いがぐり史料館

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会津藩主従の誓書

会津藩主従の誓書

 二十五日我が藩内田武八若松に至り、我が公の親書を出して京都の状況を具申す、よりて喜徳世子(我が公の養子、後実家水戸徳川家に復帰す)急に将士を城中に会し、藩相をして告げしめていわく、今日の形勢に至りては、闔国の人民一致尽力して大義を明らかにし、神明に誓い力を尽くさん事を期し、藩祖以来の厚恩を奉ずべしと、左の誓書を興ふ。

恭惟ふに癸丑甲虎以来夷虜航海して猖獗を恣にして物価の騰湧日に益し月に甚しく人心乖戻に至る其原を尋れば幕府の失体より起る天皇深く之を憂悶し給ひ何となく公武の間一和せざるの勢あり幕府其罪を悟りて旧弊を除き遵奉の典を衆に選て我公を以て京都守護の職に任じ給う然るに京師の事情如何叡慮如何と云う事を知らず分を計り力を料て其任に勝へざらんことを畏れて敢て当り給わず衆論紛々として一定ならず時に幕府の内命に依りて人を遣わして京師の状を探らしめ髣髴として叡慮の有る所を知り給い今此職を奉じて輦殻の下を護り言若し信用せらるゝ時は公武の間を和し徳川家の危急を救う此時にあり假令任に勝へずして身を失うとも西上して京師を以て墳墓の地と定め上は叡慮を安じ奉り下万民を救わんと断然決心して上京して給う其以来精忠を抽で給うに依り天皇深く依頼し給い大樹の寵愛又厚し是以危難の事或は之ありと雖も必利運に轉し今に至る迄六年の間誠忠不渝始終一天皇叡慮の余り幾度となく宸翰を下し賜り公甞て病める時辱くも自ら内侍所に於いて祈願し給うに至る其寵遇実に比類なしと云うべし今春も先帝叡慮遵奉長々守護の職掌相励み其功不少叡慮不斜褒賞として参議御推任も有之元長州は先年より外尊王攘夷に托して実は不軌の志を懐き王室を誘い幕府を欺き其罪枚挙す可らず甲子七月に至り終に大兵を挙て禁闕の下を襲い銃丸御所の屋墻に及ぶに至る其逆乱の罪誅しても猶余りあり天皇大に逆鱗大樹も亦深く之を悪み給うと雖も終に寛典に従い僅に官位を褫奪し領地を削る其命を用ひざるに至りて其罪を声して之を伐つ然るに天皇崩御大樹薨去大喪打続き国家多難の時に遇ひ姑く兵を解くの処奸邪其隙に乗じ無勿体も幼主の明を暗し奉り事に托して長州の罪を赦して官位を復し先帝の勅勘を蒙る公卿を用ひ陪臣をして参興せしめ摂政殿下を始め奉り大樹我公桑名侯皆其職を免じ正邪地を換へ忠奸所を易るに至る是先帝の意にあらざるのみならず亦今上の意に非ざる事明白なり嗚呼一坏の土未だ乾かざるに今上をして父之道を改めしむる事大悪無道の至と云うべし其他和州の一揆を醸し英夷に降て其力を頼むの類其罪亦軽からず此上は幕府並に我公に汚命を負わせ兵を加えざらん事も亦知る可らず我公多年の精忠空しく水泡となりて残念と云うも愚なる事ならずや実に膽を嘗め薪に臥すの時にして君辱めらるゝ時は臣死するの期に至れり苟も人心ある者臣子の情に於て豈片時も安ず可んや禁廷に対し奉り弓を引く事は決して為す可からずと雖も奸邪の徒若し倫旨を矯め兵を加うるあらば関東と力を戮せ儀兵を挙て君側の奸悪を除かざるを得ず夫れ公の忠誠貫徹せずして今の勢に至るは抑盡さゞる所あるか是畢竟臣民公の意を戴任するの全からざるに由る恐多きの至りに非ずや然ば闔藩の士民貴賤上下となく祖宗以来の徳澤に浴する面々此意を領掌し力を合せ心を一にして兵起らば国家の賊を誅滅し武威益天下に輝さん事を期し日夜肝に銘じ暫時も忘るゝ事なく国論一途に帰し万人の心一人の如くならば我公の精忠天地を貫き神明の擁護有て再び晴天白日を仰く事豈疑あらんや仮令身死すとも厲鬼となりて祟を為し奸賊を絶滅するの心なき者は天地の神祇其之を殛せよ
 
 大勢そのごとく迫りしかば、会津にありし藩相は令して年賀の禮を停め、なお国境守備の戒厳を令し、その部署を定む。

一 津川口。赤谷口より三津喜澤迄木村忠右衛門隊、ただこの節出張候様、

一 伊南伊北桧枝股より八十里越迄。三番隊、

一 浜崎。桧原より村杉澤迄、長阪平太夫隊、

一 田島。熨斗戸より東不残、加須屋左近隊、

一 赤津福良の内大平より五箇江迄、山崎隊、

一 一番組の義は爰元に罷在、不時応援相心得候様、

一 猪苗代酸河野より小平潟間、口々御城代委任候様、


時勢切迫今日の世態と相成候に付ては今日にも如何様事変出来可致も難計四堺御備配り至極大切なる義は勿論に候処事に臨み聊もつれ有之候様にては必至と難相成義に付右之通り方面々々受取兼て御配置被成置の旨被仰出候依ては御差支に不相成様繰合地利見分探索をも可心懸候

右之通御定被置候得共時の形勢模様を以て持前外の御用被仰付候も可有之尤時宜に寄り御人差にて被仰付候義も可有之条兼て相心得罷在候様此旨被得其仲ヶ間並に組支配へも被申聞相備の面々へも可被申傅候事

 会津藩長沼流の軍政に於いては部隊の単位を隊という、その隊長は家老の内三名、番頭八名、新番頭一名、総て十二隊とす、家老の頭たる三隊を一番組二番組三番組と称す、この一組と番頭または新番頭の頭たる三隊を合わせこれを一陣という、組を率いる家老これが長としこれを陣将という、ゆえに全藩に三陣あり、一陣を先手とし、一陣を左右とし、一陣を殿(しんがり)とす、今年殿たる一陣は翌年左右となり、左右たる一陣は先手となり、先手たりしは殿となる、江戸京都の勤蕃は先手の陣これを務める、一隊にはその頭たる者の外組頭二名物頭三名あり、しかして甲子と称する士分、興力と称する徒級の侍合わせて六七十名、また物頭は足軽小頭二名足軽二十名に長たり、右の外家老組には旗奉行等あり、一隊の人員は従者を除き百三十名前後なり、当時の先手は家老田中土佐の一陣にて二番組番頭上田八郎右衛門隊、番頭生駒五兵衛隊、番頭堀半右衛門隊をもってこれを編成す、京都には右一陣の外に大砲隊、別選組等ありき。
 二十六日阿州藩長江播磨、筑前藩久野四郎兵衛、仙台藩伹木土佐、肥後藩三宅籐左衛門、津藩藤堂帰雲、久留米藩山村源太夫、柳川藩籐谷小六兵衛、二本松藩增子源蔵、肥後藩酒井平兵衛、対州藩平田為之丞、新発田藩窪田平兵衛等連書して左の建白書を朝廷に上る。

朝廷に於いて萬機御裁決被遊候に付ては天下の公論を被為採候間心附候儀は忌諱を憚らず極言仕り候様との趣委細御沙汰の趣難有奉畏候就いては不束の存意には候へ共黙止罷在候ては御趣意に違却仕候間乍恐左に言上仕候去九日以来稜々大非常の大変革柱礎は相立てられ候形に付此上は精々衆議を盡させられ名実相反し申さゞる様御施工在らせられ度挙て奉懇願候内徳川内府公軽隊にて速に上京有之候様御内沙汰在らせられ候趣に傅承仕り同心は疾く御了解の御様子に付素より勅意の通り御心得可被成候得共即今の形勢臣下に取り候ては御上京の一条何分心遣いに堪兼候は必然にて又々紛擾計り難く夫も夫々の忠心に出候譯に付其儀は朝廷より深く御洞察御猶予被為在度趣に徳川家は癸丑以来失体の稜も少なからず趣に候へ共右は専ら先代に関係致し候儀にして当公に相成候ては二百五十年来の政権職掌辞せられ候も一意に朝廷の御為筋より発し候果断に候へば今般更始御一新の折柄総て人心の動揺に係り候儀は成丈け御斟酌在らせられ漸を以て復古の御政体取固相成候様在らせられたく奉存候一向に公平正大と申候ても時処位に因りて緩急の差別も無之候ては相成間敷追々難被仰出も有之候へ共何分今日の形勢にては約り列藩割據の姿とも成行可申哉加之外国の覬覦も計り難く皇国治安の譯を以て却て皇国を傷害する筋に相成候ては全体の御趣意に相違致し苟も祖先より王化に浴し候身分実に流涕憂苦に堪え申さず戦兢罷在候依之鹵奔を省みず差当り危急の条々廟堂御衆議の端にも可相成哉と申上試み候間三人居時は二人の言に従うと申す古語も有之何卒其員に御加へ下され一刻も早く御鎮撫の御処置も相成り猶此上の偽も衆議の帰する処を以て御裁決在らせられ万民安堵の場合に至候様重畳奉願候誠恐誠惶頓首敬白

 この日松平慶永朝臣大阪城に至りて、先つ板倉勝静朝臣、永井尚志を見て事情を談じ、慶喜公に謁して朝廷の書を示して延議困難の情を陳す、慶喜公感激していわく、時機至らば命を奉じて上洛するも可なり、しかれども事軽挙に出づべからず、明日を待ちて決すべしと、徳川慶勝卿は道より病みたれば、成瀬正肥代わりて登城し朝廷の書を慶喜公に示す。
 二十七日松平慶永朝臣は徳川慶勝卿の旅館西本願寺を訪ねて昨日の事を奉じ、大阪城に登りて板倉勝静朝臣に面す、勝静朝臣いわく、今内府公の前に於いて尚志、敬忠筆をとり文案を作れども未だならず、明日登上を煩わすと、この時に当りて慶永朝臣はしきりに慶喜公の参朝を促し、かつ辞官納地を請うことを慫慂す、内府いわく、辞官はこれを請はん、もし土地を納むれば累世の旗本を養うこと能はず、われ当に参朝してこの意を奉すべし、慶永朝臣いわく、公よろしく小隊を率いて上洛すべし、もし戒心あらば尾越の兵をもって護衛すべしと、慶喜公賛成してうなずく、しかして心にこれを危ぶむ、時に新選組土方歳三(近藤勇負傷により代われり)伏見を守る、尾州人その守りを徹せしめんとす、歳三これを肯ぜざりき。
 二十八日松平慶永朝臣、慶喜公の召しによりて大阪城に登るや、板倉勝静朝臣、慶喜公奉命の書を交付すいわく、

辞官之儀者前内大臣興可称御政務御用途之儀者天下之公論を以御確定可被遊興之御沙汰之趣謹承仕候段可被申上候事

御政務御用途之儀は天下の公論を以御決定皇国高割を以相供候様不相成候而者臣子之鎮撫行届不申容易に御請も難申上候間其断厚御心得御尽力有之候様致度候事

 徳川慶勝卿に答ふる書はこれを成瀬正肥に付興せり。
 この日慶喜公は慶永朝臣を引見していわく、京都参内の事よろしくは尾越保証して奉ずればただちに上洛すべし、また上洛の後参内に至るまで延引せば世人の疑惧を招かん、よりておおむね参内の時日を定め、雪江をもってこれを奉ぜよ、慶永朝臣拝承し且いわく、今両人に下付せられたる奉命書は、慶永は慶勝と相議し、更にその趣意をもって文辞を改書し、両人より朝廷に奏聞せんと、慶喜公これを諾す。
 二十九日雪江は京都に抵り、岩倉具視朝臣に謁していわく、内府異議を唱えず奉命の書を慶永等に下付せられたりと、具視朝臣大に悦びていわく、内府果たして上洛するや如何、雪江いわく、内府すでに命を奉ず何時にても上洛せん、しかれども事朝廷に関かるをもって、明日慶永より上申せんと。
 晦日慶永朝臣、慶勝卿代理成瀬正肥と共に参内して復命書をしめす。


今般御沙汰御座候両事件之趣慶喜へ申聞候処謹承仕候旨申出候此段申上候
 十二月
  尾張前大納言
  越前宰相






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/02(日) 15:16:21|
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