闕官の節復せらるべき御沙汰あり、また九条尚忠、久我建通、千種有文、岩倉具視、富小路敬直等諸公卿の蟄居を免じ復飾を命ず、その他滋野井実在、正親町公薫、滋野井公寿、鷲尾隆衆等諸公卿の如きもまた皆赦さる、具視朝臣等円頂に冠を戴きて朝廷に出仕すると云う、たちまちにして左の驚天動地の大勅命あり。

徳川内府従前御委任大政返上将軍職辞退之両条断然被聞召候抑癸丑以来未曾有之国難先帝頻年被悩宸襟候御次第衆庶之所知に候依之被決王政復古国威挽回之御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶有之先つ仮に総裁議定参興之三職を置き万事被為行諸事神武創業之始に基き縉神武弁堂上地下別なく至当の公議を盡し天下と休戚を同し可被遊叡慮候に付各勉励盡忠報国之誠を以て可被奉公候事
一内覧勅間□国事御用係議奏武家傅奏守護職所司代総て被廃候事


 これにおいて熾仁親王を総裁とし、純仁親王、晃親王、前大納言中山忠能卿、同正親町三条実愛卿、中納言中御門経之卿、前大納言徳川慶勝卿、前宰相松平慶永朝臣、少将浅野長勲朝臣、前少将山内豊信朝臣、少将島津忠義朝臣を議定とし、宰相大辨萬里小路博房卿、三位長谷信篤卿、前中将岩倉具視朝臣、少将橋本実梁朝臣等を参興とし、外に尾越薩土芸の五藩より各三人を推薦して参興とす。
 また勅して弾正尹朝彦親王を始めとし、摂政二条斉敬、左大臣九条道孝、右大臣大炊御門家信、前関白前左大臣近衛忠凞、前関白前右大臣鷹司輔凞、前左大臣近衛忠房、前右大臣徳大寺公純、前右大臣一条実良、内大臣広幡忠礼、大納言日野資宗、同飛鳥井雅典、同柳原光愛、同葉室長順、同広橋胤保、中納言中院通富、同六条有容、同野宮定功、前宰相中将久世通凞、大蔵卿豊岡隨資、治部卿倉橋泰聡、宮内卿池尻胤房、刑部卿錦織久隆、三位伏原宣諭、右京大夫堤哲長、左京大夫交野時萬、中将裏辻公愛の諸公卿の参朝を停め謹慎を命ず、まさしく新政を喜ばざる疑いあるが為なりという、これにおいて廟堂の上公武合体派の影を止めず、実権は全く岩倉具視朝臣等の手に帰したり、この日山内豊信朝臣京都に入りただちに参内す、これより先後藤象二郎ひそかに中根雪江を招き計画の秘密を告げて慶永朝臣に報ぜしむ、慶永朝臣大に驚き雪江を二条城に遣わしてひそかに慶喜公に告ぐ慶喜公大に驚くといえども、部下の動揺を恐れ一人心中に秘して発せず、しかしてこの大号令遭遇すと云う、我が藩佐川官兵衛は藩相上田学大輔を見て建言していわく、朝廷の形勢この如きに至り早速いかんともすべからず、しかるにこの際万一粗暴の挙動あらば、我が公宿昔の忠誠にそむき、皇国の騒動を生ぜん、某これを謀るに兵を留めて京都の不慮に備え、公は少数の従者を隨いただちに国に帰るに如かず、これ今日に処する公の忠誠を全うするの策なりと、会々慶喜公の急使来りて我が藩相を召す、藩相田中土佐二条城に登る、慶喜公召見していわく、事すでに迫れり奮激の徒事を誤らんことを恐れる、これをもって急に大阪に下るべし、宰相(我が公)病を力めて来れと、土佐帰りてこれを申す、我が公ただちに徒歩して二条城に登る、前所司代老中その他の有司ことごとく城に登る。
 禁闕は尾州、備州、芸州、土州、薩州、五藩の兵これを守り、徳川旗本の兵五千余人、我が藩、桑名藩の兵等二条城の内外に充満し屹然として相対す、人心恟々口耳相屬す、我が公は板倉勝静朝臣を別室に延きて事を談ず、偶々我が藩の千葉権助馳せ来りていわく、ただ今前将軍近臣数輩を従い城門外へ出でんとす、我が兵これを知るものあり、望月新平等進みて姓名を問う、左右答えていわく目付なり、新平いわく、どこに行かんとするか、左右いわく、巡視せんと欲するのみと、正門を開鎖すべきを命じて帰る、願わくはこの如き軽挙なからんことを欲するがゆえに上申すと、これにおいて城中さらに沸騰し、慷慨の志士憤激すること甚し、若年寄竹中重固等慶喜公に謁して出城の不可なるを諫む、慶喜公いわく、この事なしと。






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1
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  1. 2012/11/25(日) 22:50:55|
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