いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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武川信臣の死

武川信臣の死

 同月九日武川信臣刑せらる、信臣通称を三彦と称す、我が藩士内藤可隠の第三子なり、人となり温厚にして気節あり、最も国雅を善くす、この歳五月十五日彰義隊に属し変名して武川兵部と称し、信意隊長となり東台に戦う、後姓名を変じ他藩を称して都下に潜匿し、南保壽、桑名藩士川村兼四郎等と謀り、再び兵を集め部署略々定まり、まさに東奥に赴かんとす、一日信臣二人と共に佐々木源四郎(元我が藩士、出てゝ兄只三郎の後を承け幕府に仕ふ)が家に会す、たまたま因州人数十名闖入す、主人先つ出でゝその故を問へばたちたまち銃を発してこれを倒す、三人樓上に在り変を聞き下りくれば主人すでに死す、三人もまた捕えられ因州邸に幽せらる。
 信臣の彰義隊に在るや、その二兄内藤介右衛門、梶原平馬、藩相たるのゆえをもって推して藩相と称せられ、信臣もまた自ら兵部と称しすこぶる名望を収む、けだし一時の権略に出てしなり、これにいたりて因州人信臣等を疑い、一奴を拉し来りてこれを質す、奴信臣の我が藩人たるを証す、これより先き伏見の敗後廣澤安任紀州に赴くや、徒に一卒の膝を傷け蹣跚として歩するに遇う、安任その気力なお壮なるを見、行々語り心にこれを憐れみ囊銭を輿ふ、彼深くこれを感謝す、これは旧幕府某隊の卒名は宗兵衛傷けるを以て後れ来るなり、後安任、信臣と会合し語次これに及べり、信臣等の兵を集むるや遂にこれに従いてすこぶる用を弁ぜり、彰義隊敗るゝにおよび彼反覆して因州の兵に属し、これが先導をなし、また信臣等を証するに至れり。
 七月十日信臣因州邸より旧会津藩邸なる糺問局の獄に移さる、時に安任同獄に在り、安任の室は信臣と隣す、よりて起きてこれを伺い相語ることを得たり、安任戯れていわく、子の捕えらるゝ余輿りて力ありと、信臣莞爾としていわく、然りと、保壽、兼四郎先つ免され、安任と信臣となお残さる、すなわち相語ていわく、地下共に行くの友あり、また可ならずやと、信臣の訊鞠せらるゝや、薩長の暴横を論ずること甚だ痛烈なり、吏これを憎み稜木に坐せしめ大石を膝上に載せ層々累積し殆んど身に等しからんとす、骨砕け肉裂け流血淋漓たり、信臣神色自若として国雅を詠じていわく、

君と親の重きめくみにくらふれは
 千引の石の責はものかは


 と遂に屈せずして斬らる(信臣の斬首場は異説あり)、時に年ニ十四、後三日を経て赦令天下に布き、皆死を減ぜらるゝや時人信臣の為にこれを惜めり、赦令に先ちて斬に処せしは、けだし薩長有司の私に出つと云う、信臣因州邸に在りし時すでに自ら死を期し国雅を詠じて扇に書し、以て人に輿へその意を表せり。

暫し世に赤き心を見すれとも
 ちるにはもろき風の紅葉


 信臣刑せらるゝ後、我が国産方用達中島屋忠次郎と云う者、信臣の遺骸を収めて小塚原回向院に葬り、墓碣を建て辞世の国雅を刻すと云う。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/18(火) 16:32:02|
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