いがぐり史料館

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我が公東帰の理由を明かす

我が公東帰の理由を明かす

 慶応四年正月十二日慶喜公芝の浜殿に上陸し、我が公、定敬朝臣、忠惇朝臣、勝静朝臣等を従ふ、時に我が藩の留守居神尾鐡之丞江戸城中に在り、我が公を馬場先門に迎ふ、我が公唯一騎にて来る、用人荒川善蔵もまた城中より出て我が公に西丸下乗橋に謁す、我が公、善蔵、鐡之丞を従いて登城す。 
 これより先、大阪において我が藩士等、慶喜公、我が公の東下を聞きて恟々たり、加ふるに西兵あるいは奈良に至りあるいは大阪に至る等の浮説を懸念し、ただちに馳せて君側に至るの議あらざりき、小姓平番簗瀬克吉、小池周吾いわく、余等生平君側に侍す、今公ただ一人東下す、寸時も安んずること能はず、速やかに馳せて公に追及扈 従べし、縦令これを衆に告ぐるも余等と意見を意にするを恐れると、これにおいて断然決心してひそかにこれを原直鐡に告げて発し、奈良を過ぎ、この日江戸に至る、我が公これを聞く、善く決心して速やかに馳せ下りしを賞す。
 同十五日朝廷より奥羽諸藩に令を下す。

就徳川慶喜叛逆為追討近日官軍東山北陸三道可令進発の旨被仰出候付ては奥羽の諸藩宜知尊王之大義相共援六師征討之勢旨御沙汰候事

 この日神保修理、浅羽忠之助、江戸和田倉邸に至る、ただちに西城に登り我が公に謁して平安を賀し、かついわく、左右の臣一人も従うものなく、その艱苦拝察に余りありと、我が公いわく、事急にして卿等に告ぐるの暇なく甚だ苦慮せり、卿等善く速やかに下れりと、我が公退城して和田倉邸に帰る。
 忠之助、我が公に謁していわく、公今回の事藩相等に告げず独り修理のみに告げて東下せらる、臣その情状を審にせず、かつ藩相等の心理如何を知らず、臣ひそかにこれを憂ふと、我が公いわく、これ予が過なり、忠之助いわく、正月五日の夜大阪城にて命あり、縦令城を枕にして戦死するも紛骨力を尽くさゞるべからずと、しかるに修理に東下の事を告げられしは何ぞや、我が公いわく、しかりその時汝の言によれば天保山沖に内府公の乗艦至るの説あり、あるいは東下の命あらんも知るべからずと、ゆえに予城を枕にするの語あり、当時内府公東下の形勢なきにしもあらず、しかれども予は累々建言したることあれば必ず東下なからんと思惟したるも、いささか心頭に懸ることなきにあらず、幸に修理白書院に在るを見たりしをもって、一旦緩急あらん時を慮りひそかにこれを告げたるなり、もし内府公東下の議判然たらんには老臣等に告げ、かつ内府公を苦諌せんと思へり、しかるに間もなく定敬朝臣急きょ予に告げていわく、内府公東下に決し且つ会桑は平生衆人目を囑す、速やかに我に従うべしとの命ありと、予驚きて走り謁し苦ろにこれを止むれども肯ぜずして却りて怒りに遭う、予の力如何ともすること能はず、ゆえに老臣等に告げんと御用部屋の口に至れども諸臣一人も見ず、予思えらく内府公に従って東下せんと欲せば諸臣に義を失い、諸臣に義を立てんと欲せば内府公に義を失う、二つながら全うすること能はず、むしろ公を先にして臣を後にせんと決心してついに公に従って共に発せり、予艦中内府公に言ていわく、五日の夜命あり、戦すでにここに至る、縦令万騎戦没して一騎となるとも阪城を枕として快戦すべし、阪城破るゝとも関東あり、関東破るゝとも水戸あり、決して中途にして止むべきにあらずと、しかるに遽然東下せらるゝは何ぞや、公いわく、このごとく命ぜざれば衆兵奮発せず、ゆえに権宜をもって命ぜしなりと、慶喜公のこの答えこそ奇怪なれ、どこまでも戦わんとすればこそ衆兵を奮発せしむる必要あれ、恭順東帰と決したる上は恭順の妨害となるべき激勤の命令を発するの理なし、思うに変説を自白するを慙ちてしかる曖昧なる答えをなせるなるべし。
 慶喜公家を徳川茂栄卿に譲りて退隠することを命ず、茂栄卿止むを得ず一旦命を奉じ、これを我が公、定敬朝臣に告ぐ、我が公、定敬朝臣いわく、思うに今は内府公退隠の時にあらず、これ大に不可なりと、茂栄卿いわく、然らば内府公に謁してこれを辞すべし、我が公、定敬朝臣いわく、内府公一旦命あり、公もまたこれを奉ず、今にしてこれを辞するも恐らくは許さゞるべし、しかれども努めてこれを辞すべしと。
 我が公、定敬朝臣すなわち勝静朝臣に告げ、固く内府公の退隠を止む、もしその説採納せられずんば、より公務を辞せんと、勝静朝臣これを慶喜公に告ぐ、慶喜公聴かずしていわく、容保、定敬公務を辞するとも如何ともなすべからずと、ゆえに我が公、定敬朝臣病を移して出でず、定敬朝臣は一橋邸(実兄茂栄卿の家)に寓せしが、この日我が和田倉邸小書院に寓し、二十九日ついに築地の桑名邸に移る、時に旗下の人士また往々疑いて思えらく、一橋公継嗣の事も大阪より東下の事ももっぱら我が公、定敬朝臣の意に出てたるなりと、これをもって定敬朝臣は一橋邸の寓を移す。
 その後板倉勝静朝臣手簡をもって我が公の登城を勤むといえども、我が公固辞して出でず、後また慶喜公の命を告げていわく、陽はに公務を免するにあらず、古によりて御用部屋に出てゝ公務を処理せよと、往復数回に及ぶ、慶喜公また目付松平伊勢守をして我が公の登城を促すといえどもついに固辞して出でず、けだし我が公深意あり、国に帰りて国本を鞏固にせんことを期したるによれり。
 江戸にて藤堂高潔朝臣使いを遣わし謝していわく、前日山崎関門にて我が藩の兵発砲したるは、西軍より迫られ止むを得ず、故らに砲口を高く向けわずかに発砲して責を塞ぎしのみ、しかるに弾丸貴藩の屯衛に至ると聞くと、実に分疏するに言葉なし、今や貴藩兵の我が江戸邸を討伐するの説あり、幸に寛怒を賜へと、高潔朝臣、また上野法親王に請うて慶喜公に分疏し、また我が公にも分疏を請う、ゆえに法親王使僧を我が邸に遣わしてこれを調停せらる。{藤堂藩の鄙劣これを形容するに言なし、堕落の極度に至れしもの、予皇国のためにこれを辱つ。}
 すでにして我が藩相等漸次東下す、我が公酒肴を賜うて厚く款待す、諸兵江戸に至る毎に、藩相をしてこれを品川に迎えしめて慰問し、また和田倉邸に召し見て面あたり労問す、就中大砲隊、別選組の兵士には特にその奮発苦戦を称揚す、毎にいわく、内府公東下す、ゆえに前徒を見んが為に従う、事急きょに出て卿等に告げず予大にこれを慚づ、今より家を慶徳にゆずり、恢復せずんば止むべからず、今後篤く卿等に依頼すと、衆皆感激す、時に我が藩の傷者大阪より江戸に至り芝新銭座邸に在り、我が公、佐倉藩医佐藤春海に嘱して治療せしむ、かつて正角艦中に在りて傷者を療せし奥平藩の医某、春海の門に入て懇切に療す、我が公フランス医ハルトマンに嘱し日々病院に来りて療せしむ、我が公また自らこれに臨み、小森一貫齋の先導にて親しく負傷者に就きてこれを慰問し、かつ伏見、鳥羽、淀、八幡等の戦況を問い、見舞品を賜いこれを慰む、越えて二十日、慶喜公騎馬にて老中板倉勝静朝臣、老中格軍事総裁稲葉兵部大輔、若年寄石川若狭守、若年寄格浅野美作守、陸軍奉行藤沢志摩守、騎兵奉行岸大隈守、目付設楽備中守その他奥向騎兵の諸員を従へて新銭座邸を訪ふ、藩相梶原平馬、若年寄西郷勇衛門これを迎えて先導す、慶喜公一々傷者の臥床に就きて慰労す、中に重傷者高津仲三郎と云う者あり、慶喜公に向い戦況を具陳し、かつ伏見、鳥羽の敗因をもって幕軍の怯懦に帰す、慶喜公、平馬並びに勇左衛門を召し藩士の勇武を感賞す。

{慶喜公は後年伏見の一戦は、我が公が幕命を矯めて諸侯に命じたるがごとく弁疏するを常とせりと云へり、ごとし果たしてしからば本文、伏見、鳥羽の負傷兵の見舞は、無意味なり、偽善なり、笑うべし。}

 かくて正月十五日に至り、朝廷まさに東海、東山、北陸三道並びに進みて慶喜公追討の軍を発せんとし、奥羽諸藩に令して六師征討の勢を助けしめ、尋で十七日朝廷より伊達慶邦に命を伝ふ。

会津容保今度徳川慶喜之謀反に興し錦旗に発砲し大逆無道既に可被発征伐軍之処其藩一手を以て可襲撃本城之趣出願不失武道奮発之条神妙之至御満足に被思召候依之願之通被仰付候間速に可奏追討之功之旨御沙汰之事

 仙台藩相但木土佐はその書の譎詐を怒りて参興三条西李知朝臣を見ていわく、弊藩会て追討を請いたることあらざるに、今御沙汰書を見るに出願云々の語ありて事実に反せり、よろしく訂正せらるべしと、李知朝臣いわく、かくのごときは武門の面目これに過ぐるものなからん、訂正の必要あらざるべしと、土佐いわく、名実相反するは事の正しきものにあらず、いやしくも朝廷においてかくのごとき曖昧の事あらんやと、李知朝臣辞届し、後数日訂正して前書と交換せり、いわく、

  仙台中将
会津容保今度徳川慶喜の反謀に興し錦旗に発砲し大逆無道可被発征討軍候間其藩一手を以て本城襲撃速に可奏追討之功旨御沙汰候事


 同十九日慶喜公親書を静寛院宮に示して恭順の意を陳ふ。

慶喜相続より以来相変らず尊王の道専ら相心懸居候へども此程の事件一時の行違とは乍申奉対朝延奉恐入候就ては私儀は退陰仕跡式の義は相選の上申付候積に御座候然る処道路の浮説にも可有之とは奉存候へども御軍勢差向られ候様にも伝聞仕只今右様の御事御座候ては臣子の至情より万一騒乱を正し奉悩叡慮候様相成候ては猶又私従来尊王の本意に無御座候間此度御趣旨の御沙汰被成候様仕度何卒私心底の程御照察被遊猶此上当家無事永続仕不相変忠勤を盡し候事出来候様御所御都合宜しく御周旋被成下候様御願申上候目出度可祝
  慶喜


 これにおいて宮は手書を裁して歎願のため女使を京都へ遣わさるべきに定まり二十一日上﨟土御門藤子は宮より橋本大納言実麗卿同少将実梁朝臣へ宛てたる書と慶喜公の書と共にこれを携えて出発せり宮の御書は、

叡慮の程伺不申願出候は恐入候へ共心痛に堪兼こゝろのみ参らせ候去る三日内府事召に依りて上洛処不慮の戦争に相成り朝敵汚名を蒙り帰府の処徳川征伐の為官軍差向られ候様に承り当家の浮沈此時と存し苦心致し候内府より承り候趣委細藤申入候通りに付何分雙方を承はり不申候ては理非分兼候此度の一件は兎も角内府是迄重々不行届の儘内府一身は如何様とも仰付られ何卒家名立行候様幾重にも願度後世迄当家朝敵の汚名を残し候事私身に取ては実に残念に存参らせ候何とそ私への御憐愍と思召汚名を清め家名相立候様私命にかへて願参らせ候呉々官軍差下され御取つぶし相成候ては私事当家滅亡を見てながらへ居候も残念に候間急度覚悟致し候心得に付私一命は惜み不申し候へ共朝敵と共々に身命を捨ては朝廷に恐入候事に候誠に心痛致し居候何卒心事御憐察あらせ願通家名の処御憐愍あらせられ候はゞ私は申迄も無之一門家僕の者共深く朝恩被蒙候事と存参らせ候何卒々々此処よくよく御申入頼参らせ候猶同役衆へも御申伝にて御取計の事幾重にも御願申入参らせ候以上

 幕府の士伴門五郎、本田敏三等はこの切迫せるを見て、大に同志の士を募り、朝廷に哀訴せんと回文を発して招集す、天野八郎等六十七人来り会す、伴、本田等澁澤喜作を訪ふ、坐に尾高惇忠等在り、二十三日また浅草本願寺に会す、同盟する者百余人、彰義隊と称し、澁澤喜作を頭取に、天野八郎を副頭取に、伴、本田、須永某を幹事に選び、身命を投げ打ちて徳川氏の窘辱を一洗して反逆の薩藩を戮滅し、上を以て朝廷を尊奉し下は万民を安堵せしめんと血誓し、輪王寺宮の西上に依り朝廷の処置を待ち、府下を鎮撫し非常を警むるに決し、屯営を上野に置けり。
 二十四日朝廷は伊達慶邦朝臣に朝命を伝ふ。

今度会津本城襲撃被仰付候に付上杉弾正大弼佐竹右京大夫南部美濃守等応援之儀被仰付候間此段相達候事

 二月二日朝命あり。

東征御進軍可被為在候に付大御軍議被仰出候依之去る二十八日将軍宮御帰洛被為在候此段申達候事

 同三日巳半刻天皇二条城太政官代に行幸諸藩に親政の詔を発す。

今度慶喜以下賊徒等江戸城に遁れ益暴威を恣にし四海鼎沸万民塗炭に堕んとするを忍ひ給はず叡断を以て御親政征被仰出候付ては御人選を以て被置大総督候間其旨相心得畿内七道大小藩各軍旅用意可有之候不日軍議御決定可被仰出御旨趣可有之候間御沙汰次第奉命馳参るべく候宜諸軍戮力一同勉励可盡忠戦旨被仰出候事






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

 





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  1. 2012/12/11(火) 18:50:02|
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