いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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江戸の開城

江戸の開城

 慶喜公すでに恭順謹慎し、旗下の士もまた屏居し甚だしきは官守ある者もまた登城せざるに至る、けだし太平遊惰風をなして気概なきによれり、しかして西軍まさに江戸に迫らんとするの風聞あり、市民皆荷擔して難を避け騒擾特に甚だし、慷漑の志士相議していわく、伏見のこと薩長が我が先驅を遮りて先づ砲撃す、前将軍豈に錦旗に抗するの心あらんや、しかるに羅織誣罔して朝敵の汚名を負わしむるものは薩長の姦策に出づ、仮令前将軍は恭順して自ら責むるも国家を如何せん、相率いて難に殉ぜざるべからずと、切歯して剣を撫する者多し、市民の義に勇む者もまたふるっていわく、祖先以来徳川氏の恩澤に浴する事ここに三百年、吾等戮力して防御の策を講じ、西軍をして品川以北一歩も踏ましむべからず、もし利あらずんば死あるのみと、初め我が藩小池帯刀、安部政治、安倍井壽太郎、山口伊左美等は徳川氏の命により旗下の士と共に江戸城の要衝に胸壁を築きて防備を修む、時に勝安芳陸軍総裁にして松平太郎これに副たり、日々総裁より命を下していわく、今や前将軍恭順謹慎すゆえに防備の事は深く注意して人目を惹くべからずと、夜間に至ればまた命ありいわく、前将軍恭順す、速やかに防備を完成すべしと、徹宵事に従い防備全くなる、西城三角矢来に胸壁を築き、大砲二門を装置し、溝を穿ち掛け橋を架し、また小銃の部署を定め、馬場先門に大砲三門を装置し、その他の要衝もまたこのごとし、しかして兵杖弾薬糧餉等山積す、西軍百万来り攻むるも憂うるに足らずとなし、衆皆踴躍す、けだし幕士の計□は西軍の使節と桜田門において応接し、その半ばに火を揚げて暗号をなし、四方より相呼応して大砲を発射して攻撃するにありと云う、一日安部井壽太郎本営に至る、衆皆動揺紛擾して名状すべからず、あるいは憤慨し声を放って泣く者あり、これを江原鑄三郎に質するにいわく、勝安芳守反応し参謀西郷吉之助と高輪の薩邸に会し、謝罪開城に決す、ゆえに積日の苦心皆水泡に帰したり、松平太郎はこれを憤慨し前将軍の前に出て自刃せんとしたるも能はざりきと、その他の幕士等皆異口同音にいう、事すでにこれに至りては如何ともなすべからず、実に鉄砲に対して恥づべきなり、願わくはこれを会津に送りて戦用に供せしめよと、これにおいて江戸城は一戦せずして西軍の有となる、志士皆憤慨して相率いてまさに江戸を去らんとす。
 四月四日勅使先鋒総督少将橋本実梁、副総督中納言柳原前光西城に入る、徳川の臣屬道を掃ひて供張し、盛服してこれを迎ふ、勅使、中納言徳川慶頼に詔を宣す。

徳川慶喜欺罔天朝の末終に不可言の所業に至候段深被為悩宸襟依之御親征海陸諸道進軍の処侮悟謹慎無ニ念の趣被聞食被為垂皇愍の余り別紙の通り被仰出候条謹て御請可有之候就ては本月十一日を期辰とし各件処置可致様御沙汰の事

右期日既に寛宥の御沙汰に候上は更に歎願哀訴等は断然不被聞食恩威両立確乎拔の叡慮に候速に拝膺不可有異議者也


第一条 慶喜去十ニ月以来奉煩天朝剰へ兵力を以て犯皇都連日錦旗に発砲し重罪たるにより為追討官軍被差向候処段々真実恭順謹慎の意を表し謝罪申出候に付ては祖先以来ニ百余年治国の功業殊に水戸譄大納言積年の志業不浅旁以特別深厚の思召被為在左の条件実効相立候上は被処寛典徳川家名被立下慶喜死罪一等被宥候間水戸表へ退き謹慎可罷在事

第二条 城明渡し尾州藩へ可相渡事

第三条 軍艦鉄砲引渡可申追て相当可差返事

第四条 城内住居の家臣御城外へ引退謹慎可罷在の事

第五条 慶喜叛謀相助候者重罪たるに依り可被処厳科の処格別の寛典を以て死一等可被宥候間相当の処置致し可言上の事

但万石以上以朝裁而処置被為在候事


 四月九日彰義隊長小田井蔵太東叡山に来り覚王院に請うていわく、前将軍不日水戸に赴かれんとす、隊士従はんことを請うも聴かされず、願わくは東叡山に在りて輪王寺宮を護らんと、覚王院いわく、法親王はすでにこれ桑門鷦の身なり、何ぞ兵の御衛を要せんや、止むなくんば宝器を護らんのみと、これより先きすでに江戸城を献ず、ゆえに紅葉山霊廟の木主および城中の名器は移して本山に在り、この日覚王院、徳川慶頼を見てこれを謀る、慶頼これを可とす、即日彰義隊に命じて宝器を御衛せしむ。
 四月十一日大鳥圭介等慷漑の士相率いて東北に走る。
 四月ニ十五日太政官弁事より在京諸侯並びに諸藩貢士に伝えて徳川継嗣秩禄の事を下問す。

徳川慶喜段々侮悟恭順之趣愈謝罪之実効相立候は慶喜之処分且家名被下置候に付相続人並秩禄高之儀衆議公論を執て御裁決被遊度思召にて議事有之候間明後ニ十七日巳刻迄に右見込之儀封書に致し重臣を以太政官代へ可差出様被仰出候事

 しかるに諸藩貢士の提出せる意見書によるに、継嗣は望を尾張、紀伊、越前に屬し、秩禄は三百万石以下に擬せしもの多かりきという。
 これより先き四月ニ十一日、大総督熾仁親王江戸城に入り給うや、そのニ十七日徳川茂栄卿は書を大総督府に上りて徳川氏の家臣切迫の情を述ぶ。
 これより先き伏見宮邦家親王書を輪王寺宮法親王に送り朝覲を勧められしが、ニ十八日また邦家親王等大総督府および徳川慶頼に告げてついに閏四月十九日をもって輪王寺宮法親王朝覲発程の期となす、これをもって都下騒然たり、初め法親王の駿府より帰るや市民相言ていわく、恒例によりて法親王四月をもって日光山に赴かば、恐らくは都下灰燼とならんと、徳川慶頼深くこれを憂へ法親王に請うてこれを止む、法親王すなわち日光山の代理をもって祭典を修めしめ、都下ようやく安静なるを得たりしに、今にわかに朝観を聞きてまた驚愕す、越えて閏四月十一日法親王ついに朝観を止め、書を京師および大総督府に致していわく、法親王まさに朝観せんとする日あり、しかるに都下騒然農商業を廃す、まさに今王政一新三道各鎮撫使を下し、士民を懐柔するに当り、法親王の行このごとくならば恐らくは朝旨に戻らん、請う鎮静を待て後に発せんと、しかして法親王この後ついに出でず。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/15(土) 19:05:14|
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