いがぐり史料館

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領地返上につき中根雪江の明弁

領地返上につき中根雪江の明弁

 しかるにこの日慶勝卿、豊信朝臣および島津忠義朝臣は並びに病と称して朝せざりしかば、武門議定は慶永朝臣、浅野長勲朝臣および慶勝卿の名代成瀬正肥のみなりしが、慶永朝臣と正肥とは大久保一蔵の起草せる諭書案の領地返上の句を除かんと主張し、また二十五日より一週間を限り、必ず慶喜公をして奉命する所あらしむべければとて、それまでの猶予を請い、もし右の句を除きたる上にても、慶喜公これを遵奉せずんば、追討の朝命をも違背せざるべしと、尾越の下参興はその席に陪するを得ざれば、裏面の周旋を開始し、中根雪江、田中国之輔等は公卿中議論家の名ある右中将中御門宗有、大納言正親町公薫、三位長谷信篤、右大辨萬里小路博房等の処公卿を見て、国之輔先ついわく、返上の二字人心に影響して甚だ不可なりと、諸卿いわく、一理なきにあらざれども政権奉還の上は、領地を返上せざれば名分名義立たずして、内府の誠意も顕れざるにあらずやと、雪江声に応じていわく諸侯の語を案ずるに、明分却って明らかならず、よくよく徳川氏の関東八州を領有するは、豊太閤の時に当りてその旧領駿遠参甲信と替ふるところにして、武巧をもって得たる者と異なることなし、その他の領地も皆由緒ある者にして、一も朝廷に賜わりたる者にあらざるは、当時の世態の然らしむる所にして、決して政権にも将軍職にも属する者にあらず、また祖先東照宮の世にあるや、天下の人心ことごとく徳川氏に帰せしをもって、政権もまた自らその掌握に帰せり、他の有を奪へるにあらず、他より譲られたるにもあらず、また将軍職のごときも再三辞したるも強いて命ぜられたるなり、爾来二百余年継承せるものなれば、今日におよびその政権を奉還したりとて、その領地も併せてこれを返上せざるべからざるの理由果たして安くにあるや、いわんや政権に関わらざる一般諸侯は依然として旧封土を領するにおいておや、これをもって見れば徳川氏のごとき世々政権を執り心を労し力を尽くし、功を重ね得を積みたる者は却って不幸に陥る者と言うべし、天下豈にこのごとく条理に反するの事あらんや、元来政権と領地と将軍職と官位と皆性質を意にし、名義に関するものにあらず、しかるにその領地を返上せざれば名分名義立たずと言うは解すべからず、諸侯いわく、このゆえに昨日諸侯皆領地を返上せしむべしとの議ありしともいえども、当を得ずとしてこれを止めたり、雪江等いわく、実にしかり、いまもし諸侯皆領地返上の命下らば、天下たちまち擾乱すべし、徳川氏一家におけるも人情何の異なる所あらんや、すでに諸侯に不可ならば何ぞ一人徳川氏に強制するの理あらんや、諸侯辞ようやく窮し僅かに遁辞を設けていわく、普天の下率土の浜皆王土王臣ならざるなし、ゆえに朝命により土地を返上するは当然なり、雪江等いわく、天下ことごとく王土にあらざるなしといえども、随意に朝命をもってこれを返上せしめんとするは正理にあらず、おおよそ土地人民縦令叡慮に出づるも、条理に反するものは行はるべからず、請う近時の長州再征を見よ、名義正しからず、ゆえについに匡救すべからざるの情勢に致したるにあらずや、いわんや徳川氏と長州氏と同一視すること能はざるをや、謀等徳川氏の支族臣子たり、宗家存亡の秋に際して坐視するを得ず、偏に憐察を乞う、不肖等また参興の任を辱うす、皇国朝廷の為に諌争せざるを得ずと、議論剴切言々肺腑より出ず、すなわち諸侯復た争うことを得ず、この日下参興の席室においては、大久保一蔵等藩論を維持せんと欲し、論難底止する所なしといえども、諸侯すでに尾越の下参興に論破せられしをもって、朝議ついにその意見を容れて訂正する所あり、『御政務御用途も可有之に付領地返上の儀は公論をもって可被仰出』とあるを『御用途之分は領地之内取調の上公論を以て御確定可被遊』改削して、長谷信篤卿より尾越両侯に示す、両侯いわく、『確定』の字可なり、『領地の内』の下に『より』の二字を挿入すべしと、固く執りて動かず、具視朝臣ついにこれに従う、すなわち更に小御所に会して、熾仁親王は左の書を慶永朝臣に交付す。

一 今般辞職被聞召候に付ては朝廷辞官之令に倣ひ前内大臣と被仰出候事

一 政権返上被聞召候上は御政務御用途の内より取調の上天下之公論を以て御確定可被遊候事

右両件心得迄御沙汰候事


 親王又徳川慶勝卿代理成瀬正肥を召して令書を興ふ、これにおいて先に将軍政権返上後ひとり徳川氏にのみ土地を返上せしめんと主張したる、具視朝臣、一蔵らの意見は次第に折衝を重ね、ついに尾越土諸藩の正論により、具視朝臣の同意を得て根底より崩壊したり、あくまで干戈に訴えてその素志を貫かんとす。
 しかるに山内豊信朝臣は政府の経費徳川氏のみに出さしむるは条理に反せり、よろしく諸侯にもこれを及ぼさゞるべからず、かつこのごとくんば大阪城の人心を穏和するに足るを信じて、たまたま病によりて後藤象二郎にして代わりて左の建議を出す。

政務御用途の儀は御新政の御急務に付徳川内府より差上る段御請申上候はゞ速に列藩諸侯へは天下の公論を以て貢献の次第相手候様被仰出可然と奉存候右は容堂職分を以て申上候如何御決定可被付哉奉伺候以上

 象二郎もまた慶喜公奉命の後は、ただちに総高割発令の内定書を得て、容堂に示さん事を請いしが、朝廷はこれに附箋して内定したる事を告げたるのみ、これより先上参興は政府の経費は慶喜返上の地より充てるべしと論じ、下参興は全国の総高割にべしと論じていまだ決せざりしが、これにおいて豊信朝臣の議に決せりという。
 この日慶喜公は親書を江戸老中に授けて警戒せしむ、その書にいわく、

目今奸賊機に応じ関左(関東)を騒がし候由水府始示相暴行の草賊を打滅し当地御顧の憂無之様無懸念可取計候様可致候也






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/01(土) 20:36:56|
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