いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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我が公会津に帰る

我が公会津に帰る

 二月十六日我が公は和田倉邸を発し会津に帰る、扈従する者左のごとし。

先備  頭 千葉権助
    甲子十六人


 しかして砲兵隊は千住まで扈従する。
 この時大阪より大野英馬、南摩八之丞、諏訪常吉、肩輿を飛ばして和田倉邸に至る、我が公の国に帰らんとするを聞き走り入りて謁す、我が公行装のまま三人を近く召して京摂および上国の形勢を親問す、三人つまびらかに上言す、我が公いわく、なおつまびらかに藩相等に告げよと、篤く三人を慰労し発程す、諸士涕鳴咽してこれを送る。
 庄内藩酒井忠篤朝臣もまた慶喜公の命により国に帰る、大久保一翁は慶喜公の意を承けて松平定敬朝臣に説いていわく、江戸に謹慎するは不可なり、よろしく僻遠の地に避けて恭順朝裁を待つべしと、これにおいて定敬朝臣は横浜より仏国商船に乗りて新潟に航し、柏崎の封地に移る、従者百人、その他は陸路会津を経て柏崎に至る。
 この時我が藩相梶原平馬、藩士鈴木多門等横浜にてフランス人スネル(弟)に計り、小銃八百挺並びに付属の諸具弾薬器械等を購ひ、また多門、佐瀬八太夫周旋尽力して旧幕府勘定奉行某より金を借りて船載し、スネル(兄)および長岡藩河井継之助等と共にアメリカ汽船に搭し、三月二十六日新潟に上陸す、また一柳幾馬、池上岩次郎、神尾鐡之丞等旧幕府より品川砲台の大砲および弾薬諸器械を借り、旧幕府の順動艦に搭し箱舘に至り、同所砲台の大砲弾薬等を借りて新潟に送る。
 二月十八日より三月朔日に至るまで我が藩江戸常詰の婦女子を漸次会津に還す、一柳幾馬をしてこれを監督せしむ、郡役所の吏員道路駅亭の諸事および貨物運輸を司る、各駅混雑かつ人馬缺乏し諸駅に滞留し、三月ニ十に至りてようやく会津に至るを得たり、また芝邸病院および同邸内傷者は、三月朔日より三日の間に帰国せしめられたり、我が藩小池帯刀、安倍井政治、安倍井壽太郎、山口伊佐美、築城研究の命を受け龍の口門外旧幕府作事方に移る、すでにして西軍来り迫らんとする説ありに、我が藩の兵器乏しきを聞き、帯刀等四人相議して旧幕府に請うてミニーゲベル銃若干挺および付属の諸具弾薬その他品川海砲台の弾薬を借りて会津に送る。
 二月ニ十日朝廷は諸軍従軍の兵士を戒勅す。

今般御親政之儀者先達被仰出候通万民塗炭之苦を被為救度以叡断御決定有之候上は王政復古之為最第一之儀に候間万端慈憐之御趣意貫徹候半ならては忽悖人望自ら兵威緩怠にも至候間不法乱行は勿論聊之雖為失錯堅被立令右等之御趣意篤と相弁至小僕迄厚加教諭心違無之様肝要に候実に今度之儀は重大之事に候間公武之差別更無之候へ共殊更王公以下諸有司之家僕共厳重謹慎無之候ては不相成候自然違背之輩於有之者以政令可被及御沙汰旨に候此段為御心得申入候事

 二月ニ十一日より我が砲兵隊々長山川大蔵以下、小川町陸軍所に於いて仏国教師に従い練兵を演習す。
 この日朝廷松平慶永朝臣を召し、大納言中山忠能卿をもって慶喜公の謝罪書に対し左の命を伝ふ。

慶喜謝罪之状東征大総督を被置候上は右手を経ずしては言上之儀は難被聞召筋に付宜く其順序を以て執奏有之候はゞ思召之上可被仰出候事

 これより先き慶永朝臣は慶喜公の謝罪書を岩倉具視朝臣に提出せしに、具視朝臣はこれを中山、正親町三条、徳大寺等の諸卿に出さしむ、よりて慶永朝臣は謝罪書の必ず採納せらるゝことを信じてこれを慶喜公に報ぜしに、今この命令に接して驚愕し、急使を江戸に馳せてこれを田安大納言に報じ、大総督の本営に就て謝罪書を示すべきことを勤む。
 当時我が藩河原善左衛門は、徳川氏の軍および我が軍大阪を去り江戸に帰るを聞き、若松より馳せて江戸に来る、時に徳川氏の将士慶喜公の東帰を悦ばず胥議していわく、今の計をなす外国の力を籍るに在り、しからずんば輪王寺法親王を奉じてもって天下に号令せん、これあるいは東照公の謀を胎すゆえんなりと、あるいはいわく、先づ亟根を扼しもって列藩に令せんと、善左衛門は我が藩の外島機兵衛等と議していわく、外国の力に頼り仮令これに勝つも天下後世これを何とか言はん、かつその手綱絆を脱する難かるべく、しかして輪王寺法親王を奉ずるは我が国体の許さゞるところにして延元の古逆臣すでにこれを行う者ありしも今再びこれを行うに忍びんや(後奥州の戦に東軍振りはざしは、その原因種々あるべきも統一を欠き諸藩多くは単独に作戦を計画せるは一原因たること疑いなし、日光口に於いては他に比して我が軍振ひ常に攻勢に出で、西軍を苦しめ得たるは東軍の統一せるによる、ゆえに白石に連合軍の本部を置き、法親王を盟主と仰き奉り、諸藩の人材を参謀とし、号令をして一途より出てしむべしと云う論なきにあらざりしも、延元の悪例に陥るを恐れてそのこと行われざりき、これ我が藩士等の尊王心の厚き一証とすべきか)、今日不幸にして朝敵の名を負うも忠邪曲直天下自ら公論あり、このニ策は反て自ら朝敵の名を取るゆえんなり、すでに親政の詔下ると聞く何ぞこれを敵視することを得んや、ただ帰順あるのみと、善左衛門また我が衆に言ていわく、事すでにここに至りては如何ともすべからず、朝敵の名を負い天下の兵を受く豈に勝算あらんや、しかず大総督府に哀訴して罪を謝せんには、しかりといえどもこれをなす死をもってせずんば達するを得ざらん、余第一にこの事に任ぜん、もし意を達するを得ざればすなわち死せん、しかして余に次ぐ者もこのごとく反覆して止まずんば、その至誠阿仁豈に達せざるの理あらんやと、決死の状面に顯る、この時に当りて衆議囂々主戦の論を絶叫してこれを顧みる者なし、あえてこれを主張せば禍立ところに至らんとす、桃澤克之丞密かに善左衛門を諭していわく、今や衆の激動このごとし、何ぞ足下の議論を容れんや、これを敢えてせば禍種を回らさゞらん、しばらく黙して趨勢を見るべしと、善左衛門大息していわく、余深思熟考すといえども国家を保全するの道これを外にしては他に求むべからず、余郷国を出るに臨み大総督に哀訴して死せんと欲し、新たに禮服を製してこれをもたらせり、嗚呼我が国家の亡ぶる日なからんと、これよりまた言はず、後八月ニ十三日西軍若松に迫るの時、善左衛門その子勝太郎と郊外に防戦し父子共に花々しく戦死せり。
 この時に当り旧幕府の諸有司陸海軍の将士等議していわく、一旦兵端を啓ける上は縦令敗るゝも我が精神を貫かざるべからず、陸海共に兵を進むべしと、しかるに爾来形勢一変し会て京摂に在りて要路に当りし閣老等は皆廃せられ、勝安芳、大久保一翁等は新たに採用せられて慶喜公の補佐となれり、我が藩は旧幕人および各藩に交渉して伏見戦争の趣旨を貫かんと欲し、再び兵を進むることを主張す、旧幕府の陸海軍および各藩もまた我が藩の主張を賛成する者ありといえども、慶喜公は伏見の一戦に大勢の不可なるを察する所ありけん、爾来一意恭順謹慎して謝罪の実を表せんとするに至り、準備の策はついに行われずして止む、会々大久保一翁は慶喜公の命を伝えていわく、会津藩の紛骨碎身は未だかつて忘却せず、今分離するは甚だ遺憾なりといえども、西軍の江戸に入るまさに近きにあらんとす、ゆえに会津藩士のこの処に在るは恭順謹慎に害あらんことを恐る、速やかに国に帰らんことを希望すと。
 三月三日我が藩相および練兵演習の輩および諸有司皆漸次に帰り、越えて五日我が藩相西郷頼母は最後に江戸を発して会津に帰る、この時江戸に留まる者左のごとし。

梶原平馬
鈴木多門
佐瀬八太夫
一柳幾馬
池上岩次郎
廣澤富次郎
小池帯刀
安部井政治
安部井壽太郎
山口伊左美
栃木大学
栃木辰次郎
米沢昌平
柿沼勇記
神尾鐡之丞
南寅次郎(のち保)
柳田勝太郎(理記と変名す)
服部武太郎(西東軍司と変名す)
佐川主殿
石黒恒松(のち則賢、上村恒ニと変名す)
内田衛守(工藤と変名す)
水島辨治(のち純)
江上太郎(秋月登之助と変名す)
牧原文吾(松井九郎と変名す)
秋山寅四郎
原直鐡
簗瀬克吉
小池周吾
小出徹之助(のち光照)
齋藤友記


 この頃我が藩の先備甲子勤佐川主殿、
{我が公の京都守護職を命ぜらるゝや、藩士のニ三男以下にして弓馬槍力の四術の免許を有する者、もしくは四術を究めざるも一術に堪能なる者約ニ十五名を選抜し、京都常詰先備と称し扈従せしむ、後人員六十余人となり、その一部を割き一隊を編成せり、これ伏見鳥羽にて奮戦せる佐川官兵衛の別選組なり、また甲子とは諸隊に在る士分を云う}
 同石黒恒松、内田衛守、江上太郎、昌平校の学生米沢昌平、小姓簗瀬克吉、同原直鐡等七人藩庁の諒解を得て脱藩の形式を取り、如何なる手蔓にてか西丸に於いて歩兵指図役並に任ぜられ歩兵第七連隊付を命ぜらる、連隊長は朝比奈一にして歩兵頭米田桂次郎これが副たり、営所は我が藩の和田倉内の旧邸なれども、市中取締を命ぜられたるにより分屯所を呉服橋外堀端の空き商店に設けたり、我が藩の小姓小池周吾姓名を変じ滝川右京と称し、幕府の脱走兵五六十名を率いて船橋、八幡辺りを徘徊するの報あり、佐川主殿思えらく各自に小分立するは策の得たるものにあらず、協力一団たるにしかずと、滝川が船橋に在るを聞き、三月ニ十一日石黒と共に至りて滝川に面会を求めたるも来らず、下士四条その外一名来るにより、佐川小分立の不可なるを説き、速やかに帰府すべきを説けども滝川固く取って聞かずついに要領を得ず、翌三月ニ十ニ日船にて帰府し、夕刻日本橋西河岸に上陸し某料理屋にて晩餐を喫す、その時暴漢八九名あり、店員を階段より突き落とす等乱暴を極むるにより、職責上傍観する能はずこれを詰責したるに、彼らついに抜刀したるも佐川に小傷を負わせて逃げ去れり、これ幕府騎兵隊の者の由なるが帰路第七連隊の分屯所に立ち寄り、西河岸の某料理店に乱暴者ある由を訴えたるにより、分屯所より十四五名一団となりて佐川等の至る室に来り、ただちに抜刀せしにより佐川、石黒はよんどころなく応戦せしが佐川、石黒共に重傷を負う、しかして来襲せし者は逃げ去れり、右十四五名の人々は佐川等と同等の人々なれど、佐川等勤務日なお浅く互いに面貌を知らず且つ夜中の事にて味方と戦をなせしなり、争闘猶了らざるに強敵にして苦戦中の由を報ずる者あるにより、江上太郎等数名至りたるが初めて佐川、石黒なるを知り、百方手当したるも佐川はついに絶命せり、佐川の遺骸は第七連隊士総員により盛大なる式を行い下谷広徳寺に葬れり、石黒は加療して傷癒え船にて岩城領江綱に上陸し八月十九日若松に着せりと云う、第七連隊に入りたる我が藩士はその首領とも目すべき佐川を失い、石黒は負傷して隊を去り、江上は伝習隊に入り、ついに止りて東軍に投じたるは米沢、内田、牧原、原、簗瀬のみなりき、しかして米沢は野州安塚において戦死せり。
 三月八日上杉齊憲朝臣、重臣堀尾保助を京都に馳せしめ建白書を上る。

夫神州之皇統一系万古不易東海表に独立して不受外侮者君臣一和人心固結間隙の可乗なきが故に御座候癸丑以来洋艦来湊要港に拠り我虚実を察し猶覬覦を生じ駸々日に迫る今や東征北伐兵連禍結列藩奔命に疲れ万民徴発に苦候折柄彼乗虚窺間鯨鯢の欲を逞するやも難計千古無窮之金甌万一尺寸土壌も彼に蹂躙被致候はゞ仮令関東を汚潴にし奥羽を席巻するの御鴻業被為立候も上被為対在天列聖之尊霊如何可被為在哉臣齊憲痛心苦慮此事に御座候況や玉体九重を離れ遠く大旆を進められ候等の義に至り候ては彌以不堪驚愕日夜悲歎罷在候側聞徳川慶喜寛永寺に蟄居席稿待罪恐懼恭順之外無他事会津容保亦竄国侮悟謹慎罷在哉の由に候へは皇威既に遠邇に輝き朝憲凛然相立候仰願くは皇運隆興百度一新の此際益山海の御度量を広大に被遊神武不殺の聖徳を垂れ共に之を寛典に処し其旨社を存せられ速に大旆を返し干戈を戢め更始一新以安反側君臣一和以防外侮候様仕り度奉存候臣齋憲遐方に僻在仕事情も不察御成算も御座候内彼是申上候義千万不堪恐縮候へ共皇国御大事之際と存込徴衷具に呈露仕候条御諒察の程伏て奉仰望候誠恐々々屯首謹言

齋憲朝臣は更に使節を秋田、南部、津軽、山県、上ノ山、二本松、福島、相馬等に遣わし皇国のため討伐の不可なるを諌め、万民の疾苦を救わんことを謀る、仙台、米沢両藩の使節前後京に入れども顧みる者なかりき。
 三月十日これより先き三月ニ日江戸城は大目付梅沢孫太郎を使節とした東山道総督府に歎願したるに、越えて七日東山道総督府参謀より孫太郎に指令あり。

徳川慶喜家来共歎願書三通被致伝達及被露候処右は早速朝廷へ御差出可有之乍法去此度先鋒総督之勅命を蒙り御発向に付今更私に進軍を止め候事は難被遊何分大総督宮及東海北陸両道之総督共於江戸表御会議之上可被仰渡候尤慶喜一身之進退は朝命を被為伺候上に無之候ては私之取計難相成候右之趣慶喜家来共へ可被申渡旨御沙汰候間御達申入候
  東山道総督府参謀


 孫太郎帰り報ず、よりてこの日川勝備後守は旗下士に諭告し、慶喜恭順の趣意を守り心得違いの事なからしめ、また十三日に至り重ねて旗下諸士を戒むる所ありたり。
 三月十三日西郷吉之助江戸に入り高輪なる薩邸に館す、翌日大久保一翁、勝安芳は慶喜公の謝罪書をもたらし、江戸高輪の薩州邸に大総督参謀西郷吉之助に就てその条款を陳ぶ。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1
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  1. 2012/12/14(金) 20:03:39|
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