いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

前将軍の下坂

前将軍の下坂

 この時竹中重固は関ヶ原の役に鳥居元忠を残して伏見城を留守せしめごとし、保砲隊若干を率いて二条城を守るの任に当たらんことを乞いたるも慶喜公許さず、反幕府の人々に気受けよき水戸藩の大場一真斉に二条城の留守を命じ刀を賜う、新選組頭近藤勇もまた留守を命ぜらる、慶喜公ついに二条城を発す、我が公、定敬朝臣、勝静朝臣等騎従す、時に酉の上刻なり、慶喜公は白布をもって両襷となし、以下片襷としもって標識となし、一小隊に各提燈一個を付するのみ、この時に当り徳川慶勝卿は深く納地の前途を憂へ、勝静朝臣が二条城を去らんとするを要し、説きていわく、宗家の困難思うに余りあり、しかりといえども内諭を奉ぜずんば名義立たずして慶勝もまた身を置くに地なし、慶勝領地の一部を出して宗家の不足を補うべし、必ず内諭を奉ぜられんことを請うと、その旨趣を手書きして勝静朝臣に付す、勝静朝臣答えずして発す、慶喜公の大阪に下りしは単に鎮撫にありしも朝臣深くこれを畏れる、後に長州藩より有栖川総裁宮に示せし所の事務条議の書中に左の言あり。

徳川内府下坂致候は実に彼の上策にして進退に窮し又は下の鎮撫に困りたる譯には決して無之浪花を根拠とし兵庫西ノ宮等の地を占め軍艦を以て海路を絶候時は京師数萬の生霊不日に飢餓に及ぶべきは必然に御座候萬一其策行われず候とも海路より東下関東へ割據する時は所言虎を野に放つの勢にて之又如何とも致方無之今日の情勢彼の利にして京地の不利眼前に有之候事

 薩藩大久保一蔵もまた十二月二十八日をもって、在藩蓑田傅兵衛に興うる書中に左の言あり。

下坂の儀大に謀略有之華城に根拠し親藩譜代を語ひ持重の策を以て五藩を離間し薩長を孤立の勢に為し隠に朝廷を謀り挽回せんとの密計に候由異説紛々たり云々

 二条城を去るに際し、慶喜公が我が林、佐川の二将に対し『予に深謀あり』と言われたるが、薩長二藩士のその心の内を除き、如何なる深謀かあるべき、けだし当時公の意向は除姦に傾き居たるがごとし、しからずんば偽言をもって部下を欺きたる、道徳に反する責を辞すべからざればなり。
 慶喜公の京都に発するや沿道の雑沓言うべからず、たちまちにして我が公と相失し、勝静朝臣もまた失す、行いて鳥羽に至り始めて相合す、慶喜公淀の橋本に憩い我が公等も従って憩う、しばらくして慶喜公騎して発す、我が公皆騎従す、八幡牧方に至れば握り飯を推置して将士に分つ、翌暁慶喜公守口に至り厩舎の庭上に床机を設けてこれに倚り、我が公および定敬朝臣、勝静朝臣等団坐し、火を焚きて暖を取り酒を暖めて共に酌む、慶喜公いわく、宰相京都に滞ること六年、その間の丹誠実に感ずべし、中将もまた同じ、しかして今このごとしこれ天なり、朝廷より譴責せらるゝの風説ありしに、事なくして暇を賜りしは不幸中の幸いと言うべし、畢竟卿等誠心の貫徹せるなりと慰諭することこれを久うす、十二月十三日申の刻慶喜公大阪に入る、城代牧野貞直朝臣膳羞を献ず、慶喜公その半割き我が公、定敬朝臣に賜う。
 同十三日岩倉具視朝臣は事務方策二条を挙げて薩藩に諮問す。

第一 四藩薩長土芸の議論離合に拘はらず薩長の兵力を以て何く迄も干戈を以て朝廷を奉護し成敗を天に任せ戦を一図に決する等の事

第二 暫く尾越の周旋を見て徳川氏大阪に於て鎮定の上両事件御受真に反正の実行挙り候はゞ寛大の御処置を以て既徃を咎めず議定職にても御採用其余列藩とも広く御用ひ氷炭相合して皇国を護持する等の事


 大久保一蔵は西郷吉之助らと議し、第二策の出つべきを答申す、具視朝臣はその議に従いて尾越二藩の周旋にゆだね、一蔵の書その秘密を漏らす者あり左のごとし。

右両条は九日御定算の通り萬事叡断に出て一戦と相成候上は第一条に出るの外無之候へ共八日より徹夜の朝議にて九日十時頃御退散相成候時宜合にて尾越芸三公は其儘の参議にて容堂公四時頃御参夫より小御所の衆議となり越土公大に徳川氏を助け即夜参朝を命ぜられ御評議席に召され度との御大論殊更土藩後藤なる者必死に之を推助し殆ど危に至り反正の実行挙り候上ならでは御採用然る可らず云々賢くも大守には御建言在せられ候尚紛々として決せず御勘考との御事にて一旦御開に此間後藤なる者頳りに周旋尽力す臣大守公を奉助砕身して論破し一藩を以て漸く是を拒くを得終に尾越公両事件御内諭の趣を奉し徳川氏をして反正の実行を挙けしむるの周旋を御受と相成り再度小御所に於て御評議尾越両公御受の趣言上を遂られたる御都合なり故に第二条に出るに非ざれば致方なし云々

 これ薩藩が諸藩の反抗を恐れて、一時討幕の鋒鋩を収めたるなり。
 十四日三職列座す、具視朝臣、慶永朝臣を見ていわく、大阪城未だ鎮静いたらず、輦下訛言ますます多く物情騒然たり、これ貴下の知る所なり、内府退官納地の奉命を遅緩せば恐らくは変を生ぜんよりて徳川慶勝卿と協議し速やかに命を奉ぜんことに力を尽くさんことを望むと、これにおいて慶永朝臣は豊信朝臣および戸田大和守と議し、共に具視朝臣に答えていわく、ただいま旗本の人心このごとくなれば内府容易に辞官納地の命を奉ずること能わざるべし、ゆえに徳川氏臣下の情に反せざらんことを請う、しからざれば大患従って生ぜざるを期せず、また官位は何の点に辞し領地はどれほどを献じて朝意に合すべきや、大阪の物情を調和するに先んじその程度を知らざるべからず、実に徳川氏の存亡天下治辞のかかる所なれば、事情を洞察し評議せられんことを請うと、具視朝臣いわく、貴下等の事情を推察せり、その書の出づるあらばまた議する所あるべし、ただし官位の事は辞退して可なり、これ決して貶降にあらず、ただ前内府と称すべきのみと、豊信朝臣心安んぜず、さらに後藤象二郎をして具視朝臣を訪わしむ、具視朝臣見るを許さずしていわく、すでに決定の大事なり、一人の談聞くべきにあらずと、象二郎懇請して止まず、具視朝臣強いて対面す、象二郎は豊信朝臣の意を告げていわく、大阪城の人心甚だ穏やかならず、しかして強いて辞官納地の命を奉ぜしめんとせばますます旗本を激怒せしめ、たちまち禍乱を生ぜん、慶永朝臣、豊信の大に憂うる所なり、願わくは他の方法を以て徳川氏を遇せられんことをと、具視朝臣いわく、大に不可なり、すでに先帝の顧命ありて真宸断を以て発せし所の命令なり、鎮撫の難きを以てこれを更むるは、いわゆる朝令暮改にして新政の今日に当り皇威不振の基とならん、慶永朝臣すでに死を決して辞官納地の命を奉ぜしめんとするを以て、挙朝その義気に感じ必ず成功を告げんことを望めり、しかして今その命を廃せんとするは予期せざる所なりと、断固として聴かず、象二郎再三哀訴したるも意を得る能はざりき。
 具視朝臣は十二月九日の大改革を以て、『先帝の顧命』によると称すれども、先朝の信用厚かりし朝彦親王、二条殿下、徳大寺公純公、近衛忠凞公、同忠房公等の人々一人もこの顧命ありしも知らず、その厳譴を具視朝臣ただ一人顧命ありきと称するは最も怪しむべし。
 時に九日の警報江戸に達するや、我が藩の留学生永岡敬次郎先つこれを耳にし、江戸留学生を芝新銭座の藩邸に会合してその方向を定めんとす、会する者四十余人皆いわく、戦機すでに起こるきざしがある学を修むるの秋にあらずと、たちたまち西上に決す、敬次郎、浮洲七郎等藩相上田学太輔に就いて西上の許可を請うや、学太輔容易に許さず、これにおいて敬次郎等学校奉行町田傅八を見て、藩相もし許さずんば脱して国難におもむかんとするの意を示したれば、学太輔その止むべからざるを察しその情を許し、江戸定詰大砲隊をして同行せしむ、大砲隊はすなわち学校奉行町田傅八の率いる所なり、書生隊は即日江戸を発し、大砲隊は翌日を以て発す、皆伊賀路をへて大阪に入る。
 かくのごとくして我が政体変革したれば当時滞阪中なる英米佛蘭伊孛の六国公使等登城し、老中に就いて今後外国事務を処理するの政治機関を問う、慶喜公思えらく、外交の事たる真に国体の如何に関せず、一日もその官なかるべからず、朝廷の設備すべからざるの間は進んでこれを維持し、その人定まるを待ちてこれを譲るにごとかずと、すなわち十六日在阪公使を黒書院に引見す、これにおいて佛国公使レオンロッシュは佛文の書を朗読す、その大要は日本政体変革後締盟各国はいずれの政府に向かって外事を交渉すべきかと言うにあり、慶喜公おもむろにこれに答えていわく、『我祖先東照公日本国の政体を立し事、大綱立ち萬目挙がり、二百余年、上天子より下庶人に至るまで、その徳を尊びその澤に浴せざるものなし、しかるに宇内の形勢一変し、外国と条約結びし以来、全美の良法も虧欠あるを免れず、余継統の初めよりこの事を熟考して、京師と協議しこの法を改革せんとす、この他念あるにあらず、偏
に憂国愛民の赤心より、余か祖宗以来傅承の政権を投げ打ち、広く天下の諸侯を集め、公議をつくし興論を採りて、余が国政府の建法変革を定めんと、信約をもって朝廷によせたり、この鴻業を成んため先帝より遺命ありて、幼主を扶翼するの摂政殿下を始め、宮堂上方数名、余か政権を帰すことを諾す、乍去諸侯の公議相決するまで諸事これまでの通り政権を執行すべし、との勅命なるにより、もっぱらその会議の期を待ち、断然その席に臨まんとせしに、あにはからんや、一朝数名の諸侯兵仗を帯して禁門に突入し、先帝顧命の摂政殿下をはじめ、宮堂上を放逐し、先朝譴斥の公卿等を引き入れて代わらしめ、最前勅命の旨を変し、公議を待たず将軍職をも廃止する事に至れり、余か旗下譜代の諸藩大に憤激し、日本の大法を壊り、皇国民臣に背きし暴戻の罪を責め、兵を挙ぐるの他なしと日夜余に迫れり、しかれども最初政権を放棄せしは、畢竟上下の人心を一和するためなるに、右様の過激に及ぶは素心にあらず、仮令如何なる正理ありとも、余より乱階をかもすこと決然なすに忍びざる処なり、ゆえに余この禍乱を避けんがため、一ト先下阪に及びしなり、しかれどもこの事他人より視るごとき事情にはあらず、余や国を憂へ民を愛する情より、彼の兇暴の所業を視るに、幼主を挾み叡慮に托し、私心を行い萬民を悩ます、見るに忍びず、なにぶん国の為に弁論せざるを得ず、万一異見の向をも告諭し、公議興論を問い、偏に我国の隆治を祈る、これ祖宗東照公愛民の余霊により、先帝の遺志を継がんと欲し、天下と同心協力して、正理を貫き事業をとげる、公議を定めんと希の他なし、ついては余か国と和親の条約を結びし各国は、国内の事務に関係するに及ばず、都て条理妨くる事なきを要す、余すでに条約の箇条残る所なく履行ひしなれば、なおこの上とも令誉を失ざる様各国の利益助け、追々全国の衆論をもって、我が国の政体を定むるまでは、条約を履み、各国と約せし条件を一々取り行い、始終の交際を全するは、余が任にある事なるは諒せらるべし』と。
 慶喜公は更に各国公使に告ぐるに、今後の親睦をもってし、かつ各員に別に面会を要するあらば、時に臨み引見すべきを演べてこれに礼す、各国公使もまた礼して退く、けだしこの公会は佛国公使レオンロッシュの注意に出づると云う。
 十五日松平慶永朝臣その臣中根雪江に命じ、参朝して後藤象二郎と協議し内調を計らしむ、雪江、象二郎と共に慶喜公への勅命書の内見をゆるさる。

先日尾越両藩を以て御沙汰之旨有之候処今以御情無之に付不得止辞官の趣被仰出候且領地返上の儀は天下の公論を以て其の宜きに従はる可く候事

 徳川慶勝卿、松平慶永朝臣へ勅命あり、左のごとし。

徳川内府進退の儀に付厚き思召も有之尾越両藩へ被仰出候儀も有之頃日出各周旋の次第は分明候へども今以て御情無之此上如此姿にて遅延候ては物議を生じ候儀に付不被為得止別紙の通被仰出候間右之旨早々可相達候事

 雪江いわく、領地返上の文字甚だ大阪城の人心に関す、よろしく改削せざるべからず、具視朝臣いわく、領地返上は緊要の文字にして改削するを得ず、かつこの文章は今夕尾越の重臣を召して交付すべし、雪江いわく、この勅命発表の後、もし徳川氏遵奉せざれば禍害測るべからず、先づ大阪城を調訂して、しかして後令を発せんことを請う、具視朝臣いわく、良し、時宜により朝廷特に命ぜずして内府の奉命を奏するも可なりと、山内豊信朝臣この草案を見て、領地返上の文字は大阪城の人心を激昂せしめ、内府公奉承意を達することあたわずと、更に草案を作り再び後藤象二郎を遣わして具視朝臣に謁してその案を出し、かつ言はしめていわく、この案のごとく成らずんば大阪城の人心を鎮撫し難し、朝廷もし採納せられずんば豊信は帰国の暇を請うべきのみと、其の案は左のごとし。

今般辞職被聞召候に付ては辞官の仰下され候且王政復古に付政府御用地差出すべく旁天下の公論を以てその宜きに従はるべく候事

 具視朝臣いわく、断じて採用し難し、しかるに採納せずんば帰国すと、豊信君は朝廷依頼柱石となす、しかるにその言行われざるを以て暇を請いて国に帰らば、何の面目ありて天下に立たんや、もし暇を請うあらば延議すみやかにこれを許さんと、象二郎して退く。
 十六日越前藩青山小三郎は後藤象二郎を訪ひ、慶永朝臣の意を致し前日の議について謀る所あり、象二郎いわく、この事密にせざれば成らず、参内して直接に論ずるはかえって事を難からしむるの恐れあり、貴老公の深慮を旨とし朝命更改を周旋すべし、今日の事予は中根雪江、酒井十之丞両参興と密に協議せば可ならんと、小三郎また辻将曹を訪ねてこれを謀る、将曹の見る所もまた象二郎に同じ、かついわく、この事の当否は公議に付し議定の職掌をもって公論するに如かずと、慶永朝臣はついに参内せず、雪江、十之丞参内協議して朝命を慶喜公の奏請文に改め、象二郎これを具視朝臣に出して同意を求む、弁難討論すること数刻夜に及んでようやく決す、その書案は左のごとし。

今般辞職被聞召候に付ては辞官仕りたく且王政復古に付政府御用途の儀も天下の公論を以て所領より差出候様仕り度奉存候事

 奏請書案は定まりたれども、徳川家にして果たしてこれを遵奉すべきや否やはなお疑問に属す、これにおいて後藤、中根、酒井等在京の若年寄永井尚志に謀らんとす、たまたま尚志は雪江を招き先つ宮中の近状を問う、雪江大略を述べる、尚志いわく、実に恐懼に堪えざるなり、過刻有司来り、共御尽きんとするを告ぐ、ゆえに従来の列によらしむ、なお二三十日を支うべし、しかれども聞く宮中の内帑散逸して寡少なりと、実に寒心すべし、先帝一周年の法会近きにあり、いかにして執行あらんか、かの洛中の混雑状見、大津の廃駅行旅の困難いまだ王政の美を称するに足らず、既にして雪江大阪城の形勢を問い、かつ朝旨の書案を示していわく、このところ言、朝廷強いて事を好むものにして是非するの要なし、雪江いわく、しからず、某ら力を尽くして平穏を計り辛うじてこれに至れり、尚志いわく、あるいはその言のごとくならん、しかれどもこの書案のごとき更に条理の存するなし、官位と将軍職とは自らその性質を異にする、今将軍その職を辞すと、いえども何ぞ必ずしも辞官の要あらんや、また領地の事は仮令朝命あらざるも、朝廷の匱乏を傍観すべきの理なし、励精皇室に尽くさんとするは素より内府公の心事なり、さきに政権奉還の際も、諸侯と共に協心戮力皇国維持の詔を奉戴せんことを期す、しかるにこのごとく疎外の冷遇を被るにおいては、早速如何ともなすことあたわざるなり、畢竟この書は巧辞をもって降官削地の事を書するものにして、自ら罪責の形を残す、今日長州すらなおかつ入京を許されたるに、内府公果たして何の罪ありてこのごとくなる、ただし内府公はいやしくも詔とあらば必ず奉戴して違背することなかるべしといえども、板倉勝静朝臣および予等皆命を奉ずるあたわず、足下は朝議このごとき書辞をもって至当となすか、大阪城にては大蔵大輔、容堂は何をなしつゝあるやと評論せりと、雪江いわく、しからば如何せば大阪城の人心に適するか、尚志答えていわく、朝廷過去を後悔し、九日以前に復せば従って匡救路もあるべし、これを要するに今日のごとき失体をかもしなるせし根源は実に二賊(薩長二藩か、一説には西郷、大久保)にあり、ゆえに彼の二賊を除くは今日の急務なり、貴老公にこの意をもって足下の斡旋をわずらわす、今や士気激昂の薩邸の襲撃目睫の間に迫れり、雪江いわく、今日貴下の余を招きし要件は二賊を除くにありや、尚志いわく、しかりよろしく貴老公に告けらるべしと、雪江帰りてこれを慶永朝臣に告ぐ、慶永朝臣長大息していわく、沈重なる玄蕃頭にして尚この言をなすかと、雪江これを象二郎に報す、象二郎もまた大に驚く、この日我が藩相田中土佐は京都残留の二番組堀半右衛門隊、林権助隊を率いて大阪城に下る、新選組頭近藤勇、本国寺水戸兵頭大庭一真斉と共に留まりて二条城を守りしに、議協はず勇出てゝ伏見に屯す、一日勇騎して巡視す、たまたま何者にか狙撃せられ銃丸その股を傷く、慶喜公これを聞き侍医を遣わし且つ自ら用いる所の寝具を賜う、我が公もまた医を遣わして慰問せしむ。
 十七日後藤象二郎、永井尚志をその旅館に訪ねていわく、昨日貴下が雪江に告ぐる所のごとくならば干戈たちまち輦下に動かん、それをもってこれを見るに、内府先づ人心鎮定の状を奏するを名として上洛し、尾越両侯をもって辞官納地の二件を奏請せしめ、勅栽の下るを待ちて参内し恩を謝せられなば、過日来の紛糾自ら一掃すべし、しかれば後図の策のごときは自ら生ぜん、今日の務は偏に平和を旨として内府公の上洛を斡旋せんことを望むと、反覆弁論せしかば、尚志も悟る所ありその議に従って慶永朝臣と協議して大阪に下り微力を致すべきを約し、即日慶永朝臣と尾州邸に会して評議す、象二郎、雪江および田中国之輔席に陪せり、席上内府公上洛し辞官納地の事を尾越両侯に口演し、両公これを書して上奏し、これを聞き召さるゝと同時に参内の詔ありて議定に補せらるべきに決し、かつ慶喜公参内の当日には尾越土の三侯も参内し、有栖川宮熾仁親王、山階宮晃親王、仁和寺宮嘉彰親王、並びに中山、正親町三条両前大納言と熟談を遂げ、岩倉具視朝臣これを周旋し、朝議ただちに決するようにせんとの事に内談整いたり、会議このごときに至りしは、けだし今朝具視朝臣は象二郎を招きて慶喜公の上洛を周旋すべきを命じ、しかしてその順序のごときは一任して問わずとなしたるによる、これにおいて尚志翌日をもって大阪に下り、雪江、国之輔もまた前に相談したる『今般辞職云々』の上奏案を携帯して下阪す。
 この時に当りて慶喜公大阪城にありて、数万の兵士囂々たるを患へその兵を配置す、播州街道西宮札の辻は小浜の兵若干人、京都街道守口は亀山の兵若干人、奈良街道堀口は姫路の兵若干人、紀州街道住吉口は肥後の兵若干人、本陣を真田天王寺とす、大阪にある者は歩兵頭横田五郎三郎の大兵二大隊、同河野外一郎の隊兵二大隊、同窪田泉三郎の隊兵一大隊、同小笠原石見守の隊兵一大隊、撤兵頭塙鍵三郎の隊兵五小隊、同三浦新十郎の隊兵六小隊、同巨細銀三郎の隊兵半大隊、銃隊頭杉浦八郎五郎の隊兵五小隊、大久保能登守の奥詰銃隊八小隊、谷主計の砲兵一座半なり、遊撃隊、新遊撃隊は市中並びに城外を巡邏し、見回組および奇兵隊、撤兵隊半小隊は十三川の渡頭を守り、徳山出羽守の歩兵二大隊、間宮鉄太郎を牧方に置き、また牧方淀に各騎兵を置きて傅令に供す、伏見は奉行官庁の衛兵一千余人に新選組を加える、大阪城外十四箇所の柵門に各歩兵一大隊を置く、京阪の間その要地徳川氏の兵ならざるなし、慶喜公は朝廷の処置を摡歎し、大目付戸川伊豆守をして左の上奏書を呈せしむ。

臣慶喜不肖の身を以て従来奉蒙無渝之寵恩恐感悚戴之至に不奉堪乍不及夙夜不安寝食苦心焦慮宇内之形勢を熟察仕政権一に出て萬国並立之御国威相輝候様広く天下の公議を盡し不朽之基本を相立度との微衷より祖宗継承之政権を奉帰同心協力政律御確定有之度普く列藩之見込可相尋趣建言仕猶将軍職御辞退も申上候処召之諸侯上京衆議相決迄者是迄之通可相心得旨御沙汰に付右参着之上者同心戮力天下之公議興論を採り大公至平之御規則相立度奉存候外他念無之鄙衷不空と感戴仕日夕企望罷在候処豈料や今度臣慶喜え顛末之御沙汰無之而已ならず詰合之列藩衆議だにも無之俄に一両藩戎装を以て宮闕に立入り未曾有之大変革被仰出候由にて先帝より御委託被為在候摂政殿下を停職し舊眷之宮堂上方を無故擯斥せられ遂に先帝譴責の公卿数名を抜擢し陪臣之輩猥りに玉座近く徘徊いたし数千年来之朝典を汚し其余之御旨意柄兼々被仰出候御沙汰の趣とは悉く霄壤相反し実以驚愕之至に奉候仮令聖継より被為出候御義に候とも可奉忠諌筈况や当今御幼冲之君に被為在候折柄右様之次第に立至候ては天下之乱階萬民塗炭眼前に迫り兼々獻言仕候素願も不相立金甌無釁之皇統も如何被為在候哉と奉恐痛候臣慶喜目今之深憂此事に御座候殊更外国交際之義者皇国一体に関係仕候不容易事件に付前件の如き聖断を矯候輩一時の所見を以て御処置相成候ては御信義を被為失後来皇国の大害を醸し候義者必然と別て深憂仕候間最前真之聖意より被仰出候御沙汰に従い天下の公論相決候迄は是迄之通取扱罷在候鄙言之趣御聞受被成下兼て申上候通公明正大速に天下列藩の衆議を被為盡生を挙け奸を退け萬世不朽の御規則相立上は奉寧宸襟下は萬民を安し候様仕度臣慶喜千萬懇願之至に奉聞仕候

 これに関し前老中より一門および譜代諸藩に通達し兵を徴す。

別紙御奏聞状此度差出候に付ては思召の程奉感激候面々は人数召連れ早々上阪候様可被致候事

 『天下の公論相決候迄は是迄之通取扱罷在候』とあるは、状態を九日以前に復せんとするものにて、この明に薩長等に対する宣戦令なり、また親藩等に兵を率いて上京を命ぜしは、すなわち今言う動員令なり、これより見れば慶喜公は兵力に訴えても、上奏の趣意を貫徹せんとしたるは疑いなきものとす。
 十八日朝廷大阪城北上の勢いを示すは、会津、桑名の強要する所ならんを疑い、尾越両侯に令して帰国を促そしむ。

徳川内府下阪以後鎮撫方の儀命し置れ候処会桑今に滞阪此頃山崎辺人数繰出し候哉の聞へ有之人心同様萬一念若の徒故なく事を発し候ては甚宜しからず候間会桑二藩早々帰国取計べく急度尽力あるべく更に御沙汰の事

 これにおいて徳川慶勝卿は翌日二藩帰国の周旋をなすべきことの答書を上れり、しかるに一方戸川伊豆守は慶喜公の上表をもたらし、この日夜をもって入京し、先つ永井尚志に謀らんとせしに、尚志は既に京都を発してあらざりしかば、さらに目付梅澤弥太郎と議し戸田忠至を訪ひ、上書を示して総裁宮に上らんとす、忠至驚きていわく、これ一大事なり明朝を待つべしと。
 翌十九日戸田忠至はひそかに岩倉具視朝臣を見てこれを告く、具視朝臣いわく、九日以来尾越土の三侯内府に反正の実を顕わさしめんとし、しきりに周旋するの際この書を上らば、朝廷ただちに問罪の使を出すに決し、三侯の苦心水泡に属せん、ゆえにしばらくこの書を我が手に留むべし、足下よろしくこの書を三侯に謀るべしと、忠至すなわち慶永朝臣に謀る、慶永朝臣いわく、この書激烈に過ぐ連日の尽力を空しからしむべし、公然の上奏はしばらく猶予すべしと、忠至またこれを豊信朝臣に告ぐ、豊信朝臣これを憂へ後藤象二郎をして具視朝臣に意見を問わしむ、具視朝臣いわく、彼の上奏の事は今朝忠至よりこれを開れけり、しかれどもその書を公表するときは万事休す、よりて忠至に告げてその書を我が手に留めたり、想うに今日の策は内府参内するにあらざれば不可なり、もし永井尚志の力にて内府を起こすに足らずんば、尾越両侯と共に容堂侯大阪に下りて迎へらるゝの外良策なかるべしと、すなわち未の刻豊信朝臣、慶永朝臣、戸田忠至相共に越前邸において戸川伊豆守に会し、これを慰諭していわく、奸を除くの上奏書は大阪城の積鬱をもらすの拙策なり、今日の実況偏に内府公の上洛を望む、朝旨奉戴の誠意をもってすみやかに参内あるにごとかず、この挙天下朝廷を安んずるの長策たるべしと、これにおいて伊豆守その説に服して上奏の使命を止め大阪に帰れり、かくてその夜具視朝臣はその上奏書を尾越両公に付托したれば、越前藩士毛受鹿之助急使を馳せて在阪の中根雪江に周旋尽力すべきを報じたれども、雪江すでに大阪を去りたる後にして遂にその意を達せず、先に雪江の大阪に至や、尾州藩士田中国之輔と共に大阪城に登り、永井尚志に面会せんとす、目付榎本対馬守両士を引見し、一書を出していわく、これ昨日戸川伊豆守の携へたる内府公の上奏書の謄書なり、足下これに就きて意見あらば見解を述べよと、両士これを見るに書中の趣旨実に大事に属するをもってこれを騰写し且ついわく、書中の事誠に至当にして更に言うべき所なし、しかれども朝廷の採納得て望むべからず、この書は何人に示せられたるか、対馬守いわく、戸田大和守をもって有栖川師宮(時に宮太宰師たり)に示せんことを期せり、雪江またいわく、宮以外にあらかじめ謀る所ありしか、対馬守いわく、謀る所なし、雪江いわく、これ拙策なり、内府公の意旨貫徹せざるのみならず、朝廷および徳川家共にその害を破らん、ゆえに京都の議ただ平穏に内府公の上洛を請い謀る、しかれどもこの書すでに出つまた如何ともすべからずと辞して分る、永井尚志両士を見ていわく、戸川伊豆守の上京するや共に謀り、しかして後上奏書を示せんとしたるも、事齟齬しすでに時期を逸せり、これに処する足下の意見如何、雪江いわく、公議に付するあるのみ、また一本を諸侯議定に出すを要す、自ら周旋の材料足るべしと、平山敬忠謄書一本を携えて来りて両人に付す、雪江等即夜京都に帰り、具視朝臣すでに上奏書を尾越両侯に付托せしを聞き、なお前議をもって周旋せんと欲し再び大阪におもむく。
 二十一日朝廷参興兼京都総取締田宮如雲に伏見市在出向取締を命じ、薩長土芸四藩に令していわく、

伏見表今度御変革彼是多端の虚に乗じ狼藉者の横行人心安からざる種に相聞へ候付急度巡邏鎮定可有之候

 土芸これを辞し薩長命に応じ兵を発して厳守す、二十二日中根雪江、田中国之輔大阪城に登りて先つ永井尚志、戸川伊豆守を見んとす、尚志等すでに京都におもむく、すなわち平山敬忠に面して京都の形勢を説き、内府公上洛せざるべからざるを述べる、敬忠これに賛す、雪江、慶喜公に謁して具状せんことを請う、敬忠いわく、内府公上洛の意あらばあるいわ引見あるべしと、午後板倉勝静朝臣、大河内正質朝臣、敬忠と共に雪江、国之輔を見て意見を問う、雪江、国之輔京都の事情を詳述し、かついわく、この機を逸せず内府公上洛して大勢を挽回し、人心を鎮定せずんばあるべからずと、議論最も剴切なり、勝静朝臣等これに従う、両士またいわく、辞官納地の事も共に決せられんことを請うと、勝静朝臣いわく、この事甚だ難しい到底今日に決すべからずと、これにおいて、両士先に具視朝臣の同意を得て決したる所の草案を出していわく、このごときを得ば尾越両より繕書して朝廷に奉呈すべしと、勝静朝臣はこれを受けて座を去る、すでにして正質朝臣、敬忠と共に出て両士に草案を示していわく、このごとくならば如何と、両士その圭角(かどのある言葉)ある文字を筆削したるに正質朝臣、敬忠一旦座を退き、しばらくありて勝静朝臣、正質朝臣、敬忠出てゝ論議反覆、終わりに改書して目付設楽備中守よりその書を交付す。

辞官の儀は朝廷の御沙汰次第に仕るべく、且政府御用途之儀は追て天下の公論全国の高割にて相供候様御決定相成候様可然事

 これより先戸川伊豆守の上京せるは、慶喜公の上洛は朝命に出づるを周旋せんが為なり、しかるに雪江等は辞官納地のこと未だ定まらずして召命あらば難事を生ずべきを告ぐ、ゆえに急使を馳せて雪江等の帰京を待ちて商議せしむるの命を伝える。
 永井尚志は二十一日をもって京都に至る、毛受鹿之助これを訪ねいて大阪の状況を問う、尚志いわく、戸川伊豆守大阪に帰り京都の状況を具申したるをもって、更に再議して上奏することを止め、京都の形勢に従い内府公上洛せられんとす、ゆえにその事を調査せんが為に来れりと、二十二日の夜慶永朝臣、永井尚志、後藤象二郎、福岡籐次、酒井十之丞、毛受鹿之助等山内豊信朝臣の旅館に相会し、辞官納地の事を定めざれば内府公の上洛は却って不可なり、先つこの事を定めざるべからず、しかるに京阪相隔たり往復に時日を費やし、むなしく遷延を免れず、ゆえに朝廷命をもって尾越両侯大阪に下り、内府公に具陳し、内府公朝命奉戴の後上洛をも謀るべし、すなわち明日三職ことごとく参内の事を上申して、尾越両侯よりその旨を建議するにごとかずと協定し、十之丞、鹿之助、徳川慶勝卿の旅館に至りてこれを報ず、慶勝卿もまたこれを賛し且ついわく、明日大阪に下り会桑の帰国を促さんとす、しかれども今しばらく延期を請うべしと、明日三職ことごとく参内の事を朝廷に申請せんとす。
 二十三日早天永井尚志は使いを越前邸に遣わして大阪の親書を贈る。

一翰奉呈上候然は只今阪地急騎便を以て兼て内諭御座候二箇条の儀に付申越候趣は雪江国之輔両人再び下阪にて削地辞官の儀に付云々被申聞候に別紙之通り御内答書出来両人も板倉伊賀守殿松平豊前守殿一覧致し加筆通り取直し相成候様致し度との旨に付其の通り取直しに相成申候右加筆通の書面にて宜しく候はゞ早速御差出に相成べく候へ供左も無之候ては所詮御上京の運びに相成兼候尤も右は公然御旗本の士へも相示し候様不相成候ては必ず大に沸騰鎮撫す可らざる勢に立至り候段申越候昨夜御内談の趣も御座候間取敢ず別紙相添此段申上候云々

 尋ねいで尚志越前邸に至り、後藤象二郎を招き共にこの書中について反覆討議し、大阪より送付する所の文案を添削して成れり、これにおいて尾越より建議の事あるをもって、三職ことごとく参内して審議あらんことを朝廷に申請す、たまたま戸川伊豆守、目付保田鋒太郎、越前邸に至りて慶喜公の土越両侯に興うるの手書を出す。

一翰呈進扨は戸川伊豆下阪御地之御模様委細致承知候何分にも早々上京致候様にとの趣云々致承知候素より誠意を以て皇国の御為に致度微衷追々建言も致候儀に付此度の儀迚も皇国の御為に相成儀候はゞ速に上京協力同心正義を盡度素志志情願候得共先頃既に大変革之節家来共鎮撫之為大阪へ引取候次第にて漸く説諭をも相加へ鎮定には相成候得共此度天下の為上京致候共家来共承候はゞ一向に危地に臨み候様存取又々沸騰難留に可到と熟知致候間此上之御尽力にて可相成は御所より御用有之に付被為召候様相成間敷哉左候はゞ家来にも如何様とも鎮撫説諭いたし早々上京候様可致委細は伊豆申含玄蕃折合せ可及御細咄候間深く御諒察可給候右上京之節は人数も召連候事故兼て宮闕は勿論市中末々乞誤解いたし猥りに驚動く不致様鎮撫方御心付可有之候余は両人の口吻に托し早々閣筆不悉
 十二月二十一日夜認  内府
  大蔵大輔殿
  容堂  殿


 しかれどもすでに尾越両侯朝旨を奉じて大阪に下るの議を出すに決したれば深く意に介せず、未の半刻慶勝卿、慶永朝臣、豊信朝臣、浅野長勲朝臣参内す、島津忠義朝臣朝せず、慶勝卿、慶永朝臣いわく、徳川氏官禄の事は朝廷より命令を発し、その書を奉じて大阪に下り慶喜に達し、その奉戴の後上洛を周旋せんと欲すとて、その稿案を出して議に付す、しかるに政府御用途とのみありて領地返上の文字あらざれば、政権奉還の実効立ち難しと論難する者ありて容易に決せず、休議再三におよぶ、従来小御所の会議たるや、下参興すなわち藩士にして参興に任ぜられたる者もこれに列するを例とせしに、豊信朝臣、慶永朝臣の建議により、この日参興は列せざりき、これ薩藩士の異論を防がんが為なり、議定および上参興の多くはいわく、内府すでに政権を奉還し、しかして領地を返上せざれば名実相副わず、誠意顕れずと、下参興の多数はその詰所において論じていわく、文字上に理義の当否を争いて騒乱の起こるを顧みざるは非なりと、ひとり薩州下参興この議を賛成せず、論難相尋いで出で決する所あらず、尾越両侯朝野の安危得失を弁折して暁天におよびしかば、熾仁親王および議定参興等皆退朝す、両侯意を得ずして空しく退朝す、この日岩倉具視朝臣病と称して朝せず、大久保一蔵尾越土の三侯議論沸騰するを見て、ひそかに書を具視朝臣に贈りあえて参内せんことを請う、しかれども具視朝臣ついに朝せざりき。
 この日徳川慶勝卿は朝廷の処置苛酷なるを憤り、書を上りて公卿の反省を促せり、文にいわく、

徳川内府を始め諸侯一般残らず領地差上げ普下率浜悉皆王土の体裁に相成候上新に朝廷より土地を裂き封彊を定めらるゝは皇化御一新の境も判然と相立候御処分と奉存候是は皇国永世の御制度と申す者に付即時急遽の御取計には如何加有之哉仍ては先々救急権道の旨を以て今日の処は別紙御沙汰書案の振に行わせられ時の御変通を相立られ天下億兆焦眉塗炭の急を救わせられ候上稍海外の御交際も宜しきを得邦内人心も安定の上前条永世不易の御制度を被立候ては如何候半哉尤も是は三百諸侯残らず参集会議にて御手丈夫に御決定在らせらるべき方と奉存候若し順序を誤られ候て一時救急の権道と永世不易の御制度と其時を選ばずして兼施され候ては天下人民惑乱救うべからざるに至り申すべくと深く心痛仕候に付不顧恐奉献言候
  慶勝


 しかれども薩藩はこれをも姑息の論となし、あくまでも領地返上の文字をもって徳川氏に迫らんとし、大久保一蔵は正親町三条実愛卿に説き、決して尾越土三藩の提議を採用すべからずといへり。
 二十四日岩倉具視朝臣は大久保一蔵をその邸に招きていわく、尾越土の三侯は慶喜への勅書に辞官納地の文字ありては人心を鎮撫することを得ずと主張し、象二郎また力を尽くして徳川氏を助く誠に以外なり、断然これを決せざるべからず、ゆえに書案を確定しもし諾せずんば已むを得ず尾越の周旋を絶ち、朝旨を厳命するの意を示さざるべからず、よろしく草案を作るべしと、一蔵すなわち書案を草し、これを具視朝臣に示していわく、一字も添削せざるを請うと、案にいわく、

一 今般辞職被聞召候に付ては朝廷辞官之例に倣い前内大臣と被仰出候事

一 政権返上被聞召候上は御政務用途之分徳川領地之内夫々取調之上天下之公論を以て返上候様可被仰付候事


 具視朝臣すなわちこの書を三職に下して朝議に付せしむ。






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/30(金) 21:30:42|
  2. 会津戊辰戦史1
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/77-18cfc6dc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。