いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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輪王寺宮令旨を会津に賜ふ

輪王寺宮令旨を会津に賜ふ

 閏四月輪王寺宮法親王は密使を会津に発して、令旨を我が公および喜徳公に賜ふ。

客冬来、四藩兇賊等、欺罔 幼主、威逼延臣、違 先帝遺訓、而黜摂関幕府、背 桓武嘉謨、而毀神祠佛堂、可之免、手詔守護、誣 以朝敵名、興矯 命師、蹂躙蒼生、遂俾 幼主大不孝於 先帝、大不仁於百姓、暴逆奸詐、開闢以降所未曾有者有也、故今以子儀光弼之任、囑之貴藩、宜建大義之旗、以正安史天地不容之罪、上解 幼主之憂悩、下濟宗家之危急、万姓之倒懸矣、徒勉哉、天下所視、順逆已明、四民所望、雲霓爰新、勝算固不容疑者、輪王寺一品大王釣命執達如件
  慶応四年戊辰後四月
 大覚王院大僧都 義観華押
 海龍王院大僧都 堯忍華押

松平参議宰相殿
松平若狭守殿


 これに対し我が藩の主従感銘せしも道路閉塞せしにより奉答せざりき。
 同ニ十六日これより先き我が藩廣澤安任江戸に駐まりて君冤を雪がんと欲す、二月我が公の猶江戸に在るや、輪王寺宮親王およびニ十余諸侯によりて疏を上りて罪を朝廷に謝し、かつ王師に抗するにあらざるの意を明らかにす、この時に当りて薩長の威方に盛んにして、諸侯多くこれを憚る、ゆえにその疏一も朝に達するものなし、安任言へらくこれ我が公の至誠を没するものなり、必ず一たびこれを達してもって大義を述べんと、よりて大久保一翁、勝安芳を介して参謀西郷吉之助に説かんことを求む、二人安任の為にこれを吉之助に謀る、安芳また薩人益満休之助(勝安芳が門人なり)をしてこれを促さしむ、しかるに徳川氏のこと未だ決せず、朝廷いまだこの事に遑あらず、休之助なお斡旋怠らず、参謀海江田武治(信義、薩人、安任会て京師においてこれと交る)の語を安任に伝ふ、その辞至って懇切なり、これによりて我が公哀訴の疏を上るを得たり、けだしニ十余疏中達するを得たるもの只これあるのみ、安任更に休之助に托するに吉之助との会期をもってしたるもついに会見するに及ばず、この夕安任営中に囚われ、浜松藩屯所に置かる、ニ十八日銃手一小隊を発して、檻輿の前後を護り糺問所の獄に下さる(時に糺問所を、我が和田倉の旧邸に設けて獄を置く)、安任すなわち詩を賦して懐を述ぶ。

一日来投堅鎖中、無辜有罪付蒼空、丈夫名節重於死、任汝縦横論此躬

 同ニ十七日議政官は書を大総督府に致して輪王寺法親王の上京を促す、ニ十九日江戸有司は陸軍局に諭して兵士等の彰義隊に加わるを禁ず。
 この日大総督府は徳川亀之助(田安)を城中に召す、亀之助病あり徳川茂栄(一橋)代わって城に登る、よりて左の勅旨を伝ふ。
 
慶喜伏罪之上は徳川家名相続之儀祖宗以来之功労を被思食格別之叡慮を以て田安亀之助へ被仰出候事

但城地禄高の儀は追而可被仰出候事


 時に西軍はしばしば東台を攻撃せんと欲すれども兵寡きをもって果たさず、参謀大村益次郎策を尽くしまさに戦を開かんとす、大総督府さらに徳川亀之助へ命を伝え、上野山内なる徳川氏の霊位重器等を取片づけしむ、この頃伴門五郎、本田敏三郎、彰義隊の人々血気にはやり戦端を開くことを憂へ、覚王院に説きて鎮静謹慎せしめんとせしに、覚王院がいわく、兄等憂ふることなかれ、幕府の挽回は予が手裏に存すと、また転じて竹林坊に説きて隊兵を日光山に移さんことを勧めたるに、竹林坊はこれに反対し、幕府忠義の士は宗廟を守衛して徳川家輿廃の朝旨を待つ、あえて官軍に抗するにあらず、いわんや輪王寺宮ここに在りみだりに攻撃すべきならねば、万一危難あらば我これを防ぐに何かあらん、聞く奥羽諸侯同盟を謀ると、その大挙して来る遠きにあらざるべしとて皆聴かざりしと云う。
 かくて西軍は五月十五日をもって東叡山進撃の部署を定む、薩州、熊本、因州は湯島よりし、長州、佐賀、久留米、大村、佐土原の兵は本郷よりし、肥前、久留米の別隊は富山邸に向い、岡山、安濃津、佐土原、尾州の一隊は駒込の水戸邸に向かう、この時に当り彰義隊の東台に在る者一千余人、これを付属せる諸隊は純忠隊三百余人、遊撃隊百余人、歩兵八連隊、猶輿隊三百余人、旭隊(神奈川兵)百五十人、臥龍隊三百余人、精忠隊、貫義隊、信意隊(会津脱藩士)、神木隊(高田脱藩士)八十余人、浩気隊(小浜脱藩士)三十余人、水心隊(結城脱藩士)、卍字隊(関宿脱藩士)ニ十余人、松石隊(明石脱藩士)三十余人、高勝隊(高崎脱藩士)等無慮二千余人、にして会津庄内の諸藩遙かに声援をなし勢威大にふるう。
 薄暮小田井蔵太、仙台藩士小松某と共に覚王院を見て仙台中将に法親王の令旨を賜わらんことを請う、時に彰義隊士報じていわく、今夜四更西兵本山を囲むと、時に栃木辰次郎、大塚某も坐に在り躍然満を引いていわく、快なる哉と献酬して三更に至る、半夜小田井、法親王の密旨を奉じ囲を脱して奥州に使す、四使服部筑前守、河村某、岡某、馬を馳せて来り覚王院を見ていわく、事すでに急なり、田安公(徳川慶頼)甚だ憂慮す、請う学頭ニ執当を大総督府に遣わしてこれを救解せよと、覚王院いわく、田安公等皆彼らの術中に在りて自ら悟らざるを知るといえども、しばらく務めてこれに従うべしと、まさに学頭本覚院をして大総督府に赴かしめんとしたるに砲声すでに震う、三士すなわち帰る。

{上野に山門九箇あり、南に在りて正門とも云うべきは黒門と御成門にて、御成門を平常使用せざるは勿論なり、この二門は歩兵、万事二隊これを守る、山王台の下に西向せる門は南より東部の寺中に通ずるの門にしてこれを新黒門と云う、東方に車阪、屏風阪の二門ありて東に面す、また北方に通ずる阪本門(阪下門とも云う)あり、以上の四門の守備は純忠、精忠、遊撃の三隊これに当る、別に一隊を慶雲寺養王院に屯せしむ、西方に向い穴稲荷門あり、神木、浩気の二隊これを守り、また清水門、谷中門あり、この二門は歩兵、万事、旭、松石諸隊これを守る。}






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/16(日) 13:01:27|
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