いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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開戦

開戦

 さても阪軍は正月二日大河内正質朝臣を総督とし、若年寄並塚原昌義を副とし、我が藩兵は田中隊、上田隊、生駒隊、堀隊、大砲隊二組、別選組、諸生隊並に我が藩付属せる新選組にて、桑名、大垣、浜田、高松、鳥羽の諸藩兵にして水陸並び進み淀に至る、明くれば三日大目付滝川具挙は慶喜公の薩藩弾劾の上奏書を持し、佐々木只三郎が率いたる見廻組に護衛せられ、鳥羽街道より進んで上鳥羽に至る、しかるにその時先駆けは四塚の関門に至れるが、関門を守れる薩兵拒んで入れず、応接数回に及びたるも守兵固く執つて応ぜず、具挙止むを得ず淀に向かって退却す、この街道を進み來れる阪軍は大久保忠恕が兵を主力とし桑名兵を先鋒とし新選組、大垣兵等これに属す、具挙はこの大部隊と供に再度京都に向かう、この時薩兵は上鳥羽まで進軍せるに、見廻組の士をして徳川内府上奏のため上京する旨にて再三交渉せしも、薩兵応ずる色なく、ついに申の下刻頃に至り薩兵より発砲す、これぞ戊辰戦争の第一砲声なりき(戦の始まりしは下鳥羽の北方赤池と、上鳥羽の南方小枝の間なるおせき茶屋付近なり)、これにおいて佐々木只三郎令を下し部下をして齊しく進ましむ、隊士皆槍剣をふるって敵に迫る、敵兵大小銃を発し弾丸雨注し隊士を多く死傷す、俄然吶喊の声起こるや具挙の乗馬これに驚き、南方に狂奔し後隊を蹂躙す、撤兵隊の将校驚き馬と共に走る、後軍敵を見ずして前軍の崩るゝと共に兵杖を棄てゝ狂奔す、只三郎隊士に令して銃を拾い弾を帯び、桑名兵、窪田備前守が歩兵等と再度敵に迫る、戦うこと数刻亥の刻頃至り決定的の勝敗なく戦地を去る。
 陸軍奉行竹中重固はその率いる幕兵を主力とし我が藩兵を先鋒とし、浜田、高松、鳥羽の諸藩の兵を統卒して三日淀を発し伏見に向かう、重固先つ書を薩土二藩の営に贈り、今般徳川内府入京致さるゝに付きては、先供の人数並びに会津、桑名とも通行するによりこの段申し進ずとの意を通じたるに、薩土の諸藩は朝廷に伺い何分の御沙汰あるまでは差し控えらるべしとてその準備を拒めり、しかるに申の下刻におよびて鳥羽街道において砲声雷のごときを聞き、戦端のすでに開かれたるを知り、伏見の我が軍士気俄かに上がり、京軍先つ砲声を開始し我が先発の隊を撃つ、我が藩の大砲奉行林権助、{林権助の率いたる大砲隊の組織次のごとし、隊長大砲奉行林権助、組頭三名中澤常左衛門、佐藤織之進、小原宇右衛門、甲子と称する士分七十一名、寄合組と称する徒級の侍二十七名、足軽小頭一名、足軽二十六名、目付一名、徒目付一名、医師一名、計百三十二名とす。}年六十余にして長髪白麻の如し、大に怒って号令を下し大砲三門を発射してこれに応ず、その距離わずかに数間に過ぎず、権助令して槍を入れしむ。{槍を持して突撃するを云う、武道の術語なり。} 衆奮進弾雨を冐して戦う、彼は地物により我は然らず、組頭中澤常左衛門弾に中りて先つ倒れる、我が兵死傷少なからず、権助隊士に命じて援を陣将に請はしむその所在を得ず、番頭生駒五兵衛隊に至り急を告げて援を請う、五兵衛陣将の命にあらずんば兵を動かすべからずとて助けず、権助いわく、この地一歩も退くべからず一死君恩に報じ芳名を千載に留めよと大小砲を発射し再び令して槍を入れしむ、衆殊死して戦う、京軍の砲弾下ること雨のごとし、別選組頭佐川官兵衛、{別選組の編成次のごとし、隊長番頭格兼学校奉行佐川官兵衛、組頭二名、依田源治、小櫃守左衛門、甲子およそ四十名、外に変を聞いて登京せし江戸の書生三十名、計七十余名なり、この隊は鉄砲を有せる者甚だ少なく多くは槍を携えたるのみなりき。}
 番頭上田八郎右衛門および新選組これを援く、会々伏見の市街に火起こり火光我が軍の背後を照らし人影算すべくほとんど死地にあり、この時別選組々頭依田源治敵弾に当りて死す、権助泰然として指揮し死傷半に過ぐ、この時浜田の藩士伊藤梓、同藩士四十名を率い来りて権助に告げていわく、恨むらくは我に銃なくして援くること能はざるをと、権助すなわち死者のに銃を取りて贈る、梓ら奮闘して多くこれに死せり、たまたま一丸来り権助が面を掠めて去る、顔面焦黒となり全身重傷をこうむる前後三たび復た起つこと能わず、しかも踞してなお号令す、隊士これを負ひて退く、権助いわく、戦線を去りて余を助くることなかれ、進撃して敵を破るべしと、組頭佐藤織之進、同小原宇右衛門共に負傷したれども残兵を励して奮戦せるが砲車破砕して復た用をなさず、しかして将長多く死傷す、ついに火を伏見奉行邸に縦ち、子の刻退いて淀に陣す。
 この日我が大砲隊長白井五郎太夫、{白井五郎太夫が率いたる大砲隊の組織次のごとし、隊長大砲奉行白井五郎太夫、組頭三名、海老名郡治、松沢水右衛門、小池勝吉、甲子と称する士分七十三名、寄合組と称する徒級の侍二十七名、足軽小頭一名、足軽二十三名、目付一名、徒目付一名、医師一名、計百三十一名とす。}兵を率いて将に竹田街道より入京せんと京橋を渡り伏見町へ入る、行くこと数丁にして土佐藩の兵これをさえぎり止めていわく、別路ありこの処を距る遠からず、弊藩警備以外の地なればあえてこれを拒まずと、その路を進まんことを教えたるがごとくなりき。

{土佐藩阪軍に内通の疑惑も、土佐兵のこの時の挙動が一因となりしがごとし、けだし土佐藩はこの戦を会桑と薩長との私闘となし、中立の態度を取れるなり。} 

 よりてその別路より進む、畔路挟隘にしては大砲を曳くことを得ず、三門の大砲を遺棄し四人にて一門を運搬して進み、迂回して土佐藩陣地の背後に出て、薩邸を襲撃して火を放ち竹田街道に進む、たまたま伏見街道の林隊戦い利あらず、命あり白井隊伏見の町端に退きついに兵を淀に収む、この日伏見方面において高松兵、岡崎兵善く戦いたりと云う。
 この夜子の刻鳥羽街道の京軍、阪軍を襲う、阪軍狼狽し兵杖を棄てゝ走るものあるに至る、幕府の歩兵頭窪田鎮章、歩兵頭並大澤顯一郎等これを見て憤然として咄嗟衆を励まして進撃す、京軍大に乱れほとんど支えざらんとす、会々京軍の別隊阪軍の左翼を撃つ、阪軍また乱れついに退き淀に陣す。 
 正月四日阪軍大挙して伏見鳥羽両道より進撃す、京軍あらかじめ兵を鳥羽街道の竹草中に伏す、鳥羽の阪軍銃を集めて乱射しその勢い甚だ鋭し、たちまち伏兵竹草中より起り阪軍を撃つ、本道の京軍かつ戦いかつ退きしが、反戦して烈しく阪軍の前隊を撃つ、阪軍倒るゝ者多し、終に全軍潰乱す、幕府の歩兵奉行並佐久間信久は敗兵を収めて再び戦わんとしたれども及ばず、これにおいて信久は従者澤田鍈太の携えたる銃をとり自ら伏兵の指揮官を狙撃せんとす、会々京兵竹草中より信久を連撃する数発、信久丸に当りて馬より落つ、この時歩兵頭窪田鎮章も一隊の兵を励まして乱車の中に入り、縦横豨突して死す。{佐久間信久出陣の時より馬側に在りし従者を澤田鍈太と云い長州藩の間諜なり、彼信久が傷を被りて死するにあたり良く看護し、頭髪を刈り厚く遺骸を葬りさりて行く所を知らず、維新の後その頭髪を信久の遺族を送れりと云う、間諜には実に稀有の所為なりとす、これによりて信久が仁義に厚くかつ勇ありしこと推して知るべきなり、信久が兵は歩兵第十一連隊、窪田が兵は歩兵第十二連隊の内の一大隊なるが、共に大阪地方にて募りたる者なり、兵の内には敵の廻はしものありて、両将は味方の丸にて戦死すると云う噂高かりき、鎮章は西国郡代窪田治部右衛門の長子なり、始め泉太郎と称す、父治部右衛門は久留米藩の人なるが、かつて人を害し肥後に遁れ、また熊本にても人を殺害し、江戸に走り徳川家黒鍬方の株を買い、才幹ありしをもってついに西国郡代(布代)に任ぜられる、泉太郎資性勇武、沼間慎次郎、古谷佐久左衛門等と交わり深かりきと云う。}
 辰の刻伏見の方位に砲声あり、我が藩田中八郎兵衛、{幌役(ホロヤク)なりしならん、幌約は軍事奉行すなわち参謀長の属僚にて参謀のごときものなり。}
 斥候せんと淀の市外に進むこと五六丁余り、たまたま幕府の歩兵伏見より陸続き相接す、八郎兵衛怪しみてこれを問う、答えていわく、隊長の命により退去すると、八郎兵衛驚きて本営に復命せんとす、たまたま竹中重固に遭いてこれを告ぐ、重固怪しみていわく、ひいて退去を令せずと、馳せてこれを止むれども従わず争いて淀に至る、重固もまた已むことを得ず淀に至る、八郎兵衛走りてこれを我が陣将田中土佐に告ぐ。
 この時総督大河内正質朝臣、竹中重固等議して宇治を廻り京軍の本営桃山の背後より進撃するの策を決し、これを我が藩白井隊に命ず、巳の刻頃白井隊進んで田中土佐が陣前を過ぎり淀の市外に向かう、八郎兵衛、五郎大夫等が後方より至るに遇う、八郎兵衛怪しみ問いて始めてその実を知る、すなわち我が藩の芝太一郎、広川元三郎等と共に白井隊を止む、諏訪常吉馬を馳せてすでに進みたる白井隊を止む、五郎大夫すなわち太一郎、元三郎、幌役林又三郎等と本営に至り、白井隊を援くるの兵あるか否かを問う、重固いわく、無しと、元三郎議していわく、孤軍を深く進むるも兵寡して少なくして敵を破るに足らずと、会々鳥羽の戦敗れ大兵退去し来る、重固いわく、鳥羽の戦急なり請う宇治を措きて鳥羽の軍を助けよと、白井隊すなわち鳥羽に向かう時未の刻なり、小橋に至れば幕兵伍を乱して退去す、白井隊勇気凛然その中央を爆進す、京軍勝ちに乗じて淀近辺に進み来りて砲を発する事すこぶる激し、白井隊これに応戦し進んで淀市外に至る、近辺平田蘆葦繁茂し防戦に便ならず、京兵忽然と密竹中より発砲す、我が兵退くこと一丁許、五郎太夫、組頭小池勝吉、遠山寅次郎等止まり戦う、この時京軍援兵加わり砲撃の猛烈始めに陪せり、我が兵もまたこの地を墳墓とせん事を期して奮戦す、佐川隊、堀隊、林隊来り、助けしかば京軍辟易して乱れる、五郎太夫すなわち大声衆を励ましていわく、死して君恩に報ずるはこの一挙にあり進撃せよと、伊東覚次郎その声に応じて第一に進み、刀をふるって突入す、吉川次郎もまた進みて敵兵を斬る、我が兵屍を越え槍刀をふるって進撃し、竟に本道および密竹中の京兵を銃撃す、京兵大に敗れて潰走す、我が兵追撃して下鳥羽に至る、たまたま本営より兵を収むるの令あり、この戦勝により士気の昂ぶりたる幕兵の援軍を発したらんには、戦敗の為意気沮喪したる京軍を長駆して京都に入るを得べかりしに、何の意味なき収兵の令を発したる我が本営の意こそ不審なれ、我が将士はこの令に憤慨したれども力及ばず淀に向かって退却す。
 すでにして伏見街道にある幕兵及び林隊は、とうに鳥羽に向かって大砲を発射す、けだし京軍の援を絶たんが為なり、その砲弾白井隊の頭上に破裂す、且つ糧食乏しきが故に田中八郎兵衛、諏訪常吉淀に至りて伏見街道の砲撃を止め、本営に至りて糧食を送らんことを謀り併せて援を請う、しかる後再び胸壁に至れば我が兵すでに勝ちを得て壁外に進撃す、淀にある幕兵この勝ちを聞きて先を争いて進み来る、白井隊は皆白足袋を履いて標識となす、幕兵の歩兵等嘆賞していわく、勇なるかな会津の白足袋隊と、竹中重固我が将士に言っていわく、今日貴藩奮戦大に労せり宜しく帰休べし、これに代ふる幕兵一大隊をもってし且つ前方の竹草中に兵を伏すべし請う憂うることなかれと、白井隊士いわく、この地の防守は必ず我が隊に委せられよと重固固く執っていわく、戦は今日のみにあらざるべし卿等疲労す淀に至りて休息せよと、白井隊士いわく、この胸壁に二中隊を置き前方十余丁に一中隊を置き、またその前方に一小隊を出し路傍の竹草中に伏を設けよと、重固いわく、哨兵を用うるは自らその法あり卿等憂うることなかれと、歩兵頭秋山下総守もまたいわく、幕兵一大隊および大垣藩の兵を出し路左の竹草に兵を伏せ路右の蘆葦は焼き尽くして厳守せしめんと、我が隊士すなわち議していわく、上田隊は今日淀に在りて戦に会せず、よろしくこれを第一に進め河畔の胸壁を固守し堤下の村家に屯在せしむべし、第二堀隊、第三白井隊と決し、これを竹中重固に告げ、白井隊、堀隊、佐川隊は淀に至りて休ふ、すでにして堤畔に在りし幕府の歩兵退いて淀に至る者陸続き相接す、我が兵これを止む、彼らいわく、隊長の命なり背くべからず、再び進むべきの命あらば進むべきも一たびは退かざるを得ずと、上田隊は申の下刻を過ぐる頃、鳥羽街道に至り、淀の街端に屯し、前方八丁許の地点に守兵を置きて厳守す。
 始め竹中重固の言によれば、鳥羽街道の竹草に大垣兵を伏せしめるの計策なりしなり、しかるに大垣兵在らずして却って薩兵の占めむる所となり、戦うに及んで伏起こり銃丸阪軍の中堅に注ぎ死傷多く、ついに幕兵敗れて退き我が兵もまた大に苦戦す、しかれども白井隊能く奮戦し佐川隊これを助けて竟に大に勝を得たり、佐川官兵衛、竹中重固を見ていわく、軍機このごとくならば戦勝期し難し、旗本兵多しといえども決死勇闘すること我が兵のごとくならず、予は伏見の敵に当らんも徒歩あるいはその機を失わんことを恐る願わくはその乗馬を貸せと重固うなづきその馬を贈る。
 午後京兵八幡の方面に廻らんとす、淀本営より田中土佐隊、生駒五兵衛隊に命じてこれに備へしむ、八幡は松平伯耆守の兵の守る所にしてその兵寺院市家に充つ、手代木直右衛門周旋してわずかに田中隊を寺院に生駒隊を市家に宿せしむ。
 この夜佐川官兵衛少数の兵を率いて、伏見街道淀を距ること半里許に篝火を焚き巡邏を厳にす、たまたま幕兵俄然驚擾し叫びていわく、京兵舟を棹して下るとよりてしきりに銃撃す、佐川隊士行きて之を観れば、燼余の大木河水に浮沈して流れ下るなりき、同夜幕府官兵衛に命ずるに、幕府の歩兵築造兵および大銃手一部を統率指揮すべきことをもってす、よりて幕府の歩兵をして淀川前岸の蘆葦中に伏せしむ、けだし明旦京軍もし襲撃せば側面より銃撃せんとせるなり、また明日日幕兵を部署して防戦すべき所の地理を視察し終夜巡邏を厳にす。
 夜半慶喜公目付遠山金四郎を淀に遣わし、白井隊、堀隊、佐川隊、林隊の将士を慰労す。
 我が公近侍浅羽忠之助、加藤内記を戦地に遣わし陣将田中土佐以下の将士を慰労す、忠之助、内記三日亥の刻馬に鞭ち発す、未だ守口に至らざるに大場小右衛門に逢い伏見苦戦の状を聞く、途中傷者を後送し来ること甚だ多し、八幡に至り田中土佐に逢う、すなわち公の命を伝へ且つ戦状を問う、一柳四郎左衛門、木村兵庫傍に在りていわく、幕兵振はず敗因を来せり、ゆえに幕兵に依頼せず、我が兵は八幡を守り、桑名藩兵は山崎を守りて防戦せざるべからずと。
 すでにして忠之助、内記馬を馳せて淀に向かう、淀より退く兵士雑遝す、淀小橋に至るに弾丸しきりに来る、番頭上田八郎右衛門兵を率いて橋畔を守る、すなわち公の命を伝え馬をこれに繋ぎ鳥羽に向かう、途に組頭海老名郡治に逢い共に行く、沿道幕兵一人を見ず独り我が兵処々人家によりて銃撃するのみ、また番頭堀半右衛門に逢いて公の命を伝ふ半右衛門いわく、余未だ一戦せずこれより戦わんと兵を率い弾丸雨注の間を突貫す、郡治、忠之助等もまた共に進む、砲丸しきりに至ゆえにしばらく民家に避けて間を持つ、郡治いわく、余は公の命を五郎太夫に伝えん子は他隊に向かうべしと、忠之助諾して原路に復る、佐川官兵衛を率いて進むに遇ふ、すなわち公の命を伝ふ、官兵衛いわく、我が隊はこれより進んで槍を入れもって敵を破らんと、忠之助淀に復る、見廻組頭佐々木只三郎に逢い言いていわく、鳥羽の戦場には我が兵の在るのみ、幕兵皆退くは何ぞや子それ力を尽くしこれを進めよと。
 帰途総督大河内正質朝臣、陸軍奉行竹中重固に逢う、二人いわく、内府公敗軍を聞かば東下の命あらんも知るべからず、願わくは貴藩公力を尽くして諌止せんことを、また永井尚志にも詳にこの事を告げよと、忠之助等諾して復た発す、行く々々幕府の騎兵に逢う、皆我が兵の勇敢なるを称していわく、昨夜伏見の戦いに京兵と火稲との囲む所となりほとんど死地に陥りしが、貴藩兵士の奮戦により生きて還ることを得たりと。
 忠之助、内記の大阪に還るや、京橋辺り市民家財を船戴して逃れ紛擾甚だし、亥の刻頃登城復命す藩相萱野権兵衛いわく、幕府の騎兵帰り報じていわく、伏見方面の我が軍は籐の森に至り大砲二門を装置し、鳥羽方面は東寺に至ると、殿中皆これを賀すその実況果たして如何と、忠之助いわく、しからず陣将田中土佐は八幡に退き、幕兵は伏見街道淀の前方橋畔に退き、鳥羽街道は我が兵淀の前方に進みて戦う、堀半右衛門隊、佐川官兵衛隊等は槍を入れて奮戦せり、しかりといえども幕兵淀より退きて八幡方面に至る者相接す、かつ死傷すこぶる多しこれ方略宜しきを失うの致す所ならん、このごとき大兵を一方より進めたるは策の得たるものにあらず、唯京兵の標的となれるのみ、兵を各所に部署しあるいは側面あるいは前後左右より進撃すべきなり、敵は薩長のみその他多くは観望を事とするに過ぎず、方略宜しきを得ば必勝を期すべしと、すなわちこれを審に我が公および松平定敬朝臣に陳す、我が公いわく、しかり善く熟考せんと、戸田肥後守もまた戦況を聞かんと欲す、これにおいて忠之助、内記、小野権之丞と共に陸軍局に至りてこれを陳ぶ。
 慶喜公四日の朝をもって大阪の薩邸を討伐すべきを命ず、けだし京都大阪の薩邸および兵庫碇泊の薩艦を討伐せんとするなり、前日我が藩丸山房之進大阪の薩邸を偵察す、家財を船戴して遁逃せんとするの状あり、即夜これを討伐すべきを論ず、しかれども我が兵は固より幕府に従いて四日の早天を期するが故に、今すみやかに変更すべからずと為し議ついに行われず、三日の夜半幕将天野加賀守および塙健次郎、吉田直次郎歩兵を率い大砲二門を曳かしめ薩邸に向かう、我が陣将、{正規兵以外に丸山隊、町野隊を編成しこれを一陣となし、家老上田学大輔をもってその陣将となせしり。}家老上田学大輔、丸山鎮之丞、江戸学校奉行町田伝八隊兵を率いて従う。
 初め我が陣将の出ずるを議す、学大輔ふるっていわく、我が年老い国家に尽くすの日なし請う自ら行かん出てこれに従う、全兵玉造口城外陸軍所に集合す、幕府酒を賜いてこれをねぎらう、四日寅の刻頃西方に火光を望み皆憂慮して言へらく、本願寺の我が本営ならんと、けだし薩人土佐堀邸を焼きて遁逃せしなり。
 されば丸山隊、町田隊の幕兵と共に土佐堀邸に向かうや、すでに邸を焼きて逃亡せる後なりき、しかして一方上田学大輔は諸兵を率いる、幕兵一小隊と共に立売堀の邸に至るに邸中また人を見ず、入りてこれを検するにこれまたすでに遁逃し唯灯光螢然枕衾依然たるを見るのみ、すなわち倉庫を封鎖し、百聞堀の邸に至るにまた一人なし、杯盤狼藉爐火未だ燼せず行李山積す、午前諸兵各陣営に帰る

 また回陽艦長榎本武揚、回天艦長柴静一郎、順動艦長某に命じて兵庫碇泊の薩艦を撃たしむ、各艦馳せて進撃す、薩長皆遁逃す、唯一艦を阿波の海岸に追跡してついに撃沈したり、あるいはいわく、この薩艦は去年十二月江戸品海より遁逃したるものなりと。
 正月五日黎明京軍伏見鳥羽両道より進んで淀の阪軍を撃つ、我が上田隊淀橋を隔てゝ防戦すといえども、京軍の砲撃甚だ急にして我が隊士死傷する者多し、隊長上田八郎右衛門衆を鼓舞すれども、路は唯一条左右皆深溝にして進退に便ならず、幕軍大川正次郎、滝川充太郎、伝習隊を率いて善く戦い淀の城外にある者これに応ず、この時佐川官兵衛槍隊を蘆葦に伏し更に銃手を出し挑戦す、京軍伏しあるを知りて進まず、長州振武隊将石川厚狭介いわく、危を視ていやしくも避く笑を取るを如何と、すなわち銃手数人を率い挺前して之にあたる、衆ふるっていわく、大将を敵に遺するなかれと先を争いて進む、阪軍の一隊退くこと三丁許、我が藩の槍隊左右に起こり、縦横に京軍の中堅に突撃し隊将石川厚挟介等を倒す。
 白井隊淀に在り、朝餐を伝えんとするに当りたまたま鳥羽の方位に砲声起こる、よりて上田隊を助けんと、左手に銃をとり右手に握り飯をつかみ且つ食い且つ馳す、京軍砲銃および散弾を発すること雨のごとく本道を進むことを得ず、あるいは堤下を進みあるいは人家に潜み且つ戦い且つ進む、堀隊もまた淀に在り、砲声を聞きただちに馳せて上田隊を助け、淀街道の人家に潜みて射撃す、京兵昨日敗衂辱をそそがんと、一斉に来り迫り猛烈前日に倍す、我が兵もまた奮激豨突あるいは進みあるいは退きあるいは死して戦う、散弾は屋根瓦を破り竹木を折り勢い甚だ盛んなり、幕兵大砲曳きて退く、我が藩大砲隊の組頭松沢水右衛門等追いてこれを止め、水右衛門大声に叱咤して砲門を奪う、白井五郎太夫大に怒っていわく、この地敵の破る所とならば何の面目あって世に立たんや止りて奮戦せよと、組頭小池勝吉声に応じ衆に挺んて健闘して死す、上田隊の組頭中根幸之助もまた衆に先ちて奮進し、縦横に馳駆し衆に令して槍を入れしむ、隊長上田八郎右衛門、隊長堀半右衛門もまた共に采配を振り、大声進撃を令し槍を入れしむこと三たび、しかも京軍の連弾甚だ烈しく、一丸幸之助ほ貫く、幸之助辱を貽すべからずと叫び刀を抜き咽喉を刺して死す、飯田初次郎首を馘す、堀隊の組頭三宅八次郎衆に先だちて進み、令する時また弾にあたる後刀を抜いて自刎す、かく隊長死傷し隊士もまた死傷する者多し、五郎太夫すでに傷をこうむるも顧みず、自ら砲を発して衆を励ましついに重傷を負う、隊士これを後して淀の病院に移す、途幕府の目付田中林太郎来りて慶喜公の命を五郎太夫に告げていわく、昨日の激戦捷を得た万悦の至りに堪えず、褒賞は汝の欲する所ごとくせんと、五郎太夫痛苦を忍び謝辞を述べ終りて瞑す、白井隊組頭海老名郡治、同松沢水右衛門もまた重傷を被り、その他我が兵多く死傷す、白井隊目付遠山寅次郎および白井隊士なお止りて砲戦す、京浜の勢最も鋭し、我が兵散兵に展開して横撃せんと、堤を下りて蘆葦の間に入りて銃を発す、背後二三丁にある我が兵しきりに大砲を発す、その弾あたかも頭上に破裂す、伏見街道の阪軍もまた敗れ、京軍所々より潜に淀に入り、大砲銃を乱射す、市中火起こる、我が兵腹背敵を受け進退維れ谷に皆殊死して戦うといえどもほとんど支えず、会々大垣藩の兵一中隊許吶喊して馳せ来り援く、我が兵激戦数日且つ疲れ且つ飢ゆ、大垣藩の兵一時奮戦すといえどもたちまち退ぞく、我が兵ようやく退却し、なお路傍の人家に伏せて戦う、後高松藩、松山藩の兵来り援くれども支えず、諸兵皆敗れて淀橋を過ぎて退ぞく、時に未の刻頃なり、死者は多く淀の寺院に葬り傷者は一柳幾馬等周旋して運糧の船に載せて大阪に下す、白井隊士等再戦してこの耻辱をそそがんと、淀の城濠に下りて銃を洗う弾丸連りに注く。
 この日早暁淀大橋の前方より外島泰助淀の我が軍局に来りいわく、京浜伏見街道より来り迫り速やかに幕府の援を請うと、田中八郎兵衛馳せて本営に告ぐ、帰途堤に砲声の起こるを聞く、伏見堤は別選組、新選組、幕府の砲兵隊を先鋒とし林隊これを援く、松田昌次郎等小林繁之助をして林隊の組頭小原宇右衛門に出兵を促さしむ、会々宇右衛門悠然として鏡に対して自ら梳る、かえりみていわく、急迫にすることなかれ、しばらくして諸兵と共に発す、けだし宇右衛門死を期し髪を梳りて容儀を整えしなり。
 佐川隊および林隊京軍の陣地をへだてる事三丁許に吶喊して路の中央に進む、京兵大砲を発して拒ぐ、我が兵これを避けて左右の堤影に分かれて応戦す、この地点は淀の市外二丁余りなり、京兵発砲殊に烈しく殺気天を衝く、佐川官兵衛大にふるって槍を入れしむ衆皆争い進む、我が兵多く死傷す、隊士金田軍助、望月新平淀をへだてる事四丁許に進み松樹の影により京兵の来るを待つ、京兵我が兵の奮進して槍を入れるゝを恐れ皆辟易して退く、長州藩の教導官某小旗をふって衆を励まし逃るゝ兵を斬りて来り進む、軍助、新平踴躍して進む、軍助傷を被る、新平ただちに進み槍をふるひて教導官を刺し、その首級と小旗とを得たり、これをこの日の一番槍とす。
 伏見方面長州の隊長某年十八善く兵を指揮す、隊兵皆髪を伐る、けだしもし敗衂せば衆皆生還を期せざるを誓いしなり。
 官兵衛ますます勇をふるい刀を抜きて指揮す、たまたま銃弾側面より目を掠めて傷く又胸に当る、時に官兵衛胸甲を貫くゆえに傷かず、また弾丸佩刀に当たりて刀折る、組頭小櫃守左衛門代わりて指揮す、士卒皆奮戦傷者をかえりみず屍を越えて争い進むゆえに多く死傷す、すでにして守左衛門もまた左肩を傷く、在竹五郎太、林治助等大砲を曳きて弾丸雨注の間を直進し京軍に接し発射す、その勇敢人をして驚かしむ。
 組頭小原宇右衛門林隊の残兵を指揮し衆に先ちて戦う、勇気凛然重傷を被ること二たび、もって今朝自ら梳るの決心を明らかにせり。
 京兵あるいは淀川を渡りあるいは松樹に寄じ竹草中に潜匿して烈しく銃を発す、我が兵ほとんど支えず、幕府の大兵淀より来るも進んで戦わんとするもの僅かに三十人許、土方歳三新選組三十人許を率い路の中央を猛進せしが、京軍の銃勢烈しければ左右の堤影に分かれ我が兵に合して戦う、時に幌役林又三郎路の中央に踞し、銃をとりてしきりに戦いしがまた銃丸に傷く、すなわち自ら咽喉を刺して死す。{関ヶ原の役に、鳥居家の臣林権之助子息同又三郎伏見城において死す、その子孫会津家に仕え権助安定に至る、安定はこの役に傷き東帰の船中にて死し、又三郎は戦死す奇遇と云うべし。}
 彼ら共に進むことを得ず各陣地によりて戦う、辰の刻を過ぐる頃田中八郎兵衛援を淀の本営に請わんとして淀大橋に至るや、竹中重固、高力忠長に逢う、八郎兵衛二人に言っていわく、戦況まさにこのごとし、我が兵連日の苦戦疲憊甚だし、加えこの今朝より未だ餐を得ず、請う幕兵を進めて敵を襲攘せよと、二人その策を問う、八郎兵衛答えていわく、一隊は本道を進み一隊は迂回して蘆葦の間を過ぎて敵を横撃すべしと、重固いわく、諾、しかりといえども歩兵等の命を用いざるを憂ふと、すなわち一大隊を進む、八郎兵衛先ちて進む、幕兵途にして止まりて進む者甚だ少なし、我が兵死傷半に過ぐ、新選組、幕府大砲隊皆奮戦健闘す、午の刻頃におよびて鳥羽伏見両道の戦皆利あらず、我が兵往々退く、京兵あえて追撃せず、我が兵火淀の市家に縦ち、大橋を過ぎ淀川の南側に退き、畳を積みて胸壁となししきりに大砲小銃を乱射す、京浜二小隊許路の中央進むこと一丁許、我が砲弾敵中に爆裂す、敵驚き避け堤陰に隠れて進み来る、ついに市家に入りて銃撃す、我が兵もまた胸壁により奮闘す、我が兵淀大橋を焼かんとしたれども能はず、阪軍淀の城によりて京兵を防がんとし、淀藩に交渉したるに淀藩納れず、藩主稲葉正邦朝臣は現在江戸にて老中たり、かつ稲葉家は春日局以来徳川家とは特殊の関係ありたるものなれば、徳川家危急の際にこのごとくならんとは以外のことなりき、ただ我が藩においては稲葉家は親戚なれども初よりこれに重きを置かざりき、すでにして幕兵大砲一門および弾薬を路上に遺棄して去る、我が兵もまた往々退く、佐川官兵衛右手に折れたる刀を杖つき、左手に両手傘を開きてこれを持ち、弾丸雨注の間を除歩して大橋を過ぐ、傍人いわく、危険なり疾走すべしと、官兵衛肯ぜずしていわく、弾丸は当たるものにあらずと、けだし傘を用ひしは眼を傷くがゆえに日光を防がんとせるなり。
 我が藩今泉伝之助、巨海源八郎いわく、この橋を捨てゝ防がずんば何の地に防がんやと、路上に遺棄したる大砲を発して戦う、時に或人呼びていわく、我が兵すでに退く卿等もまた早く退くべしと、時に田中八郎兵衛我が藩をかえりみれば隻影を見ず、八郎兵衛すなわち伝之助、源八郎と共に退く、途往々止まるものあり、すなわち相共に淀の寺院に療せし傷者を移す、歩兵教導官某これを見ていわく、会津の兵なるか速やかに移すべしと、歩兵を指揮して担かしむ、歩兵もまた甘んじてこれを担ぎ送りて船に移せり。
 幕府の大砲司令官某淀橋外を守り、弾丸雨注の間に立ちてしきりに砲撃せしむ、我が兵言っていわく、この地甚だ危し退くべしと、某答えていわく、余不肖なりといえども司令官なり、余もしこの地を去らば誰か止まり戦う者あらんやと竟に丸に当りて倒れる、残兵その屍と大砲とを搬して退く、その勇敢にして職務に忠なる見る者皆感称せざるはなかりき、(惜しいかなその氏名を佚す、)この日佐川官兵衛統率する所の幕府歩兵築造兵等来らず、かつ淀川前岸の蘆葦中伏兵の命令も実施せず一々命令に背く、ゆえに苦戦ついに敗るゝに至れり。
 白井隊の残兵および目付遠山寅次郎等淀に止まる、田中八郎兵衛を見ていわく、全退退くは何ぞ余等もまた退くべくならんやと、八郎兵衛いわく、全体の退くは余そのゆえを知らず、しかれども今君ら寡兵をもって止まるも効なし退くべし、他日の責は余これに任ぜんと共に退き八幡の近傍に至る、幕人某いわく、この地は余善く兵を配して戦はん、貴藩の兵は八幡を防戦せよと、八郎兵衛馬を馳せて八幡に至りこれを陣将田中土佐に告げ、軍議中幕兵皆退きて一人の止まる者なし、ゆえに我が田中隊、{いわゆる二番組にて、陣将田中土佐が自ら率いるものなるが、この地まで戦に参加せざりしものゝごとし甚だ怪しむべし。}生駒隊もまた退く、八郎兵衛淀街道に帰り進んで斥候す、堀半右衛門兵を率いて止まり守る、半右衛門興奮していわく、幕人某余に命じてこの地を守らしむ、しかして幕兵皆退く、我が兵昨日以来大に苦戦し死傷もまた多く甚だ疲憊す、我が一隊のみ止まるといえども孤軍を如何せんと、八郎兵衛いわく、初め幕軍の約束は兵をこの地に配置して防戦するにありしに、今皆約に違いて退く、君らまたよろしく退くべし我その他なきを保せんと、半右衛門兵を率い八郎兵衛と共に退き葛葉村に至る、幕兵我が兵共にあり、佐々木只三郎見廻組を率い橋本前方に胸壁を築きて厳守す、関門は小浜藩の兵大砲数問を装置して敵に備ふ、桑名藩の兵は八幡山に在り。
幕人および我が隊将議していわく、幕兵および我が兵は橋本の関門を守り、藤堂藩は山崎関門を守る、よろしく幕兵を分遣してこれを助くべしと、黄昏幕兵山崎に至り津藩の守兵を助け共に京軍を防がんと欲す、守兵拒んで納れずいわく、勅使四条隆平朝臣来り幕軍および会津桑名兵等を撃つべきの命ありゆえにこれを辞すと、久松定昭朝臣もまた人を関門に遣わし出兵を促す、津藩人答えていわく、勅使来りて命ぜらる、公然これを拒む能はず、心は幕府にあれども表面は勅命に従わざるを得ず、かつ隊頭藤堂帰雲大阪に至り未だ帰らず專対し難しと、けだし帰雲正月元日頃大阪にて内府に建言し、本国より二大隊を呼び寄せ、指揮に従い尽力せんと言いて大阪を発せし由なれば、この時帰雲関内に在りしを僞れるがごとし。
 時に大阪に在りたる町田伝八隊六十余人淀の軍を助くべきの命あり、すなわち大阪を発しこの日橋本関門に来る、皆新手にして意気大に奮ふ、すなわち橋本の守兵少なきをもってこれを助けしむ、未の刻我が陣将田中土佐、林隊、白井隊の残兵に命じ少数の兵士を残し退きて大阪に休養せしむ、数日の激戦に疲労したるをもってなり。
 この夜堀半右衛門隊に守口澤を守るべきの命令あり。
 この夜本営より我が藩手代木直右衛門を招き、命じていわく、京兵山崎に至るの報あり我が背後に出でゝ挟撃せんことを恐る、ゆえに田中土佐隊は幕兵と共に牧方に至りこれを防守せよと、けだし各隊は皆部署あり独り田中隊は遊軍たりゆえにこの命あり、田中隊丑の下刻頃出てゝ牧方に赴く。
 この日大阪において慶喜公、我が公、定敬朝臣以下幕府の諸将および我が藩相等を召していわく、事すでにこれに至る縦令千騎戦没して一騎となるといえども退くべからず、汝らよろしく奮発して力を尽くすべし、もしこの地敗るゝとも関東あり、関東敗るゝとも水戸あり、決して中途に已まざるべしと、人々これを聞きて感激せざるはなかりき、すなわち幕府の目付某に命じて戦地に行きてこれを告げしむ。

{東帰の船中にて我が公、慶喜公に問いていわく、さる五日の台命により士気とみにふるい、一戦せば数日の敗衂を回復し得られまじきにあらざりしを、如何でかくも遽然東下することに決せられしやと、内府答えて『如此命ぜざれば衆兵奮発せずゆえに権宜をもって命ぜしなり』と、内府のこの答えは我が公の問いに対して何の意なるを知らず、思うに五日には内府の心理硬説に傾きてこの台命を発せられしが、例の変説病次いで発し東帰に決したるものごとし、しかしてこの経緯あからさまに我が公に告ぐるはおもぶせなれば、かく曖昧なる答えをなし賜いしならん。}

 我が藩相神保内蔵之介の長子修理初め戦地に在りて戦況を観察し、この日大阪に帰り深夜慶喜公に謁し東下を勧誘せりと云う。
 この日慶喜公激励の命を聞きて、我が藩上田伝治いわく、内府公の決心すでにこのごとし、臣子の分坐視すべからず、余は加州侯に請わん如何と、横山伝蔵いわく、余は紀州侯に請わんと、小野権之丞等諸人伝蔵が説を賛成す、伝蔵すなわち我が倉澤右兵衛に告ぐ、右兵衛もまた大にこれを賛成すいわく、廣澤富次郎に告げよ、富次郎賛成せば共に城に登り藩相に告げよと、伝蔵すなわち富次郎に告げ共に登城し藩相萱野権兵舊、上田学大輔に告ぐ、権兵衛いわく、事の成否を憂慮すしかれども能く尽力せよと、伝蔵すなわち富次郎および秋月悌次郎と共にこれを幕府の目付安藤次郎左衛門に告げ、かついわく、臣子の分を尽くさんと欲す両三人数日の間戦地を離るゝといえども不可なからんと、次郎左衛門大に賛成していわく、我が局中熟議して答えんと、しばらくして次郎左衛門出てゝいわく、我が局中皆賛成す、ただちに内府公に上言せんと、黄昏次郎左衛門出てゝいわく、これ今内府公余に命ぜるにその事をもってす、ただちに発せんと欲す貴藩にて行く人は誰ぞと、我が藩議未だ決せず諸説紛々たり、次郎左衛門しきりにこれを促す、権兵衛いわく、こと横山伝蔵の発議に係る宜しく行うべしと、伝蔵いわく、神保修理これ今戦地より帰る余これに代わるべきの予定なりゆえに他人に命ぜよと、衆傍より行かんことを勧む議ようやく決す、次郎左衛門いわく、泉州堺の前方に至りて遭はん、速やかに来れと馬に鞭って馳す、伝蔵すなわち和歌山藩関門通行の印鑑を求め、公厩に至りて鞍馬にまたがり、次郎左衛門追いて馳す、戍の刻頃次郎左衛門に追及して共に馳す、行くこと数里伝蔵が乗馬疲れて倒れるすなわち徒歩す、六日次郎左衛門、伝蔵、和歌山城下に近づく、紀州侯人を出して迎えしむ、午後を過ぐる頃城下押入の邸に入る、用人以下諸有司出て迎ふ、黄昏城に登る、藩相以下諸有司出て迎ふ、安藤飛騨守以下列座す、紀州侯次郎左衛門を近く召して問う、次郎左衛門いわく、会津宰相の臣と同行す共に言を陳せんと、侯すなわち伝蔵を召して近く進ましむ相距ること僅かに六尺許、詳に伏見以来の事情形勢を問う、伝蔵これを詳陳しかついわく、我が軍の勝敗この一挙にあり願わくば援賜はらんことをと、次郎左衛門もまた内府公の決心を陳して援を請う、侯いわく、宰相君の苦心誠に察するに余りありと、飛騨守いわく、援軍のことは実に離りよろしく議して答えんしばらく待つべしと、次郎左衛門、伝蔵別室に退きて待つ、少時ありて飛騨守出てゝいわく、十津川の残党紀の川上流地方に入りて暴行するをもって今まさに兵を発せんとす雑遝君らの見る所のごとし、兵を大阪に発し城下の空虚なるを知らば、賊徒ただちに迫らんも知るべからず、ゆえに出兵を辞すと、伝蔵いわく、貴答えには服すること能はず、徳川家存亡の秋にあらずや、貴藩の徳川家における列藩と同じからず、仮令貴藩滅ぶるも宗家の急を救援せずして可ならんやと、次郎左衛門もまた懇請す、飛騨守いわく、大に然り再び寡君に啓して後答えんと、すでにして軍艦野口将監出てゝいわく、明日必ず兵を発すべし君らしばらく押入の邸に至りて待つべしと、伝蔵いわく、君の言このごとし疑うべからず、しかりといえども君の言のみを聞きて退くべからず、願わくは飛騨守君の答えを聞かんと、しばらくして飛騨守出ていわく、必ず明日をもって兵を発せん人員と時刻とを明日答うべしと、伝蔵いわく、そのゆえ如何と、飛騨守いわく、糧餉弾薬等の計画あり整頓せばただちに発すべしと、次郎左衛門、伝蔵すなわち押入の邸に退きて休ふ、七日早天次郎左衛門、伝蔵まさに城に登らんとす、傍に在る使令いわく、君ら大阪の事情を聞くや、伝蔵いわく、未だし何事ぞや、使令告げしていわく、未だ詳ならずとすでにして両人城に登る、飛騨守いわく、君ら大阪の実情を聞くや否や、兵を発する事はこれを辞すと、両人怪しみて問いていわく、昨夜の言をひるがえすは何ぞや、かつ大阪の事情は如何と、飛騨守言はず固く問う、すなわち懐より一簡を出してこれを示す、大阪より紀州藩相水野出羽守の送れるものなり、その大意にいわく、昨夜内府公、会津、桑名両侯何処にか去れりゆえに大阪城は空虚とはなれり倉卒急報すと、次郎左衛門、伝蔵茫然として言う所を知らず、飛騨守いいわく。事すでにこれに至る故に兵を発することを辞すと、両人已むことを得ず復た押入の邸に退く、次郎左衛門いわく、この変を聞くしばらくも安んずること能はず馬を馳せて大阪に帰らんと、伝蔵いわく、余もまた共に帰らん、願わくは余が為に馬を和歌山藩に請へと、次郎左衛門すなわち該の用人に請いてこれをえたり、使令いわく、しばらく待つべし半時を過ぎなば大阪の詳報に接せんとしきりにこれを留む、次郎左衛門可かず馬に鞭って発す、すでにして諏訪常吉、伝蔵に簡していわく、余今来りて逆旅に在り請う速やかに来れと、伝蔵すなわち馳せて行く、常吉いわく、内府公、我が公東帰し諸兵紀州に下りて江戸に至らんとす、ゆえに余命を受け来りて糧餉を和歌山藩に借らんとす、しかりといえども誰に議すべきやを知らず足下為めに周旋せよと、伝蔵固辞していわく、余なんの面目ありてこれを請はんやと、常吉いわく、大平のこの地に来る今明日を出でず、この切迫の時に臨みて辞する事なかれと、すなわち伝蔵、常吉共に紀州藩軍監野口将監に就いて我が兵の糧餉を紀州興より給せられんことを請う、将監これを諾す、しかれども将監等幕兵および我が兵の城下に入るの辞し、加太浦に至り乗舩して由良小松原に行かんことを勧む。

{按ずるに慶喜公東帰の外間に洩れしは七日の未明なれば、大阪を隔つる十五六里の和歌山にその報の達せしは七日の午後三四時なるべし、その指令までも知るに至れるは早くとも七日の夕ならざるべからず、ゆえに貴藩の出兵を辞したるは八日にて、伝蔵等が大阪を発せしは六日の午後なるべし、また慶喜公東帰の判然したる後、善後の処分につき相当の時を費やしたるものなる可ければ、いよいよ紀州路を経て我が藩兵東帰のことに決したるは、速くとも七日の午後なるべしゆえに糧食の事に関し、諏訪常吉の命を受けて大阪を発し和歌山に向かいたるは、七日の午後なる可ければ、七日に和歌山にて伝蔵に会うべき理なし、ゆえに汽紀藩の出兵を辞したるも、常吉が野口将監に面会したるも八日なること疑いなし、本文はしばらく原史料大阪記に従って記せしなり。}
 
 正月六日幕府の目付某、松平豊前守の陣営に至り慶喜公昨日の命を伝ふ、衆皆感激し士気為めに大に振ふ、早天佐々木只三郎見廻組を率い橋本駅東の路上を穿ちて胸壁を築き、桑名藩の兵小浜藩の兵と共に守る、町田隊、上田隊もまた近傍に在り、生駒隊の兵関門を守る、戍の刻頃京兵三万より橋本を襲わんとす、すなわち幕府四中隊と町田隊とを合し、また分ちて二隊となし路の左右に備ふ、幕府大砲二門を装置し整然として敵兵を来るの待つ、すでにして橋本の東八幡と本道との岐点に兵士十余人あり、淀および八幡に向かって発銃す、一発毎に橋本に接近し来る、今泉伝之助等を望見していわく、疑兵なりと、すなわち小浜藩の兵をしてこれを砲撃せしむ、京兵また淀川を渡り来りて銃撃す、すでにして京浜往々松林に隠れ、あるいは堤陰により連りに砲銃を発射す、佐々木只三郎兵を督し町田隊、桑名兵、小浜兵ふるって大小砲を発して戦う、只三郎銃弾寛骨に当りて重傷を負う。
 この時にあたりて山崎の方面よりも百人許、白旗を掲げ小鼓を鳴らし山崎関門に入る、我が士見て走りてこれを外島機兵衛に告ぐ、機兵衛これを軍事局に報ず、また関門より一中隊余り天王山の方面に行くを見る、しばらくして号笛の声起こるや山崎関門より連りに橋本および関門を銃撃しついで大砲を発射す、我が兵またこれに応じ大小砲を発して戦う、幕兵我が兵多く負傷す、八幡山連続の山上に在りし桑名藩の兵能く大砲を発射し、弾丸山崎関門に至りて爆裂す、橋本関門を守れる生駒隊全部、桑名兵小浜兵一小隊許山崎に向かって砲撃す。

{後江戸にて藤堂侯使いを我が藩邸に遣わし、謝していわく、前日山崎関門にて弊藩の兵貴軍に向かって発砲せしは、官軍より迫られ已むことを得ず砲口を高く仰がせ責を塞ぐのみに発せしなり、しかるに貴藩兵の屯所に弾丸至ると聞く実に分疏に言葉なし、右につき在江戸の弊邸を貴藩兵焼討ちするとの流言あり幸に寛恕せられよと、藤堂侯また上野法親王に請いて内府に分疏し、また我が公にも分疏を請う、ゆえに法親王使いを我が兵邸に遣わして説解し給う、この頃の津藩の挙動こそ浅ましくもきたなけれ。}

 上田八郎右衛門隊は橋本を出て関門に入る、しかれども砲戦に便ならず、ゆえにまた関門より二三丁下方の堤により斜めに山崎関門を砲撃す、堀半右衛門隊、組頭門奈治部等進みて淀川を渡り山崎関門の側面より進撃せんとす、舟なくして渡るべからず、すなわち堤畔に伏して発射す、会々津藩の兵三十人許り川を下るを見てこれを銃殺す、橋本諸軍利あらず、町田隊もまた弾丸すでに尽き上田隊、生駒隊と共に退却の止むなきに至る、すでにして山崎関門の京兵、阪軍の退くに乗じ淀川を渡りて至り、橋本方面の京兵もまた群がり進めて関門の我が空砦に入り大声凱歌を揚ぐ、この時橋本の兵火盛んにして炎煙天にみなぎる。
 この日の戦に京兵偽りて新選組の中に伍すむものありしが後露はれて斬らる、幕兵我が兵および桑名、小浜の兵皆牧方に退く、辰の刻頃田中土佐隊兵を率いて牧方に至る、幕兵および大垣藩の兵在り、共に鳥羽の戦に将長多く戦没す、ゆえに残兵をこれに休養せしむ、我が林、白井両隊の残兵もまたこれに休養せり。
 午の刻頃我が藩相内藤介右衛門、表用人山川大蔵大阪より牧方に来る、林、白井両隊の残兵を合し大蔵その頭を命ぜられる、すなわち赤扇をもって隊の標識となす。
 申の刻頃総督正質朝臣および諸将皆退却し牧方に来りて軍議す、我が陣将田中土佐および田中八郎兵衛、柴太一郎等共に会す、八郎兵衛いわく、退くことこのごとくならば底止する所なからん、よろしくこの地を尽くし断じて一歩も退却すべからず犯す者は皆斬に処すべしと、竟にその議を決す、竹中重固、滝川具挙並びに我が藩内藤介右衛門等共に行きて防戦の地理を観る、会々幕兵の守口に退くもの陸続き相接す、八郎兵衛、太一郎および大野英馬葛葉方面に至りて斥候す、田中土佐隊は牧傍の山上に待つことを約す、八郎兵衛等斥候の途町田隊の餐を伝うるに遭う、更に進みて偵察するに京兵来るの形勢なし、すなわち帰りて山上に至るに田中隊すでに退きて在らず、三人失望して山を下れは゛日すでに暗くただ幕兵のわずかに留まるあるのみ、三人すなわち牧方を出て行くこと二三丁にして回望すれば牧方すでに火起こる、けだし幕兵の火を縦ちて退きしなり、三人行くこと一里許町田隊佐太村の民家に入りて息ふに会す、衆いわく、疲労甚だしいここに一夜を徹せんと、三人いわく、諸兵皆すでに退く子等独りここに留まるは最も危うしと、町田隊已むことを得ず大砲を曳きて退く、けだし最後殿なり。
 竹中重固、滝川具挙、内藤介右衛門等守口に至る、若年寄永井尚志来りて慶喜公の命を伝えていわく、深意あり諸軍みな大阪に退くべしと、これにおいて諸軍漸次退きて大阪に至る、介右衛門すなわち田中八郎兵衛、柴太一郎、大野英馬等をしてこれを我が諸隊に伝えしむ、時に我が諸隊の兵皆疲れて眠る、これを聞きていわく、飢え且つ疲れて一歩も進むこと能はずと、英馬すなわち近房に在る小浜藩の陣に至り糧食を乞う、未だ至らざるに諸兵目覚めて速やかに退かんと欲す、英馬等いわく、仮令敵これに来り戦いて皆死すとも食はずして退くべからず、小浜藩に対して何とか言はんと固くこれを留む、しばらくありて糧食至る、すなわちあるいは食いあるいはもたらして発す、諸兵同夜より七日の朝に至るまで皆大阪に至る。
 この日我が藩相大阪城中雁木阪邸に至りて傷者を慰し、かついわく、汽船をもって江戸に送るべしと。 
 この日橋本の戦い利あらず、全軍守口に退くや大阪城中大に騒擾す、かつ幕兵萎靡して振るわず、これにおいて幕府佐川官兵衛を歩兵頭並雇に、望月新平、井口源吾等四五人を歩兵差図役頭取並雇に、その他別選組士歩兵指図役並雇に命ず、官兵衛すなわち築城兵を率いて守口に至り胸壁を修築して防戦せんとす、金田百太郎いわく、我が公に謁して発せんと、共に御用部屋の口に至りてこれを我が公に告す、我が公寛兵衛以下の諸士を召し見て懇篤に慰諭す、藩相萱野権兵衛、学校奉行添役赤羽主計もまた出陣するに当り我が公に謁す。 
 この夜元白井隊士等白井五郎太夫、小池勝吉の遺骸を大阪寺町一心寺に葬る。
 伏見の戦に阪軍の敗績したるその原因はおおむね左のごとし。

一 将師その人にあらず、従って統一を欠き命令行われず、各部隊思い思いの動作をなし、難局に遭遇すれば命を受けずして逃避する者甚だ多し。

二 京阪の間ただ一条の狭路より大兵を進め非常の混雑を来し、いとゞ命令の行われざるに、これが為め阪軍の大兵はほとんど烏合の衆と化したるなり、如し一部の兵を割き亀山を経て丹波口より京都に入らしめ、なおまた一部隊をして高規街道より西国街道に出でしめ東寺に向い、藤堂をして反復の余地なからしめ、また一部隊を迂回せしめて蹴上より京都に入らしめば、寡少なる敵軍を分ち得ると共に、我が軍の混雑を防ぎ得たりしなり。
京軍の兵数は数千と称したれども、戦意あるは薩長二藩の兵のみにて、他は両端を持ちする者なれば、京軍寡少なるものとして支障なきものとす。
丹波口よりすれば路程五六里を增し且つ山道なれば、糧食弾薬等の運搬には不自由なるべきも、徳川氏の威望未だ地に落ちざる時なれば、人馬の徴発は、左迄困難あらざるべきより、これを実行する難からざるべきかりき。

三 阪軍は京都の大勢に暗く、戦わずして入京して得べしと為したるは、前に掲げたる部署を見ても明白なり、ゆえに思いかけず中途において開戦に至りしなれば、計画なき戦にて狼狽して一戦地に塗れたるは当然と言うべし。


 京軍方の諸録には、我が藩の兵数を三千とすれども、これは我が藩にて斯く号じたるものなるべし、しかし在京の兵数は千二百人を出でざるべし、このうち本体すなわち君公の御衛兵と丸山隊とを除きことごとく戦に参加せり、すなわち田中土佐が一陣五百二十人大砲二隊二百六十人、町田隊七十人、佐川隊七十人、計九百二十人、これに従者を加うるも千人に過ぎざるべし、桑名藩兵は約四百人なりと言う。
 慶喜公伝を見るに、伏見鳥羽の戦始り錦旗の出でたるを聞き、公『あれは朝廷に対して刃向かうべき意思は露ばかりも持たざりしに、誤りて賊命を負うに至りしこそ悲しけり、最初例ひ家臣の刃に倒るゝとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事これに至るまじきを、吾が命令を用いざるが腹立たしさに如何やうとも勝手にせよといひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と、云わしれとあるこそ奇怪なれ、匹夫にても心あらん者は家の消長に関する事柄につき、その隨従者に『勝手にせよ』とは云うまじきに、国家の浮き沈みに係わる大事に当り『勝手にせよ』といひ放たれしこと事実ならば、如何にその責任観念の薄きかを證するなり、かつ命令を用ひざるは何人なるか明言なきも会桑二藩を差すに似たるが、いつ如何なる場合に命令を用ひざりしか、前に述べたるごとく我が公は藩祖の遺訓を服膺して、宗家の命令とだにあらば如何なることにても之に服従するを例とせり、初め守護職の内命ありしとき、分を量り力を料りてその任に堪えざるを恐れ、公も藩論も之を辞することを可とし、再三その旨を申し述べたるも、幕府の総裁職なる松平慶永朝臣の勧誘はほとんど幕命に均しきにより、藩の運命を賭して就任せるはその一例なり、また伏見の敗後我が公はその親愛せる臣下を捨て、慶喜公と共に海路東帰せられたるは、我が公の忍び難きことなりしも、慶喜公の厳命黙止し難く、これに服従せられたるもまた一例なり、我が公の幕命に対し従順なるは慶喜公の明豈に知らざるものならんや、また我が藩祖土津公は、寛永八年保科肥後守正光主の後を承け信州高遠三万石を領し、同十三年羽州山県二十万石を領せり、表高は二十三万石なれども実は二十五万石ありきと云う、かく俄かに身代の広大せしにより、高相応の家臣を集むる必要ありしが、徳川時代初期のことなれば世に浪人も多かりしにより、名ある浪人の招きに応じたるもの少なからざりき、しかるにこれらの人々は戦場において死生を共にしたるにあらざれば、互いに相猜疑しやゝもすれば軋轢することも少なからず、ついに君公をもって統一する政策をとり、君公を神聖視する風を養成することに努めたり、されば藩祖の遺訓第五条に『可重主畏法』と云う一条を置き、第一条の宗家に対する訓戒と共に家訓中の骨子として教育したる結果、如何なることにても君公の『語意』とだにあらば、これに服従する美風を生ずるに至れり、当時慶喜公が初めより恭順論なりしならんには、断然として我が公に厳命、我が公が臣下に命ぜば、興奮せる我が藩士といえどもこれを鎮撫する必ずしも不可能にあらざるは、大政奉還も京都よりの下阪も、慶喜公の命に服従せしにて知りとくべし、しかるに策これに出でず、二条城において『必討』と自書して衆に示し、また田中玄清には『君側を清掃せざるを得ず』と云われ、また正月五日には『千騎戦没して一騎となるとも退くべからず』と云われ、主戦論者の違背すべき道理なきもののみにて、恭順論の命令の出でしを聞かず、思うに当時公はあるいは主戦に傾きあるいは恭順に傾き確固たる決心なかりしがごとし、後年に至り戊辰戦乱の責任を会桑に転嫁せんが為の繰言にあらざるか。






卷二 伏見鳥羽の戦  会津戊辰戦史1
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  1. 2012/12/06(木) 21:27:12|
  2. 会津戊辰戦史1
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