いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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五  守護職の奉命     『京都守護職始末1 』

 京を視察させる     この年(文久二年)潤八月朔日、わが公がお召しによって登城すると、京都守護職に任じ、正四位下に位をのぼせ、役料五万石を賜わる旨の台命があった。つぎに老中の人々から、上京の費用として金三万両を貸し与えられた。
 ついで幕府は牧野備前守忠恭朝臣(越後長岡の城主)を所司代に、寄合永井尚志(主水正、後に玄蕃頭)を京都町奉行に挙げ、また高家(儀式、典礼をつかさどる家柄)中条信礼(中務大輔)を京都詰として守護職を補翼すべきことを命じた。
 これによって、公はまず、家老の田中玄清と公用人野村直臣(左兵衛)、小室当節(金吾)、外島義直のほかに、柴太一郎(当時秀次)、大庭機(恭平)、柿沢重任(勇記)、宗像靖共(直太郎)等を京都につかわし、在任の準備をさせ、かつは目下の京師の情勢を視察させた。

 



 無頼の徒横行す     時に京師では関西の諸藩士があまたあつまっていて、その藩の周旋方という名目で宮や堂上方の門に出入し、時事を論議していた。したがって、かの志士と称する徒も、それぞれこれに夤縁雷同(いんえんらいどう)してさかんに激論を主張し、初対面の人に会うときは、某はかくかくの脱藩人である、あるいは何年以前幽閉されたことのあるものだなどと、あたかもそれが無上の栄誉ででもあるように公言し、また、浪士と自称するものの、中には農商の子弟で、無頼で郷関を逐われたようなものなども少なくない。
 およそこの連中は、鎖港と言えば正義と考え、勤王家を重んじ、開港を説くものは浴論ときめつけ、佐幕家と言えば卑しいものとした。あたかも開港佐幕は無比の罪名のようである。この徒は常に宮、堂上の門に出入りし、荒唐無稽な空論を喋々してこれを煽動し、はなはだしい場合には、彼らの一夕の坐上の空論が、翌日たちまち汗のごとく綸命となることさえあった。じつに、暗々裏に朝権をぬすむと言っても過評ではない。
 彼らはいまわが藩士の入京をきいて(中には会津藩のあることすら知らず、わが標札を見てくわいづ藩とはどこの大名かと、傍人にきいている者さえあり、こんな連中が国事を呶々(どど)するのであるから、その綸旨がどんなものかおもいやられる)、日夕来訪して、開鎖の所見をききにくるものが頻繁であったが、わが藩士は職責を重んじてこれに答えず、ひとり大庭機は年若く意気さかんで、広く彼らと交通し、一意見をもっているので、大いに彼らをあいてに議論し、あいてを圧倒するのであった。彼らもそのために機を推崇することはなはだしく、自然彼らの情況もわかり、同時に京師の形勢もつまびらかにすることができて、しばしばこれを江戸に急報した。
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/10/25(木) 18:14:16|
  2. 京都守護職始末1
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