いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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六  公武一和について幕府に建議する     『京都守護職始末1 』

 わが公の書籍     そこでわが公は、 輦下の鎮護が職責であることにはちがいないが、目的は公武の一和にある。叡慮は攘夷一つに傾いてしばしば綸命を下されるが、幕府がその実績を挙げられない以上、一和の機会もない。元来、攘夷はなかなか行われることではないから、まず三港以外の通商を拒絶し、しばらく時機を待ってゆるゆると叡慮をひるがえし奉るより方法はないと考え、そのことを幕府に建議した。

不肖の私重き御政事にあずかり、殊に京都守護職を仰せつけられ冥加至極、有難き仕合せに存じ奉り候。これによって万分の一も護国恩に報い奉りたく、日夜苦心し候えども、浅職寡聞の至り、さしたる見込も御坐なく恐れ入り存じ奉り候えども、この節柄と申し、当職まかりあり候間、鄙見の程忌諱を憚らず申し上げ奉り候。方今の形勢、外夷の跳梁日々にはなはだしく、勿体なくも上は叡慮を悩まし奉り、下は人民不折合と成りゆき、深く心配仕り、家来どもへ申しつけ、内外の衆議を聞きとらせ、かつ京師へもつかわし、彼の地の様子も伺わせ候ところ、主上においては鎖国攘夷と御確定あそばされ、したがって京中にはもちろん、関西の列候、諸浪士までも開国の説を相唱え候者は頃日これなき程に承わり候。
右の通り、夷人を嫌い候人情に候ところ、公辺においては、ますます夷人を御叮嚀に御取扱いの御都合より、人気騒々しく種々の変乱も出来仕り候と察せられ候。畢竟、戊午の年の御奏聞もなく調印済を始めとして、摂泉開港御差し許し、御府内の在留、御殿山の造館など、皆もって主上の御本意にあらせられず、御逆鱗もあらせられ、総容の不居合と相成り、殺害等もこれあるわけと愚察仕り候。かつは先年堀田備中守、間部下総守等をはじめ京都につかわされ候ところ【注一】、品々御行違いの儀もこれあるやにて、当時に至り候ては、恐れ多くも関東にては橘詐権謀(けつさけんぼう)をもって京都を御取り扱いあそばされ候とて、追々御信用も御薄くならせされ、外藩等へ御依頼あそばすことと存じ奉り候。将軍様にはもとより御別意あらせられ候儀には御坐なく候えども、まったく御役人方の不取計らいより事起り、公武の御間御一和なきよう相響き、誠にもって恐れ入り候儀、歎かわしき次第と存じ奉り候。このうえ御殿山の夷館【注二】出来、御府内へ常住致し、諸港御開きに相成り候わば、御逆鱗は申すに及ばず、列藩の動揺に相成り、皇国総容の居合、必至と宜しからず、いかようなる異変出来候も計りがたく候間、いずれにも叡慮に応じ、人情に相叶い、御国体も相立ち、君臣御一致の御処置肝要と存じ奉り候。長崎、箱館、横浜の儀はこれまで通り据え置かれ、御殿山の夷館、摂泉の開港【注三】、御府内の留住、遊歩の事など、御英断御拒絶あそばされたく候。尤も、これまで不取計らいを致し候諸役人は、所当仰せつけられ、彼も諸雑費掛り候分は償いあそばされたく候御趣意を、くわしく綸解致し候わば宜しかるべくと存じ奉り候。しかるに、前文の通り主上もっぱら鎖国をおぼしめされ候ところへ、三港差置き候と申すにては叡慮にもとり候ように候えども、長崎は昔年よりの開港場なり、下田開港の儀は主上にも御余儀なしと御聞入れに相成り、かつは宇内の形熟考仕り候ところ、海外万国日々に聞け、往来互市いたし、各々権利を争うの時勢に相成り、皇国のみ鎖国孤立と申すにては、彼の事情を知ってその長所を取るに由なく、攻守の道も充分届きがたく、すでにこれまで往来互市候えばこそ、大鑑、巨砲もでき、海軍の御備えも相立ち、武備充実の助けと相成り候儀顕然に御坐候間、三港はそのまま据え置かれ、条約制度改正致し、万一も我が制度を破り、無礼不敬の儀これあり候節は、すぐさま御打払い相成り候わば、すなわち攘夷の御注意に相叶い、叡慮を安んじ奉り、人心も居合い申すべくと存じ奉り候。これまでは夷人不礼にて驕慢日々に相つのり候えども、さらに御構いこれなく、御国人のみ御取締りきびしきよう世上へは相取れ、まったく御役人方の姑息苟安にして死を恐るるところより、かくは夷人の跋扈を致させ候ものと心得おり候よう見うけられ候。よってこの度、歪曲を綸解いたし候にも、実に決戦の御覚悟あそばされたく候。尤も応接の儀は御国是しかと立たせられ候上に、しかるべく者へ全権御委任仰せつけられ候わば、機に臨み、変に随い、いかようにも処置の道御座あるべく、これすなわち公武御一和の係わるところにして、皇国の盛衰の界、天下治乱の分かれ目と相成り申すべく、至極の御大切の御場合と存じ奉り候。私事守護職仰せつけられ、罷りのぼり候については、御尊崇の御趣意相達し申し候わんでは相成らず、よって深く思し召しこませられ候攘夷の叡慮御遵奉あそばされ候儀、専要と存じ奉り候。
しかるところ、開鎖の儀は至極の重大の事件に御坐候間、来春御上洛までに内外大小名の存じ寄り、銘々御直ちにも御聞取りあそばされ逐一御奏聞のうえ至当のところへ御決定あそばされたく存じ奉り候。さもなく御坐候では、自然守護の任も立ち兼ね候儀と存じ奉り、昼夜苦心仕り、家来どもまで見込を相たずね、決心仕り候儀に御座候。もし御許容なく御坐候わば、容易ならざるこの度の大任相勤むべき見込さらに御坐なく候間、御詫にても申し上げる外御坐なくと、ふかく恐懼し奉り候。
右申し上げ候存意の次第、とくと御覧察、御英断あらせられ候よう、ひとえに
願い奉り候。

但し、本文御英断あそばされ候上は、応接方至極御大切に御座候間、しかるべき人物、身柄にかかわらず格別に御登庸、全権御委任あそばされ、やむをえざるの事件ども真実に諭解せしめ、至極誠実に御処置御坐候わば、黠夷も承服つかまつるべくと存じ奉り候。

一 いよいよもって右の愚意御採用下され候わば、先日仰せ出でられ候武備充実の儀標準御坐なく候では、昇平倫安の情、決戦の覚悟これなく、御趣意貫徹つかまつり候儀計りがたく候。このたび叡慮遵奉いたされ三港の外拒絶については、いかなる異変も計りがたく候間、先日仰せられ聞き置き候武備充実の儀は、すなわち右等のために候条、なおまた御沙汰あらせ候わば、御改革の御趣意もいちじるしく相立ち、御国威もさらに張りつかまつるべき儀と存じ奉り候。以上。(九月)


 時に幕府の諸有司は、こぞって開港に傾いていたこととて、この建議を見るなり、時務に通じない意見としてこれを斤けにかかった。わが公は憤然として反覆論弁したので、ようやく採納することになったものの、ついにこれは実行されずに終わった。
 この時、朝廷では攘夷の断行に急であって、さらに三条中納言実美卿、姉小路左中将公知朝臣を勅使として東下させ、実行を督促されようとした。


 実美卿に会う     これよりさきに、柴太一郎が江戸を発足しようとして、出羽上の山の人金子与三郎に会ったところ、金子が言うには、伊勢に山田大路親彦(御炊大夫)という憂国の士がいるから、君はまず彼と会って相談すれば、上国の形勢がくわしくわかるばかりでなく、君の任務をつくすうえにもすこぶる便宜を得るだろうということで、柴もそれをもっともと思い、江戸からまず伊勢にゆき、山田大路に面会してから、その紹介で松坂の人世古格太郎【注四】に会った。世古は松坂の富豪で、転法輪家(三条家)に信用を得、数年来同家に出入りている。
 柴はその紹介をえて、野村直臣とともに実美卿に謁したところ、実美卿はこのたびの東下りの事を告げ、「従来幕府の勅使をもてなす札がすこぶる簡倣になった。近来ようやく改めるようになったと言うが、先に大原重徳卿東下の時もまだまったく故態を改めないという。今後予の東下についても、幕府の礼遇が備わらない場合には、そのことで争わざるをえまい。そのようなことになったら、幕府の失体はなはだしいということになり、人心の向背に関係してくるであろう。幸い君の主人中将が顕職にあり、敬上の意を体している人ときいている。君らが中将にこのことを話し、しばらく上京の期日をのばし、予の東下を待ち、勅使待遇の礼をあらためて、幕府の敬上の典をあきらかにした方がいい。中将ならばこの事の実行はむずかしいことであるまい。中将の上京遅延の上奏、その他朝廷に関する事々は、予がまた中将のために一臂の労をとってもいい。これまた予にとっては至難なことではない」ということであった。
 これによって、直臣、太一郎は、前後して江戸に帰ってきた。それ以来、わが藩士は転法輪家にときどき出入りして、諸事を談じあうこととなった。
 ある日、太一郎は、さきにわが公が幕府に呈した三港外閉鎖の建議書を、実美卿の覧に供した。それから数日たって、卿が太一郎を召し、汝の主人の建白書を乙夜の御覧(天覧)に供したところ、往来の攘夷を論ずるものは、過激に渉るのでなければ、因遁に失し、一つも適切な議論がなかった。この儀はどうやら中正で、すぐさま実行にうつすべきであると仰せられ、御手許に留め置かれた。ひそかに汝にこのことを知らせておく、とのことであった。わが公が聖明の信任を得られたのは、この建白書が始まりというわけである。
直臣らが東下して、実美卿の旨を話すと、公は大いにこれを然りとして、すなわち幕府に建議して、ことごとく旧格を改正させた。

 再び勅使東下す     やがて十一月、実美卿らは左の勅書をたずさえて東下した【注五】。

攘夷の念は先年来今日に至って絶えず。日夜之を患う。柳営においても格々変革して新政を施し、朕を慰めんとす。怡悦斜ならず。然るに、天下をあげて攘夷一定せざるにおいては、人心の一致も致しがたからんか。かつは、人心不一致により異乱、邦内に起らんことを怖る。早く攘夷を決し、大小名に布告せよ。その策略の如きは武臣の職掌。速やかに衆議を尽し、良策を定め、醜夷を拒絶せよ。これ朕が意(こころ)なり 

     右一紙、別紙一通口代
 
今般、攘夷の議決定これあり、天下に布告とも相成候上は、外夷何時海岸を劫掠し、畿内に蘭入の程も計りがたく候間、禁闕の御守衛厳重に仰せつけられたく思し召され候。然るところ、海国は、それぞれの防禦もこれあり、海岸に引離れ侯諸藩は、救援の手当これあり侯事につき、辺鄙より畿内に警衛差出候には、自然不行届の筋も出来すべく、かつ、自国の兵備手うすと相成り、国力の疲弊にも至るべく候間、京都守護の儀は御親兵とも称すべき護衛の人数を置かれず候では、実に以て宸襟をも安らかならせられず候間、諸藩より身材強幹、忠勇気節の徒を選ばせられ、時勢に随い、旧典を御斟酌に相成り、御親兵とあそばされたく思し召され候。
右親兵を置かせられ候については武器、食料等、これに準じ候間、これまた諸藩へ仰せつけられたく候。況(いわ)んやこれらの儀は制度に相渡り候ことにつき、関東において取計らい、諸藩へ伝達これあり候よう仰せ出されたく候。もっとも即今の急務に候間、早速評定これあるべく御沙汰あらせられ候事。


 実美卿らが江戸に着くと、将軍家は、総裁職松平慶永朝臣をして郊迎させ、入城の日には、将軍みずから玄関に出て迎えるなど、その礼遇がまことに鄭重をきわめ、実美卿らとしても、予想外なほどであったので、実美卿らは、これはみなにわが公の敬上の衷悃から出たところとして、それ以来公武一和のことについて、互いに輔車相依るべきことを約し、十二月七日帰途につかれた。

【注】

【一 …京都につかわされ候ところ】 日米通商条約の勅許をえるため、安政五年二月老中堀田正睦(備中守)が上京、ついで八月老中間部詮勝(下総守)が上京し、朝廷の説得を試みたが、ともに失敗した。

【二 御殿山の夷館】 これまで江戸の列国公使館は、市中の寺院をもってあてていたが、列国は幕府と折衡した結果、品川御殿山に、公使館の本建築をおこなうこととなった。

【三 摂泉の開港】 列国との通商条約の規定により、安政六年(一八五九)六月二日に、横浜、長崎、箱館の三港が開かれたが、さらに新潟は安政六年十二月九日、兵庫は文久二年十一月十二日に開港し、江戸は文久元年十二月二日、大阪は文久二年十一月十二日に開市するときめられていた。このうち兵庫、大阪は京都の近傍であり、朝廷も強くこれに反対していたので、幕府はこれらの開市開港の延期を列国に交渉した。そして文久二年正月、勘定奉行兼外国奉行竹内保徳らの施設をヨーロッパに派遣して、交渉にあたらせた。その結果、江戸、大阪、兵庫、新潟の開市開港を、一八六三年一月一日より起算し五カ年間延期することができた。

【四 世古格太郎】 生家は伊勢松坂の酒造家で、紀州藩の用達をつとめた富家。儒学、国学に通じ、三条実萬の知遇をえ、水戸藩密勅問題に関係し、安政の大獄の時、捕えられ追放の刑をうけた。文久二年大赦をうけ、ふたたび尊攘運動に加わり、三条実美との関係が深かった。

【五 東下した】 薩州藩の島津久光が擁する勅使大原重徳東下が実現すると、次は長州藩、土州藩尊攘派が、より強硬な攘夷の勅旨を伝える勅使派遣の計画をたてた。
この実現されたのが、正使三条実美、副使姉子路公知の東下で、土州藩主山内豊範をしたがえ、攘夷督促と親兵設置の朝旨を幕府に伝えた。幕府は攘夷実行は誓約したが、親兵設置はことわった。

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  1. 2012/10/26(金) 16:24:58|
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