いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

慶喜公の東帰

慶喜公の東帰

この夜(六日)亥の刻慶喜公ひそかに米国軍艦に投乗し、翌七日さらに幕府の軍艦開陽艦に轉乗し海路江戸に帰る、我が公、定敬朝臣並びに老中酒井忠惇朝臣、大目付戸川忠愛、外国奉行山口直毅、目付榎本道章等従う。
 五日の日に慶喜公が激励の台命を発したる後、東下のおもいむら々々と起こり処に、その深夜神保修理が東下の入説にやや心を決したるも我が公および定敬朝臣には勿論、幕臣中気概ある者には固く秘せられけり、ただ勝静朝臣と永井尚志とに東下のことをほのめかされしに二人は東帰再挙の事と信じて賛成したりと云う、出発間際に至り我が公に東下陪従の命あり、東下のことをこの時まで我が公に秘せられしは、我が公は勿論我が藩士が極諌せんことを恐れてなり、我が公東下のことを聞きその不可なる理由を縷陳すれども、知はもって諌を防ぐに足るべき慶喜公なれば、なぜ我が公の諌を入るべき、果ては憤怒して陪従東下を厳命するに至れり、我が公今は止むをえず、その愛撫せる我が公が将士を捨てゝ涙を呑んで東下に倍従せり。
 これより先この夜我が公近侍浅羽忠之助に言いていわく、敗軍このごとし城を枕として戦没するも力を尽くさゞるべからずと、またいわく、神保修理を招くべしと、忠之助いわく、修理恐らくはすでに本願寺の本営に至りならん明旦を期すべきかと、我が公いわく速やかに招くべしと、けだし慶喜公の命なり、忠之助すなわち用所{用所は我が藩政の主要なるものを取り扱うところにて、幕府の右筆所のごとし。}の吏渡辺定之助をして修理を招かしむ、修理すなわち登城して慶喜公に謁す、その言知る者なし。
 丑の刻修理、忠之助を招きていわく、大刀を携え来れと、共に御用部屋の口に至る、修理いわく、内府公東下せんとし我が公もまた陪従に決すると、忠之助驚きていわく何ぞや、修理いわく、ゆえあり家老神保内蔵助、上田学大輔および子と余とを従うとの命なり、しかれども事極めて機密なり必ず漏洩することなかれと、忠之助すなわち我が公の要品を携えて御用部屋の口に至る、修理いわく、公の命を待ち内蔵助、学大輔に告げて言へ、公両人を召す、速やかに大刀を携え来れ、公城樓に登らんと欲すと、忠之助いわく、藩相以下未だ公の東下を知らざるか、修理いわく、未だ知らず、忠之助いわく、我が将士苦戦利あらず死傷甚だ多し、これを棄てゝ公独り東下せらるゝは不義なり、他日何の顔ありて将士を見んや諌止せざるべからずと、修理いわく、公命じて云う内府公の命なり、これを如何ともなすべからずと、忠之助いわく、君を不義に陥れなば臣道何をもってか立たん、必ず諌止せざるべからずと、修理その理に服して共に坊主(殿中の指令をなすもの。)をして我が公に謁せんことを請はしむ、坊主すなわち入りまた出でゞいわく、公今内府公の前に在りと、修理、忠之助しきりに苦慮し、しばしば謁せんことを請へども得ず、倉澤右兵衛、小野権之丞{小野は初め近侍なりしが、家老横山常徳抜擢して公用人となす。}もまたしきりに謁せんことを請う、しかれども坊主の言初めのごとし、桑名藩隊長松平某もまたいわく、ただいま兵を収めて来れり、桑侯に謁せんことを請うも、侯また内府公の前に在りとて許せれずと、佐川官兵衛座に在り、竹中重固に言いていわく、幕将一人戦地に臨み歩兵一大隊を守口に止めよと反覆弁論す、重固依違として答えず、かえりみて修理に言いていわく、子の意如何と、修理もまた官兵衛が論を賛す、重固ついに半ばにして出づ、たまたま陸軍奉行並戸田勝強来る、官兵衛また反覆勧説す、勝強ついにこれに同意し自ら戦地に臨むに決せり。
 紀州の家老水野大炊頭来りいわく、新宮より七騎を従い馬を馳せて来る、今日一大隊の兵着阪すべし、寡君の着阪は両三日中にあるべしと、忠之助等いわく、兵庫の兵備全からず請う兵を分ちてこれを助けずや、また山崎蹴上の方面より進撃するもべきならんか、大炊頭いわく、今日着阪の兵を率いて奈良より京都に入らんと、修理いわく、形勢すこぶる急なり、恐らくは明日大阪城中に砲弾落下するも知るべからず、大炊頭奮激していわく、大阪城焼亡せば更に大幸なり、殿屋中に安居すれば怯懦となり士気ふるはず、殿屋灰尽となりて露営せば衆皆奮発勇気自ら倍せんと、会々汽船天保山海に至り慶喜公東下の説あり、大炊頭これを聞き怒っていわく、果たしてしからば寡君の出阪を止めん、天下の事ここに終わらんと、時に近侍金子忠之進も来りて側にあり、姫路の藩士もまた来り藩侯に謁せんとす、侯もまた内府公の前に在りとて許されず、修理、忠之助ますます苦慮し、同朋頭池田貞阿弥に托していわく、大急事あり速やかに謁せんと欲すこれを我が公に聞せよと、彼諾して入る、また出でゝいわく、御錠口{将軍諸侯の邸と表と奥とあり、御錠口はその堺にてこれより内奥へは特殊の人の外、男子の入るをことを禁ぜしなり。}より内は小子等入ることを得ず、ゆえにこれを奥に托せりしばらくして面せらるべしと、すでにして滝川具挙奥より出でゞ修理に密語す、修理、忠之助に言いていわく、内府公、我が公、桑名侯、姫路侯、板倉侯に東下すと、走りて藩相の座に至りこれを告ぐ、内藤介右衛門いわく、これ必ず訛伝ならん、しかれども外に漏洩せば人心動揺せん浪語することなかれと、忠之助いわく、余往きて虚実を探らんと走りて出づ、修理もまた走りて出づ、時すでに天明けんとす、けだしこの時忠之助、修理は慶喜公の東帰を信ぜしなり。{七日昧爽修理、忠之助本願寺における公の厩に至り、厩長野村彦五郎に議して鞍馬二頭を借り一鞭ただちに天保山を指して馳す、前路に方りて衆人傘を戴くありしかば、心ひそかに見て内府公一行ならんと思い追及すれば、幕人外国人の汽船に行くを送れるなり、両人また馳せて木津川に至る、船中に松平信古、大阪城代牧野忠直在りて扈従の士各両三名を従うのみ、これを見て修理馬より下りる、両侯手を挙げてこれを招く、いたれば両侯いわく、惟ふに内府公はすでに乗船せしならんと、ゆえにその船に追及せんとす卿等も共に至るべしと、修理、忠之助大に喜び、市人に金を興へて馬を本願寺に還さしめ両侯に従う、乗船に先立ち本願寺の本営に書を遣わしてこれを告げんと欲す、両侯しきりに乗船を促すゆえに書するの暇なく、乗船して後鉛筆をとりて大略を書し船夫の帰るに托して藩相に告げんとす、すでにして大風烈しく小船を進むること能はず、海上には汽船煙を揚げまさに抜錨せんとするあり、思えらくこれ必ず内府公、我が公の乗船ならんと神魂飛場すれども如何ともすること能はず、すでに天保山沖に至る船覆へらんとするもの数たび、海水船中に入りて甚だ危うし、止むことを得ずまた上陸し風浪の収まるを待たんとすれども、その期知るべからず、ゆえに陸行するにしかずと議す、会々若年寄並平山敬忠来りていわく、内府公は今や碇泊して由良港に在らん、よろしく往きて乗船陪従すべしと、すでにして怒涛なお収まらず、桑名藩用心三宅弥忽右衛門、近侍中島香嘉取馬を馳せて来りいわく、寡君内府公に従いて東下すと聞き重臣にも告げずして来れり事状如何と、修理、忠之助詳に告ぐるに実をもってし且ついわく、陸行して由良港に至らんと、弥忽右衛門、嘉取も同行せんことを請う、修理、忠之助詳に事状を書して藩相に告げんと欲すれども事急にして能はず、ゆえに初め船中にて書きたる書を笠間侯の騎兵に帰るに托す、弥忽右衛門、嘉取いわく、余等も詳に書するに暇あらず、請う子等の書中に弊藩へもその事を告げんことを書せよと、すなわちこれを加書す、たまたま笠間侯の臣某来りて侯を諌めていわく、この地を捨て東下するは不可なり、もし敵兵来らば快戦して死せんのみと、笠間侯いわく、内府公このごとき大事を我等に告げずして東下するは怪訝に堪えず、よりて公に謁してその意を問わんとすと某の諌を容れざりき、すなわち吉田侯、笠間侯以下修理、忠之助等十二人午前頃この処を発し堺に至る、時に幕兵大阪を退きて紀州に赴く者項背相望む、風ますます暴く且つ昨夜より大に困疲し未だ貝塚に至らざるに日すでに闇し、よって貝塚に宿す。
吉田侯、笠間侯および修理、忠之助等議していわく、今日に至りて風なお収まらず、もし紀州に至るも乗船すること能はずして陸行せば甚だ迂回なり、大和路を経て伊勢松坂に至り乗船するの便なるにしかずと、すなわち原路に帰り間路より大和路に赴く、修理、忠之助いわく、両侯と分かれて馳するにしかずと、すなわちこれを両侯に告ぐ、吉田侯手書を托していわく、途中我が兵に逢はゞこれを達せよと、笠間公いわく、江戸に至らば日比谷邸某に詳にこの状況を告げよと、修理、忠之助托して馳す、途中桑名藩の兵退くに追及し、また鳥羽の兵に逢う、皆我が藩の奮戦を嘆称す、長谷に至りて吉田藩の兵多く至るに逢う、隊長在らず、すなわち目付某に逢いて侯の手書を致す、修理、忠之助疲労艱苦を極め松坂に至るも風未だ収まらずして船を発すること能はず、止むことを得ず東海道に出でんと八軒を経て津城下に至る、津藩の兵上野に赴くに逢う、各戦袍を着け銃を携え騒擾甚だし、城下に至るや郭門にて姓名を問い簿冊に記して通行を許す、夜半頃ようやく四日市に至り休ふ、会々和歌山の士某轎を飛ばし来りていわく、津田監物命じていわく、過刻松坂を過ぎられしを聞き、面晤せんと欲したるもすでに去れり、ゆえに我をして詳に京摂の形勢を問はしむと、修理すなわちこれを詳説して発す、九日沸暁桑名に至る、市人家財を船載して難を避けんと騒擾を極む、老幼婦女涕泣奔走し、あるいは児子を京摂に出せる者形勢如何を問う者多し、修理、忠之助これより轎を飛ばして江戸に至る、忠之助が大阪を発するとき、孝明天皇が我が公に賜いし宸翰を奉持して帰東せしがため、宸翰全きを得たるをもってその帰路を詳記せり。}


 かくて朝廷にては大阪の兵伏見鳥羽の両道に進出するを聞き、それぞれ部署を定めてこれに備えしめ、四日仁和寺宮嘉彰親王を征東大将軍に任じ、七月布告して征討の命を伝ふいわく、

徳川慶喜天下の形勢不得止を察し大政返上将軍職辞退相願候に付朝議の上断然被聞職候処唯大政返上と申のみにて於朝廷土地人民御保不被遊候ては御聖業不被為立候に付尾越両侯を以て其実効御訊問被遊候節於慶喜は奉畏入候へ共麾下並会桑の者承服不仕万一暴挙可仕哉も難計候に付只管鎮撫に尽力仕居候旨尾越より及言上候間朝廷には慶喜真に恭順を盡し候様思召既徃の罪不被為問列藩上座にも可被仰付の所豈画んや大阪城に引取候は元より詐謀にて去三日麾下の者を引率し剰へ帰国被仰付候会桑等を先鋒として闕下を奉犯候勢ひ現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白終始奉欺朝廷大逆無道不可逃此上は於朝廷御宥恕之道も絶果不被為得已御追討被仰出候抑兵端己に相開上は速に賊徒御平治万民塗炭の苦被為救度叡慮に候間今般仁和寺宮征東将軍に被任候に付ては是迄偸安怠情に打過或は両端を抱き或は賊徒に従居候譜代臣下の者たり共真に悔悟奮発国家の為盡忠の士有之候輩は寛大の思召を以て御採用可被為在依戦功此行末徳川家の義に付歎願の義も候はゞ其筋に依り御許容可有之候然るに此御時節に至り不弁大義賊徒と謀を通じ或は潜居被致候者は朝敵同様厳刑に可被処候間心得違無之様御沙汰に候事

但征討将軍を置れ候上は即時前件号令可被発は勿論に候へ共於旗下粗暴の途壅蔽爰に至り候哉と彼是と深重の思召を以て御遅延の処三日より今七日に至り阪兵日に雖敗走益出兵不被為得已断然本文の通被仰出候各藩吏卒に至る迄方向を定め天下の為め奉公可有之事


 また阪軍においては今朝若年寄永井尚志、大目付滝川具挙等慶喜公、我が公定敬朝臣以下東下の事を諸軍に告げていわく、

今般当地御東下被遊候に付ては在来諸藩所御警衛の面々人数引上げ江戸表又は在所表等へ都合次第罷越不苦旨豊前守殿被仰渡候間其旨相心得別紙の面々早々順達可有之候右之段申進候以上

 別紙姓名(表中誤りあるものゝ如し)

松平美濃守(筑前)

紀伊中納言(紀伊)

松平右近将監(浜田)

戸田采女正(大垣)

松平若狭守(藩詳ならず松平酒井の誤りか)

松平阿波守(徳島)

松平甲斐守(郡山)

稲垣平右衛門(鳥羽)

松平讃岐守(高松)

松平伊予守(松山)

牧野駿河守(長岡)

井伊帰部頭(彦根)

栃木近江守(福知山)

加藤遠江守(大洲)

植村駿河守(大和高取)

森美作守(赤穂)

稲垣右京亮(近江山上)

岡部筑前守(岸和田)

土井大炊頭(古河)

大久保加賀守(小田原)

松平兵部大輔(明石)

九鬼長門守(摂津三田)

松平刑部大輔(吉田)

松平下総守(忍)

柳生但馬守(大和柳生)


 諸軍これを聞きて解体し、城中の紛擾甚だし、幕兵は午後より紀州に赴き江戸に帰るべきの命あり、尚志いわく、会津桑名の兵は皆紀州より乗船して江戸に至るべし、すでに和歌山藩に約する所ありと、当時我が藩士においても議論まちまちにして、あるいは大阪城によりて快戦せんとするあり、あるいは速やかに東下し我が公に謁して後再挙を図るにしかずとなすあり、あるいは又内府公、我が公すでに東下す残兵皆死すといえども遺憾なし、進んで奮戦し、もし事成らばただちに京都に入らんと主張する者ありて議論憤然たり、この外に伊賀を経て東下するの儀あり、倉澤右兵衛、田中八郎兵衛、柴太一郎いわく、我が兵連日苦戦してほとんど不眠不休特に疲労を極め、最早伊賀を経由すること能はず、且つ津藩の郷背疑なきにあらず、むしろ紀州に至りしばらく休ひて後東下するにしかずと、衆この議を賛成す、午時より幕兵大阪城を発す雑踏甚だし、我が兵夜半より東本願寺の本営を発せんとす、会々兵口或は京橋に来るの説あり、ある人いわく、寡兵をこの地に留めて徒死せしめんよりは、むしろ速やかに退くにしかずと議論沸騰す。
 時に我が兵金穀欠乏す、よりて諏訪常吉をして和歌山藩に至り、まさに我が兵の通過せんとするを告げ且つこれを謀らしめ、陸路大島に至りその地より海に航して三河吉田に至るまでの旅費を給せしむ、また和歌浦において若年寄永井尚志および勘定奉行小野広胖について幕府の金五千両を借る。
 これより先開陽艦長榎本武揚は戦況の可ならざるを見、かつ海軍の戦略を陸軍総督に告げんとして、六日の夜艦員尾形幸次郎、伊藤鐵五郎、我が藩士雑賀孫六を従えて大阪に上陸す、時に伏見、鳥羽、淀等の戦い利あらず、敗報しきりに至る、武揚憤慨して総督の本営に至り、議する所あり、この日早天大阪城に登るに、守衛の兵なく永井尚志、平山敬忠等の徒に密議するあるのみ、よりて其のゆえを問うに答えていわく、内府公以下昨夜深便密に城を出でて軍艦に搭すと、武揚茫然としてその為すなきを浩歎し、徳川家の運命これに尽くるを知り、慶喜公の室に入りて文書什器刀剣等を収めて軍艦に送致せしめ、まさに城を出でんとし勘定奉行小野広胖に会ふ、広胖いわく、金蔵に古金十八万両ありといえどもこれを運搬するの良法なきに困むと、武揚いわく、何の難き事かあらん余これを運搬すべしと、尾形幸次郎、雑賀孫六に命じ荷車五輛人夫若干を雇使して八軒屋に運搬せしむ、しかるにその量重きに苦み且つ戦争の起らんことを怖れて逃れ去らんとす、武揚怒って幸次郎、孫六をして刀を抜きてこれを督せしめ、もし肯ぜざる者はこれを斬るべしと厳命し、ついに三十石積の船に移して不二山艦に送るを得たりと云う。
 慶喜公の東下するに当り目付妻木多宮を大阪城に留めて上奏書を上り、かつ本城を尾州越前両藩に交付せしめんとす、多宮すなわち尾越両藩の大阪勤務の藩士を召す、尾州藩士はたまたま出でゞ邸に在らざりしかば会するに及ばず、越前藩士岡本晋太郎来る、多宮上奏書と親書とを交付し且ついわく、本城もまた共に交付了りたるものと心得べしと、晋太郎いわく、実に貴諭のごとし、しかりといえども尾州藩士未だ来らざれば今ただちにこれを受け難し主命によりて答ふべしと、すなわち馬を馳せて京都に至りてこれを慶永朝臣に示す、その上奏書並び親書左のごとし。

此度上京先供途中偶然之行違より近畿騒然に及候段不得止場合にて素奉対天朝他心無之段は兼て御諒知之通に候併聊たりとも奉悩宸襟候段恐入候に付浪花城は尾張大納言松平大蔵大輔に相托し謹て東退任候以上
 正月  慶喜


此度上京先供途中偶然の行違より近畿騒然に及候段不得止之場合にて素奉対朝他心無之段は兼て御諒知之通に候兵聊たたりとも奉悩宸襟候段恐入候儀に付謹て浪花城各へ相預退去帰東に及候間右之趣可然御執成御奉聞有之度頼及候
 正月七日  慶喜
  
 尾張大納言殿
 松平大蔵大輔殿


 薄暮に至りて尾州藩浅野辰蔵来る、晋太郎の上京を聞きてその帰阪を待ちて再び登城すべきを約して退く。
 正月六日山内容堂の密使坂井藤蔵、野村糺、東本願寺の我が本営を訪ひ、南摩八之丞、三阪市郎右衛門に面していわく、余等老寡君容堂の命をもって作五日京都を発し、奈良路を経て昨夜大阪に入り、今日早天城に登り永井尚志に面せんとしたれども能はず、よりて貴藩について幸に内府公の意を探るを得ば、容堂は中間に在りてその宜しきを制するを得べしとなし、余等をしてこれを詳にせんとするなり、よりて先づ三日以来の京都の形勢より陳べんに、客臘以来容堂建言の意達せず、薩長の専恣を憤り病と称して出でず、伏見関門守衛の命あるもあえてこれを受けず、ただ伏見市中巡邏の命は固辞すること能はず僅かに一小隊を出せしに過ぎず、三日は交代の期にして後の一小隊伏見に至り、前の一小隊未だ去らず故に二小隊在りき、伏見守衛の薩藩より我が兵に告げていわく、徳川および会桑の兵京都に入らんとするの説あり至らばこれを止めよ、もしあえて過ぎんとせば朝敵と号してこれを討ちぜよとの勅命なりと、容堂これを聞き驚きてただちに参内し、建言していわく、このごろの形勢非常を戒めんが為に各その分に応じて兵を率いるは虎り怪しむに足らず、臣容堂および諸藩皆然り何ぞ独り徳川氏にのみ兵を率いるを禁ずるの理あらんやと、時すでに兵を率いて関門を過ぐるを禁ずるの勅命下れり、しかれども朝廷よりその勅命未だ下らざるに先だち、伏見守衛の薩藩より勅命と称して我が藩の巡邏に伝えしはこれ一大怪事なり、かつ幕兵および会兵の通過を止め、その応接中薩長兵は我が兵の背後および両側に並列して、我をして退くこと能はざらしめ遂に砲戦におよぶ、仁和寺宮の容堂を召して軍旅のことは未だあえてこれを知らず、汝よろしく参画力をつくすべしとの命あるや謹みて固辞せるなり、今薩長の兵皆力を尽くして伏見鳥羽に在りといえども、在京諸藩の兵は皆観望してその意向一ならず、いわんや京都金穀弾薬に乏しく、兵もまた寡少にして僧侶をして禁闕を守らしむるに至る、速やかに大阪の大軍を挙げて京都を衝かば戦はずして事成るべし、もし内府公東下の事あらば天下の事止みぬ情状如何と、市郎右衛門、八之丞答えていわく、我が重臣および軍事官昨日城に登り未だ退かず、ゆえにその詳なることをしらず、貴諭の事は詳に重臣および寡君に告げて後答えんと明朝を約す、八之丞すなわち両士の説を藩相上田学大輔、内藤介右衛門、諏訪伊助に告げ且ついわく、幕兵、我が兵、桑名兵、板倉兵皆厳然として未だ退かず、速やかにこれを集合して京都を衝かば大事成らん、請う速やかに勇断せよと、三相いわく、幕兵は今未の刻より紀州に下り東帰すべく、我が兵もまた今夜半より発して紀州に下り東帰するの令すでに発せり、ゆえに士気沮裘し各帰心もっぱらにして一致奮進せしむること難しと、明朝田中八郎兵衛および八之丞土佐の両士に告ぐるに内府公以下東下の事をもってす、両士之を聞きていわく、事すでにここに至る如何ともすべからず、しかれど内府公の意、東下の後は恭順にあるかもしくは再挙にあるか、願はくはこれを詳にして容堂に奉ぜん、けだし容堂もまたこれによりて処するの策あらんと、八郎兵衛等答えていわく、内府公の心事は知ること能はずといえども、この後の処置如何に関わらず篤く公武の間を周旋せられんことを、余等の願う所なりと共に嘆息して別れる。{土佐藩のこの密使を我に遣したるも、また土佐藩が東軍に内通せしと云う風説の起こりし一原因なるべし。}

 この日山川隊に八日辰の刻城中の負傷者を中の島海軍所に送るべきの命あり、けだし雁木阪邸病院に在る負傷者およそ百人の看護にあたる者なく、諸隊皆本願寺の我が本営に至る、ゆえに城中に止まりたる山川隊、佐川隊および新選組にてこれが看護をなしたるによるなり、戍の刻頃また負傷者を堂島の我が藩蔵屋敷および八軒播磨屋に送るべきの命あり、これ汽船をもって江戸に送るの議決せるをもってなり、人夫は本願寺本営より送るべき約なりしにより、使いを遣わして呼びたれども一人も来らず、ゆえに山川隊、佐川隊の兵士にて中の島の埠頭まで護送すべく、途中もし敵兵に逢はゞ皆自殺するに決せり、山川大蔵隊士に傷者を護送し、ことごとく汽船に乗せ終わりて後、本願寺本営に帰るべしと命ず、これにおいて傷者を板扉あらいは竹駕等に載せ、兵士自ら舁きて堂島の我が邸および八軒におくる、夜半を過ぐる頃ようやく終わる。
 この夜広川元三郎傷者看護主任を命ぜられ、長谷川幸助これが属吏たり、また巨海源八郎、牧原源蔵、簗瀬武四郎、三浦重郎、両角千代治、杉浦太郎、萱野勢治、岸直次郎、神田小一郎、津川主水、西村延八、平田一郎、服部安次郎、今泉勇蔵、小櫃弥市等は傷兵を江戸に護送すべきの命あり、勢治、小一郎は城中より傷兵を板扉に載せ自ら舁きて堂島蔵屋敷に至り、大砲頭林権助の傷痍を慰問す、すでにして城辺り火起こる、、流言あり敵来ると、市中大に騒擾す、傷兵もまた大に憂慮す、ゆえに蔵屋敷に傷者を送りたる直次郎、勢治等議していわく、傷兵を舟に乗せて出すにしかずと、直次郎、勢治、小一郎並びに鈴木幸蔵川岸に至りて舟を索む、元来中の島には小舟を置くの約なりしに一隻をも見ず、たまたま市人家財を舟載して難を避くる者連接すれども、皆婦人のみにして舟在らず、特に夜間中のことにてすこぶる困難を極めしが、幸にして舟子の在る舟を発見し、直次郎等事情を語りて乗舟を懇請すれども、舟子は家財諸器を積載したるをもってこれに応ぜず、直次郎固く請う、舟子すなわち家財を他の舟に移し、直次郎等を乗せて堂島蔵屋敷前に至る、直次郎等厚くこれを謝しついに邸中の傷者を尽く舟に移すことを得たり、直次郎なお奔走して汽船に送るべき海舟を求めんとしたるも市人皆去りてあらず、よりて更に舟子を案内としてあまねくこれを求めたれども得る能はず、これにおいて直次郎止むを得ず先に乗る所の舟に帰りてつぶさに事情を語る、ために傷兵意気大に沮喪す、すなわち直次郎、勢治また出でゝ海軍所の宿舎に至り、吏に面晤し懇に汽船を借り入れんことを請う、吏いわく、職務の管掌は各定まれる所あり、汽船のことは余等の知るところにあらずと、直次郎怒りていわく、我が藩士の多く死傷したるは一に幕府のために奮戦したるに由れり、しかるに今この窮迫に臨みて何ぞその冷酷なるや、今この傷者を放棄して帰る所なくんば只死あるのみと辞色やや厲し、吏いわく、更に商議の後に答へんと内に入りたるのみにしてまた出でず、傍人いわく、この家は船戸なりと、すなわち主人を呼びて海船を雇わんことを謀る、主人いわく、川舟の運送を業とするのみ海船は我らのおよぶところに在らず、しかれども幸に幕府勘定奉行小野広胖在り海船の事を議するがごとし、しばらく待つべしと、入りてこれを告ぐ、良々久しうして広胖出でゝいわく、貴藩の士幕府のために奮戦して多く死傷す、感嘆に堪えず、我ら傷者船送の事は預かり知らざる所なりといえどもこの切迫の時に臨み傍観すべからず、今幕府歩兵の傷病者多くここに集まり発船を待てり、仮令この輩を残留するも貴藩の傷者は先つ汽船をもって江戸に送るべし、必ず憂ふることなかれと辞機気甚だ懇切なり、初め直次郎、勢治もし事ならずんば広胖を斬りて共に死せんと期したりしが、これを聞き感喜して厚情を謝し、なお懇に依頼して出づ、時に天すでに明く。
 八日朝直次郎、勢治馳せて傷者の船に帰り詳に広胖の厚情を語る、傷者皆大に喜ぶ、直次郎等いわく、山川隊長未だ本願寺の本営を発せずと聞く、早くこの事を告げざるべからずと、勢治、神田小一郎、簗瀬鐡馬、簗瀬武四郎、鋤柄主殿、鈴木幸蔵、本営に行きてこれを山川大蔵に告ぐ、大蔵すなわち直次郎、勢治、小一郎、鐡馬に傷者の看護を、武四郎、主殿には林権助を看護して江戸に赴くべきを命ず、組頭佐藤織之進いわく、広胖と分離せば事あるいは難きことあらん、直次郎、勢治行きて小野氏の寓に在るべしと、直次郎等すなわち酒肴をもたらしてこれに贈る、広胖その厚意を謝し待遇すこぶる懇切なり、直次郎等広胖に問いていわく、君は何故に留まるやと、広胖答えていわく、大阪の金蔵より古金四十万両をもたらし江戸に帰らんとす、傷者もし乏しきを訴ふればこれを貸興すべしと。
 八軒に送りたる傷者を汽船に移さんとするにまた船なくして大に困む、ゆえにこの日早天より諸人周旋してようやくに河舟十隻を雇いて傷者を移乗せしめ、余れる者は人夫をして舁かしむるを尚足らざれば、付属看護者皆自ら助け舁きて中の島に送る、看護者津川主水、今泉勇蔵、小櫃弥市等安治川橋下に下りて海船を求むれども得ること能はず、かつ舟子等は皆避け逃れて如何ともすべからず、よりて八軒より来れる津川主水、西村延八、岸五郎、平田一郎、服部安次郎、巨海源八郎、牧原源蔵その他外島機兵衛、大野英馬、南摩八之丞等も共に奔走し姫路邸、松山邸等に謀りてこれを雇い、ようやく我が藩の傷者百人許並びに新選組の傷者を河舟より海船に移し且つ傷者船中準備の金三百両を頒興す、この時榎本武揚来りていわく、昨日申の刻頃傷者を中の島に送るべきことを告げたりしに遷延このごとくなるは何ぞやと、直次郎詳に昨夜来の事を語る、武揚いわく、こと大に齟齬せり急に天保山に送るべし、我は城中を検査して帰艦すべしと、直次郎いわく、余は小野氏の許に至らざるを得ずと、武揚いわく、しからば子一人小野氏の寓所に到り、その他は急に天保山に到るべしと、武揚ただちに直次郎を己が舟に同乗せしめて広胖の寓に送り自ら城内に至る、黄昏直次郎は勢治、小一郎と共に広胖の船に同登して天保山に至る、会々大風起り船を進むること能はず、傷者の諸船も共に岸に沿ひて泊す、広胖および直次郎等諸人上陸し廠舎に入りて夜を徹す。
 九日武揚天保山に至り広胖と懇話し、かつ砲台に装置したる大砲の火門に釘を打ち弾薬のボイスを棄てしむ、この時我が傷者十余隻の小舟に乗り来り、あるいは汽船に移るもあり、なお天保山下に在るもあり、その中一隻齋藤興八郎および新選組合わせて十九人の乗りたるもの、泥沙に擱坐して動かず、時に敵兵の巡邏甚だ厳なりしかば舟中一同焦慮甚だしく、速やかに汽船に移らんと欲すれども如何ともする能はず、武揚、土方歳三と悠然として杯を挙げていわく、速やかに出船すべしと、すなわち四斗樽を並列して近傍にありたる幕府の歩兵一中隊を招きてこれを満飲せしめ、また袋中より金を出しこれを分興する事およそ五六百両、さらに歩兵に命じて膠船を出すこと能はずんばことごとく斬に処せんと躍りてその船に移る、歩兵等死力を出しついにこれを出すことを得たり、すなわち深海の岸に廻して上陸し歩兵も皆上陸せしめ、その船は馳せて傷者を正角艦に移乗せしむ、武揚すなわち司令に命じていわく、歩兵を率いて陸行し紀州に至るべしと、司令いわく、前途敵兵あらん願わくは船行せんと、武揚叱していわく、汝らすでに部兵を有し加ふるに兵器弾薬を有すること斯くのごとし、もし敵に逢はゞ撃破して過ぐべし、これ汝らの職なり、この船は傷者を江戸に送るものなり他は一人も乗すべからず、汝らもし陸行すること能はずんば速やかに逃れ去るべしと、司令唯々悚服して謝す、武揚ついに船を雇い歩兵を乗せて紀州に至らしめ、諸般の処分を終わりて小船に乗り富士山艦に移る、しばらくして傷者は正角、順動、富士山の三艦に分乗せしめて江戸に送る、富士山艦長は榎本武揚、正角艦長は柴誠一郎、順動艦には艦長を欠く、船中の人皆看護御歎接極めて懇切なりき。
 この日未の下刻ころ傷者ことごとく皆汽船に移る、小野広胖、広川元三郎等正角艦に乗る、岸直次郎は諸般の処理をなしたれば後れて正角艦に乗るを得ず別船に乗りて発す、風暴れ浪高く天保山沖に到り大に悩む、幸に汽船の来るありてこれに牽かれ兵庫に至り順動艦に乗る。
 申の刻頃に至るまでに三艦皆抜錨し共に兵庫に至り、繃帯用の白布および食品等を購はんとするも、土佐藩の兵守衛甚だ厳なりしかば、上陸を禁じ市人をしてこれらの諸品を船中に送致せしめてこれを購ふ、時に黄昏におよび富士山艦旗を挙げて信号をなす、よりて正角艦長柴誠一郎令して艦中の大砲を装填せしむ、けだし武揚時に兵庫にて戦備をなすを遠望し、もし夜間不慮の事あらば速やかに応戦せしめんが為なりしなり、これにおいて即夜戍の刻第一に順動艦抜錨し、正角艦これに次き富士山艦は後殿たり、船中小野広胖傷者を慰問し昼夜看護懇切に極む。
 正月八日尾州藩鬼頭健三郎大阪城に登り、昨日同藩士浅野辰蔵が目付妻木田宮より聴きたる所の趣旨を更に詳問し、急使を京都に馳せてこれを徳川慶勝卿に報ず、幾何もなくして辰蔵また登城し、健三郎と共に殿中天井の間にありて越前藩士岡本晋太郎が京都よりの帰阪を待つ。
 昨日総督大河内正質朝臣退城に際し、兵士の傷者は伴うこと能はずにより、看護の兵士を付してこれを城中に留む、城代牧野貞直朝臣の兵卒一隊これと合して八十八人許、粗暴過激の議論を主張しまさに暴発せんとす、目付田宮これを聞きて大に驚き理を尽くして説論す、時に城外青屋口火を失す、会々風烈しく火片城中に飛下し、まさに延焼せんとす、この紛擾に驚き、城中に放棄したる鞍馬裸馬あるいは逸走しあるいは踏齧す、傷者交って思えらく敵兵来り火を縦つとなし自刃する者あり、新選組の傷者村上清士もまた自刃す、田宮思えらくこの機に乗じてこれを城外に移すにしかずと、すなわち大声疾呼して看護者および牧野氏の兵卒に命じ、傷者を助けてことごとくこれを船場に退かしめ、わずかにこれを鎮定す、火もまた延焼せずして滅す。
 この時にあたり幕兵会津桑名その他諸藩の兵大阪を発し、紀州に下る者陸続相接す。
 正月九日朝廷は嘉飽彰親王に命じて大阪に次し諸軍を指揮せしめ、松平慶永朝臣の重臣を召して左の命を伝ふ。

慶喜東帰に付言上の趣被聞召候将軍宮御進軍華城を以て可為本陣被仰出候間両藩共に迅速下阪城中点検可奉迎旨御沙汰候事

但若々遅々候ては甚以御不都合に付呉々速に下阪可致事


 この日辰の下刻ころ大阪城外より大砲を発して襲撃する者あり、旧幕府目付妻木田宮従者をして斥候せしむ、たまたま城外青屋口再び火を発し、炎煙空を覆い延いて城外におよぶ、時に城中にある者は田宮および徒目付大山兼太郎、飯塚廉作、大阪町奉行支配調役金枝鐡太郎、尾州藩鬼頭健三郎、浅野辰蔵および田宮の従者一人のみにして如何ともすること能はず、会々斥候馳せ帰り報じていわく、長州の兵来り、まさに本城に迫らんとす、彼ら空城なるを知らざるによるならんと、すなわち飯塚廉作、鬼頭健三郎と共に鉄鞭に白布を結び大手門外に出でゝこれを振る、彼の兵これを望み発砲を止む、これにおいて二人進みていわく、本城はすでに徳川内府より尾越両侯に交付せり、しかれどもなお目付妻木田宮在り平穏に応接せよと、彼ら兵を城門外に止め参謀佐々木次郎四郎、坂井勉従者二人を従へて城に入る、田宮これを天井の間に迎えて来意を問う、彼らいわく、勅命を奉じて本城を攻撃せんとす、田宮いわく、徳川内府の命により将士はすでにことごとく退き本城は尾越両藩に交付すと、慶喜公の上奏書の草稿並びに尾越両侯に贈るの親書を示す、佐々木等これを領し尾藩の両士と応接す、たまたま城中石の間の方位に一大爆発音あり、また南方二所に声あり、俄然三方より火を発し一瞬間に四面猛火の覆う所となる、皆衆驚き馳せて正門内の衛舎に避く、ある人いわく、城中簿冊兵器貨弊等の諸物縦横紛乱を極む、ゆえに田宮あらかじめ硝薬を填し時期を計りて火を縦ちしなりと。
 外島機兵衛、大野英馬、南摩八之丞、諏訪常吉等、津藩山田勘右衛門が家に潜匿せしが、敵の捜査厳にして毎家検査をなす、ゆえに潜匿に便ならず、しばらくこれを避け再び出阪せんと欲し、土佐堀姫路邸に至り星野乾八に謀る、乾八いわく、余等皆邸内の諸物を船載してまさに国に帰らんと、子等乗船して姫路に来れ、余は陸行せんと、機兵衛等すなわち乗船す。
 正月十日朝廷徳川慶喜公以下の官位を削る。

徳川慶喜

松平肥後守

松平越中守 定敬(元所司代、桑名)

松平讃岐守 賴聰(高松)

松平伊予守 久松定昭(伊予松山)

板倉伊賀守 勝静(老中、高梁)

松平豊前守 大河内正質(老中格、大多喜)

永井玄蕃守 尚志(若年寄)

平山図書頭 敬忠(若年寄並兼外国総奉行)

竹中丹後守 重固(若年寄並兼陸軍奉行)

塚原但馬守 昌義(若年寄並兼外国奉行)

戸川伊豆守 忠愛(大目付)

松平大隅守 信敏(大目付)

新見相模守 正典(目付)

設楽備中守 能棟(目付)

榎本対馬守 道章(目付)

牧野土佐守 成之(歩兵奉行並)

岡部備前守 寛次(目付)

大久保主膳正 忠恕(陸軍奉行並)

小栗下総守 政寧(勘定奉行)

星野豊後守 成美(勘定奉行並)

高力主計頭 忠長(陸軍奉行並)

小笠原可内守 長遠(京都見廻組)

大久保筑後守 忠常(目付)

大久保能登守 教寛(奥詰銃隊頭)

戸田肥後守 勝強(陸軍奉行並)

室賀甲斐守 正容(側用取次)


右今度慶喜奉欺天朝反状明白致し兵端を開侯に付追討被仰出依之右の輩隨賊徒反逆顯然に付被止官位候事

松平肥後守

松平越中守

松平伊予守

板倉伊賀守

松平豊前守


右慶喜同意返逆顯候間屋敷悉被召上残兵追放被仰出候事

但残兵敵地へ可相送事□


酒井若狭守(小浜)

戸田釆女正(大垣)

稲垣平右衛門(鳥羽)

松平伯耆守(宮津)

内藤備後守(延岡)


右不審の次第有之候間被止入京候事

 山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、浅野長勲朝臣等は朝議の朝敵を以て徳川家を待ち、また江戸における薩邸の砲撃を私闘と見なすを憤り、いやしくも議定の重任を汚しながら、かく重大の謀議に一言の相談もなきは、在職の詮なしと各辞職を請い、慶勝卿、慶永朝臣もまた周旋の功なく開戦に至れる罪を引いて辞表を提出せしが、朝廷慰撫してこれを許さず、また仁和寺宮に征討大将軍の命ありし時、豊信朝臣を以て副将となさんとしたれども固辞して応ぜず、宗城朝臣は仁和寺宮に説きて、両道(伏見鳥羽)の開戦は畢竟徳川家と薩長二藩との感情の衝突にて、徳川家は朝廷に対し奉りて反意あるものにあらず、速やかに止戦の勅使を発して曲勅を明らかにし、公論を以て決し給うべしと論じたるが、折りふし京軍の勝利の報伝わりて、列席の総裁、議定等耳を傾けざりければ、宗城朝臣は憤りてまた参謀の内命を辞したり、右の事柄により在京有為の諸藩が伏見の一挙に関し、如何なる感想を有せしかを知るに足るべし。






卷二 伏見鳥羽の戦  会津戊辰戦史1
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/10(月) 11:43:58|
  2. 会津戊辰戦史1
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/85-e2f018c9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。