いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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小御所の会議

小御所の会議
 
 この日夜に入り天皇小御所に親臨し、総裁熾純仁親王、晃親王、前大納言中山忠能卿、同正親町三条実愛卿、中納言中御門経之卿、前大納言徳川慶勝卿、宰相松平慶永朝臣、浅野長勲朝臣、山内豊信朝臣、島津忠義朝臣、参興大原、萬里小路、長谷、岩倉、橋本の諸公卿、尾州の臣成瀬正肥、田宮如雲、越前の臣中根雪江、酒井十之丞、薩州の臣西郷吉之助、大久保一蔵、岩下左治右衛門、土州の臣後藤象二郎、福岡籐次、神山左多衛、等召し応じて小御所に会議す、中山忠能卿いわく、今日の会議は国是を定むべきの聖意に出づ、よろしく公正の議をつくすべしと、山内豊信朝臣は席を進め容を正していわく、大政維新の初に方に至当の公議をつくし、天下と休戚を同うせざるべからず、しかるに今日廟堂処置公明正大を欠くもの多し、五藩の兵を召し凶器をもって禁門を守らしむるは果たして何の意ぞや、徳川氏過失ありとするも、内府(徳川慶喜公)は祖宗二百余年の大権を奉還し、政令一途に出て、萬機公論に決せんことを期す、誠忠と言わざるべからず、いわんや祖宗以来数百年、太平の治績決して忘るべからず、しかるに今日の会議二三の公卿と五藩とを限り、内府等を召さざるはこれ決して公議を重んずるの聖旨にあらず、よろしく内府を召してこの会議に参せしむべしと、松平慶永朝臣、豊信朝臣の議を賛していわく、王政の始まりに当り刑罰を先にして徳義を後にするは不可なり、徳川氏二百年の功業は今日の罪責を償いて余りありと、岩倉具視朝臣声色を励ましていわく、徳川家康天下を治め蒼生を安んずるの功少なからずといえども、その子孫に至りては権威をもてあまし、皇室を凌虐し公卿諸侯を脅制し、ことに嘉永癸丑以来勅命を蔑如し綱記を紊乱し、縱に外国と条約を結び、憂国の親王公卿諸侯を幽固し、尊王の志士を残害せるその罪大なり、かつ内府果たしてその罪を悔ゆるあらば、官位を退き土地人民を返納すべし、いたずらに幕府の虚名を奉還すといえども、実力なおその手中にあり、その心のすべ未だ知るべからず、何ぞ国是の大議に参せしむべくけやんと、大久保一蔵これに賛し、後藤象二郎はこれを駁し、その他おおむね豊信朝臣、慶永朝臣に同意したるも、議論未だ決せずしてしばらく休息す、具視朝臣は豊信朝臣の再び抗論せんことを恐れ、休息の間人をして後藤を諭さしめ、後藤は豊信朝臣、慶永朝臣に説く、豊信朝臣、慶永朝臣は已むを得ずこれを容れたり、すでにして天皇再び小御所にのぞみ会議を再開す、豊信朝臣、慶永朝臣復之を争わず、終に徳川氏退官納地の件を決し、慶永朝臣をして慶喜公に風諭せしむ、豊信朝臣には血を流さずして維新の鴻業を建設する大抱負ありしが、具視朝臣に阻まれその正義の行われざりしは返す返すも遺憾の極みなり、しかして退官はしばらく置き納地に至りては一般諸侯に命ずべく、特に薩摩藩の如きは率先して実行すべきに、ひとり徳川氏にのみこれをせめる、かくある片手落ちの決議は徳川氏の部下の心服せざるは火を見るより明らかにして、ために兵乱の起こる恐れあるにもかかわらず、この決議をなせるは薩摩藩士等が血を流すにあらざれば維新の事業行われずとしたによる、よくよく維新の鴻業の比較的たやすく行われたるは、土佐の後藤等が豊信朝臣の旨を承けて慶喜公に説いて大政を奉還せしめたるによる、しかるに維新の業成りしとき、土佐藩に対する行賞の薩長に及ばざりしは、この日の豊信朝臣の正義、その後における土佐藩の公論とを、具視朝臣等が深く憎みたるによるという。
 この日二条城に集合せる旗本の兵、および諸藩兵等皆憤激していわく、内府公すでに政権を奉還し、大将軍を辞するの書をしめし、衆諸侯の上京を待ち公議の上に萬機を決すべきの聖勅を拝せり、しかるに唯五藩に限り廟議に参せしめ、内府公を疎外し大変革を行わんとす、これ薩摩士等が陰険なる二三の公卿と通牒し、幼冲の天子を擁して私意を遂げんとするものなり、これをしも放置せんか天下擾乱して収拾すべからざるに至るべし、しかず速やかに武力をもって君側の姦を除かんにはと、慶喜公は例により優柔不断、この説を納めるゝにもあらず又しりぞくるにもあらず只曖昧である。
 具視朝臣は二条城中の激昂甚だしきを聞きて、左衛門督大原重徳卿と共に朝命をもって尾州の田宮如雲、越前の毛受鹿之助を召して、ごとし二条城の旗本および諸藩兵誤って騒乱を生ぜば天下の大事なり、願わくば尾越二藩これを鎮撫せよと命ず、如雲等退きて各々その主に報ず、尾州は茜部小五郎、田中国之輔、越前は毛受鹿之助を二条城に遣わしこれを板倉勝静朝臣に告ぐ、勝静朝臣いわく、城中の鎮撫は吾が苦慮する所なり、よろしく内府公に具申すべしと、かついわく、朝廷過激の勅命あらば、あるいは支うべからざるに至らん、尾越二公よろしくこれを領して朝廷に風諭あらんことを望むと、三使帰りてこれを報ず、城中兵馬充満するを聞きて朝廷さらに兵備を厳にす。
 翌十日徳川慶勝卿は、松平慶永朝臣と共に二条城に登りて慶喜公に謁し、前夜宮中の議を伝えんとす、城中の諸士思えらく越前春嶽のごとき宗家の危急を顧みずみだりに京都より遁逃し、あるいは薩長に結ぶその志計るべからず、尾張老公もまた征長の大任を奉じ、長藩仮装の謹慎を容れて壇兵を班へし、諸侯の軽侮を招きついに今日に至らしむ、しかもあつかましく城に登るは薩州および岩倉等の術中に陷いて来れりに非ずして何ぞと、衆時に憤激罵言するものありしも、両侯はこれを聞かざるまねしてただちに進んで慶喜公に謁し、左右を退けて来意を啓す、慶喜公は勅命を拒むの意なしといえども部下の激怒を恐れて躊躇の色あり、両侯もまたこれをしかりとし、芸州の留守居三宅萬太夫が城中にあるを見て、曲さに城中の実況をその主浅野長勲朝臣に内報せしめ、復命の速やかに成し得ざるゆえんを告ぐ、尾州藩尾崎八右衛門禁闕より来りて両侯に告ぐるに、慶喜公朝旨拝受をうながすを伝える、両侯は困惑しかろうじて朝命を慶喜公に伝える。

辞将軍之事被聞食候事

 慶喜公つつしむて命を奉じ、かついわく、退官納地の事は人心の鎮静を待たざれば不測の禍害を生ぜんことを恐れる、ゆえにしばらく遷延して他日命を奉ずるの外なし、実に卿等目撃のごとしこれが斡旋を託すと、慶永朝臣等いかんともする能わざるを知り、ただちに参内し先つ参興の室に至りてその故を告ぐ、西郷吉之助、大久保一蔵服せずしていわく、内府が納地を謹承すると否とは朝旨の遵奉に関係あり、ゆえにこれを明瞭にせざるべからずと、慶永朝臣いわく、これを急にすれば二条城中の沸騰あるいは不測の変を生ずるも知るべからずと、弁駁数次、ついに総裁以下の衆議を開く、慶永朝臣の復命書差左のごとし。

奉帰政権将軍職辞退の儀被聞食候上は官位も一等を辞し奉り且政府御入費も差上度段申上候心底には候へども即今手元人心折合兼痛心の譯柄も御座候に付鎮定次第奉願上度候間此段相含於両人可然様及執奏呉候様申聞候事も御座候間於慶永天地へ誓って御請合申上候間徳川内府内願之筋御聞届被下候様奉願上候
  慶永


 この時にあたり徳川慶勝卿は、退官納地の即時に処決すべからざるをもって、唯尾越二藩に任せられんことを希望し、別に書を出せりという。
 この日我が藩の公用人倉澤右兵衛二条城に登り、意見を陳していわく、今日薩邸を襲撃せんとするごときは、無名の士にしてただに彼らをして好辞柄を得しむるに過ぎず、加うるに洛中兵燹に罹り従って観望の諸藩あるいわ意を我に絶つにいたらん、決して良策にあらず、前将軍すみやかに大阪に下り城に拠りて要路を絶ち、諸侯と謀りて堂々たる門罪の志を発するにごとかず、これ上策なり、江戸に東下し兵を養い諸侯に激して、おもむろに京師を去るべからずんば、公然彼か罪を鳴らして君側を清掃するの志を発すべし、これ下策なりと、老中格大河内正質朝臣いわく、議寔にリり、しかりといえども我一歩を引かば彼一歩を進めん、今戦わずして東下せば旗下の士気泪喪して兵威自ら屈せんと、右兵衛いわく、余が見る所は前途のごとしといえども、命令あらば戦を辞せざるなりと。
 十一日大河内正質朝臣、陸軍奉行竹中重固以下列座の上軍議あり、我が藩田中土佐、諏訪伊助、倉澤右兵衛、桑名藩小寺新五左衛門、吉村権左衛門、高野市郎左衛門等列席す、右兵衛前議を述ぶ、桑名藩の陳ぶるところ大略右兵衛の議に同じ、正質朝臣いわく、前将軍兵馬の権を辞し軍職なきもなお八百萬石を有して諸侯の上に在り、奸邪を討じて君側を清めむるに何の不可あらんと、慶喜公いわく、即今彼を襲い万一皇室を汚すなきを得んや、竹中重固、橋本卷太等いわく、薩邸を襲撃せば宮中に在るの兵帰りてこれを救うべし、その到るを待ちてこれを誅滅せば何ぞ皇室に累を及ぼすことあらんやと、慶喜公黙して決せず、この日長州の将毛利内匠兵を率いて京都に入る、よって朝廷内匠を召し勅旨を伝える。

多年尊王今度応召速に登京御満足に被思召候事
警衛場所之儀は追て可有御沙汰候事


 この日竹中重固は御用部屋に到り、板倉勝静朝臣を見ていわく、薩邸は断じて討伐せざるべからず、しかるに内府公躊躇して決せず、ゆえに会津藩の言動すこぶる手ぬるし、公等何ぞ速やか討伐を決せざると、大呼勝静朝臣に迫る朝臣黙然たり、たちまちにして慶喜公、勝静朝臣召す、重固退出す、二条城中の将士甚だ興奮す、慶喜公成す所を知らず、自ら必討の二大字を書して旗本の将士に示しわずかに鎮撫を謀る、慶喜公思えらく、会津、桑名二藩をして京都に在らしむるは騒乱を生ずるの基なりと、戸田忠至に命じて我が公定敬朝臣を帰国せしめんことを朝廷に請う、朝廷二藩の措置に苦しむをもってこれを機とし朝命を伝えしむ。

松平肥後守松平越中守右今般在所への御暇早々遣し度願之趣被聞食候事

 十二日山内豊信朝臣は廟堂の処置、ことごとく旧幕府と会津、桑名とを敵視し、更始一新の意を失い、王政復古の美をなす能わざらんことを憂憤し、左の建白書をしめす。

事を密を以て成るの理に因て僅に三四藩と謀り宮門を閉ち兵衛を置き非常を戒め朝廷大御変革御基本建させられ摂関両奏国事係共に廃せられ新に三職を立置し官武一途議事の意を興し候儀幾乎御創業の功に齊しく実に御盛事不過之と奉存候然るに右は御発顕後唯幕会桑而已これ視るの形勢有之既往を忘れず聊か更始一新の意わ欠き此儘を以て日を重ね候ては禍視る所に反して不測に生ずる事あれば注目偏なる可らず早く議事の体を起し召の諸侯且三職評議の規則を建て徒らに精神を費し候儀無之様朝廷の意実に公明正大にして偏固ならざる所以を顕はす可し乍恐堂上方より被仰下候筋専ら会桑暴挙の聞へを以て頻警戒斥候等の事命ぜられ候へ共多くは浮説流言に帰し空く驚動するのみと相成申候是等は既に五六藩命を受け兵備戒厳の上は進攻防戦共に相整い候譯にて御委任可然候徳川内府爵一等を下り政府入費を差上候義勿論政権を還し奉り将軍職排辞の上は徳川始諸侯とも左もあるべき筈なれども従来の体裁を以て急遽これを為す徒に暴動を促すのみ緩急斟酌あるべき儀にて越前宰相の取扱に御任せ遊ばされ第一議事公明の体早々御顕肝要と奉存候此段若し御採用にも掛り候はゞ則ち御評議所にて決を奉仰候誠恐誠惶頓首々々





卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1
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  1. 2012/11/27(火) 19:34:20|
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