いがぐり史料館

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上野彰義隊の戦

上野彰義隊の戦

 十五日昧爽西軍大風雨に乗じ四面来り攻む、初め東軍の東台に在る者二千余人なりしが、事倉卒に起るをもってたまたも外出したる者は途塞がりて帰る能はず、また怯懦なる者は遁れて見兵一千余人も過ぎず、急に令を諸隊に伝えて各その陣地を守らしむ、薩州、熊本の兵呼騒して広小路より進みて南門に迫る、歩兵隊銃を叢めて一斉に射撃す、すこぶる殺傷多く西兵辟易す、会々因州兵湯島台に在る者火を喜見院に縦つ、不忍池の南に沿うて広小路に至り二藩の兵と合して攻撃す、山王台の彰義隊大砲を発し俯瞮してこれを撃つ、頃らくして安濃津兵下谷より進む、東台山下の旗亭により簾に潜みて狙撃す、彰義隊撃てこれをしりぞく、市民の密かに来りて台兵に投じ戦を助くる者もまた多し、長州、岡山、大村、佐土原、安濃津、尾州の兵本郷より来り先つ彰義隊の根津社に屯する者を撃ち、突進して三崎町に至る、この地岡陵高低道路狭隘加ふるに霖潦溢れ□跙進む能はず、彰義隊高きにより縦撃して北ぐるを追い薮下に至り、伏兵に遇うて潰ゆ、根津の南に富山、大聖寺の藩邸あり、水を隔てゝ東台と相対す、岡山、柳河、佐土原、尾州の兵これにより遙に臼砲を発し、また一隊を遣わして舟を不忍池に浮かべ、来りて穴稲荷門に迫る、彰義隊善く拒く、徳島、薩州、岡山、新発田、安濃津、彦根の兵来りて東門を攻む、彰義隊最も寡し啓運寺の兵邀撃してこれを走らせ逃くるを追うて徒町に至る、西兵反戦す、台兵且つ戦い且つ退く、養王院の兵出てゝこれを援け来撃して再びこれを走らす、この時に当り西兵東西南の諸門に吶喊す、彰義隊の奮闘一、百に当らざるなし、戦晨より午におよび勝敗いまだ決せず、南門の戦最も烈しく、両軍の吶喊砲声百千の雷霆一時に落下し来るが如く斃るゝ者甚だ多し、老樹の枝は大砲の破砕する所となり、音響を発して墜落し、砲弾に粉韲せられたる肉片は飛散し、樹幹に著いて血痕淋漓、その光景惨澹を極む、天野八郎等衆を督して四斤砲を発射せしむ、会々人あり大に呼んでいわく、今し方会津の藩士数十人敵中突撃せんとす、しばらく発砲を止よ、しからずんば我が軍相撃つの恐れありと、台兵少しく躊躇す、彼の兵これに乗じたちまち彰義隊に向かって猛撃す、衆驚きて動揺す、すでにして西兵勢に乗じてまさに南門を破らんとす、彰義隊撃って安濃津の兵を走らす、しかして薩州、佐賀、因州の兵代わりて進み攻撃甚だ急なり、台兵死傷相踵き後継なし、先つ破れ、西軍潮のごとくに来り迫り勢最も猖獗なり、時に天野八郎は鞍上に直立し大声衆を叱咤して防戦すといえども、諸門ついに敗る、これにおいて西兵三面均しく入り火を伽藍に縦つ、火、吉祥閣に及びしかして西兵充塞してまた防ぐべからず、彰義隊ついに北方の囲を衝いて潰走す、初め彰義隊皆勇をたのみて敵を軽んじもって意に介せず、満山の将士眼中西軍なし、かつ覚王院義観は得易ならざる才物なりしも、元来長袖者流にして用兵の道に暗く、衆心を収纜するの術なく、その幕下の諸隊のごとき陽に彰義隊本部の節度に従うといえども、各自ら用ひて号令一に出てず、坐して敵を待つこれその敗因の主なる一なり、我が藩野口留三郎等これに死す、諸兵の戦没したる者ニ百三十六人、死屍累積す、しかれども西軍憚りてあえてこれを歛むる者なし、箕輪園通寺の僧佛磨憤然としていわく、平等衆生を視るは吾が道なりと、すなわち官に請うて屍を集め山王台に荼毘し遺骨を園通寺に移して厚くこれを葬り、その残灰を台隅に埋む、彰義隊戦死之墓すなわちこれなり、爾後来り弔う者相踵き香花常に絶えず。
 同ニ十五日朝廷は徳川亀之助を駿府に封し七十万石を賜い、一橋および田安の両家を藩屏の列に加えらる。

駿河国府中之城主に被仰付領地高七十万石下賜候旨被仰出候事

但駿河国一園其余は遠江陸奥於両国下賜候事


 これより先き東台敗るゝの日、執当坊官等皆法親王の宮殿に至る、初め覚王院等議していわく、もし戦端を開くに至らば覚王院は本坊に留まり竹林坊光映は法親王を奉じて乱を避くべしと、この日法親王は朝餐を終り等覚院に移る、淨門院邦仙、常応院守慶従う、黒門の戦敗ると聞き竹林坊法親王を奉じて乱を三河島に避く、龍王院および諸臣兵士等馳せて従う、竹林坊諭していわく、従者多きは不可なりと、衆皆これを然りとし龍王院その他の諸臣は涕泣して別れ、竹林坊は法親王を奉じて上尾久村の渡頭に至り、従者実を里人に告ぐ、里人悲泣し夜密かに小舟をもってこれを渡す、竹林坊は法親王を奉じて下尾久村に至りわずかに一農家に潜匿す、覚王院、法親王を尋ねてこの処に来る、竹林坊いわく、人多ければ危うしと、覚王院すなわち去る、十六日法親王は浅草新堀東光院に移る、十七日市ヶ谷自證院に移る、この日自證院亮栄は法親王の行く所を尋ね、たまたま法親王の黒き麻の法衣を著け輪袈裟を掛け草履を穿ち笠をかぶり悄然として来り給うに逢う、従う者は竹林坊と疋田二郎とのみ、自證院涕泣してこれを迎ふ、淨門院、常応院もまた至る、淨門院等は日々市中近郊の情況を探れり、この時に当り西軍諸藩の兵等法親王を追跡し、薩長人のごときは法親王の潜匿し給いし民家に至り槍をもって天井を突きて暴行をなすに至る、また交付して法親王を誣ふるに叛を謀るをもってし、賞を懸けて物色すること最も急なり。
 五月二十三日自證院は徳川氏の臣羽倉鋼三郎をして榎本武揚に囑せしめ、法親王を奥州に赴かしめんとす、武揚いわく、法親王固より異図あるに非ず、ただ陳謝あらんのみと、自證院いわく、実に然り、然りといえども薩長人等法親王を憎むこと甚だし、恐らくは不足の害あらんと、武揚ついにこれを諾す、武揚法親王の乗艦に臨み白うしていわく、殿下もし錦旗を建つるがごとき事あらば請う、この行を辞せんと、法親王いわく、余すでに道に入る豈に世に望みあらんや、ただ上は天皇を安んじ下は万生を救いもって吾が道を維持せんと欲するのみと、すなわち誓書を武揚に賜う。
 同二十五日宮は医生のごとき御扮装にて自證院を御立あり、従者は淨門院邦仙、常応院守慶、鈴木安芸守、麻生生監、関右京、安藤直記等なり、鉄砲衆より上船品川海碇泊の長鯨艦に御転乗あり、二十八日平潟に御上陸ありて和泉寺に宿し給い、岩城平を御発しの後会米の兵途上を護し参らせて、六月六日会津へ御着あり若松城へ入り給いけり。
 五月十二日徳川茂栄卿上書して我が公並びに桑名侯の為に謝罪す。

臣茂栄誠恐誠懼謹で奉歎願候茂栄愚弟松平肥後松平越中年来慶喜屬下に罷在就中京摂間不容易事件之砌も慶喜同様不束之挙動有之恐多も奉悩宸襟候場合に陥り候段孰れも深く前非後侮仕今更一言之申上方無御座只管奉恐入候外他事無御座候依之不一方厳重謹慎罷在奉待天裁候趣承及申候抑京摂間之件臣茂栄に於て顛末之事情は更に相弁不申儀に付妄に傍観を以て奉申上候は重々恐入候得共右同人共儀は元来養子之身分家政向心底に不任儀も有之辺より遂に家来共統御之道を失し鎮撫方行届兼候処より奉觸逆鱗候段奉恐入候へ共骨肉之間より愚案仕候へは畢竟短才浅学之所致と被存実憫然之至にも御座候間縦令必誅不赦之罪状御座候共同人共前件之性質胸中一物も無御座候は厚御明鑒被成下抂て出格寛大之御処置被仰出候はゞ当人共に於て実以て再造之御仁徳徹骨銘肝之至不奉堪朝恩永く感戴可仕候は申上候迄も無御座右は乍恐御承知被為在候通臣茂栄骨肉之間柄にも御座候へば天性之私情難相禁嫌疑之場合相忘奉医冐瀆厳威候何卒洪大之御垂憐を以朝廷向幾重にも御取成右鄙願之趣御奏上被成下候様仕り度不奉堪伏願懇禱之至に候臣茂栄誠恐誠惶頓首百拝

 同ニ十七日右大臣三条実美勅使として静寛院宮に至り左の宸襟を賜う。

徳川家名相続以下夫々寛典相施候間御安心可被遊候尤御身上之義案労致候辺三条へ委細申含置候尚又御帰洛否之義御趣意承り度候

 五月ニ十九日徳川茂栄卿および徳川慶頼卿連署して書を朝廷に上り、輪王寺法親王の為に哀願す。
 東叡山の衆侶諸臣もまた書を示して哀訴する所あり。
 これにおいて関東平定したれば、七月十七日詔して江戸を改称して東京と言い、鎮台を廃して鎮将府を置き、東国の事務を総裁し、また東京府知事を置き府内の事務を掌らししむ、尋て徳川亀之助の歎願により慶喜の駿府に移ることを許す。
 この日大納言久我通久卿を東北遊撃軍将となし、出羽に赴きて鎮撫総督九条道孝卿を援けしむ。
 これより先き奥羽諸藩の同盟成り、幕府並びに会桑ニ藩の兵と合して西軍と相争い、また奥羽北越同盟軍政総督の名をもって討薩の檄文を発するに至りしかば、朝廷八月四日をもって、詔して奥羽の士民に諭し大義を弁じて自新せしめらる。

朝綱一たび弛みしより朝権久しく武門に委す、今朕祖宗の威霊に頼り、新に皇統を紹ぎ、大政古に復す、是全く大義名分の存する処にして、天下人心の帰向する所以なり、嚮に徳川慶喜政権を還す、亦自然の勢、況や近時宇内の形勢日に開け月に盛なり、此際に当りて政権一途、人心一定するに非ざれば、何を以て国体を持し、記綱を振はんや、玆に於て大に政法を一新し、公卿列藩及西方の士と輿に広く会議を輿し、万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所に非ざればなり、然るに奥羽一隅未だ皇化に服せず、妄に陸梁し、禍を地方に延く、朕甚だこれを憂う、夫四海之内孰か朕の赤子にあらざる、率土之浜亦朕の一家なり、朕衆民に於て何ぞ四隅の別をし、敢て外視する事あらんや、惟朕の政体を妨け、朕の生民を害す、故に止む負えず五畿七道の兵を降し、以て基本逞を正す、顧ふに奥羽一隅の衆悉く乖乱混迷せんや、其間必ず大義を明にし、国体を弁する者あらん、或は其力及ばず、今日に至る、かくの如き者宜く此機を失はず、速に其方向を定め、以て其素心を表せば、朕親しく撰ぶ所あらん、縦令其党類と雖も、其罪を侮悟し改心服帰せば、朕豈これを隔視せんや、必す処するに至当の典を以てせん、玉石相混じ、薰蕕共に同うするは忍びざる所なり、汝衆庶宜しく此意を体認し、一時の誤りに因て千載の辱を遣すことなかれ






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1
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  1. 2012/12/16(日) 20:34:00|
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