いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十五  馬揃の天覧     『京都守護職始末1』

 公卿砲声を厭う     二十四日、伝奏衆からわが公に、きたる二十八日、建春門前で馬揃(軍隊操練)をして天覧に供するように、ただし、雨天ならば順延せよとの勅命が伝えられた。
 わが公は、そこでまず、練兵の次第書を奉った。なかに、大小砲空発のくだりがあったが、諸公卿は評議して、これを許可しない。わが公は、砲があるのに発砲しなければ、操練がはなはだふるわないものになる、二、三発でも発することにしてはと提言すると、諸公卿の言い条では、煙硝の臭気や砲声で禁裏近くをみだすのは憚り多いとのことで、あえて肯(がえ)んじない。しかし、強いて論じてはじめて許可を得たが、すでに親征を主張していながら、煙硝の臭いや砲声を厭(いと)うなどと公言して慚(は)じない。わが君臣はただ茫然とするのみであった。





 整然たる操練     すでに二十八日、当日は雨ふりで、二十九日になっても止まない。三十日もまだ止まない。さきに雨天には順延と命令があったので、順延すべきやを伺った。すると、伝奏衆から命があって、およそ急の出陣の時は、時日を選ばず、雨や雪、夜間でも躊躇すべきではない、今日の微雨などものの数ではないという達しである。使者の往復のあいだに時は移って、未の刻〔午後二時ごろ〕になった。
 わが公は、さっさく令を下して黒谷を出発し、士卒をいそいで凝華洞にあつめた。あつまる者はことごとく甲冑姿で、鉦(かね)、太鼓、 法螺貝に五方旗(五色の信号旗)を樹てるなど、みな藩の制に従い、家につたわる参内傘の馬じるしと、白地に皇八幡宮加茂皇大神と書いた二流の旗を、馬前におし建てた。この参内傘の馬じるしは、藩祖正之公が、かつて上京して参内の節使用した傘に、その形を模して製作したもので、子孫に伝え、須叟(すゆ)も尊王の志を忘れないように子孫を訓誡したものである。
 隊伍粛々として、御所の西北をめぐって練兵場に出た。その場所は建春門の北数十歩の所で、高いところに天覧所を設け、聖上の御席とし、公卿、諸侯が左右に居流れて陪覧することになっていた。各官位の品等に従って席順がきまる。わが君臣は、雨をいとわず、泥濘を踏んで、馳駈、進止の操練を一周すませると、すでに暮方となった。
 そこで、ところどころに篝り火をたいたが、炎の光が甲冑に映じて閃然たるうえに、雨がふりそそぎ、ほとんどが真戦場のごとき迫力であった。とり止めの命があって、日をあらためて、他日また見せよとのことであった。

 



 恩賜を拝す     翌日、詔があってわが公を召されたが、わが公は病いがあって、中条信礼が代わって参内したところ、左の恩賜を拝した。

馬揃え叡慮の儀、雨天に候わば日送りのはずに候ところ、俄かに御覧あそばさるべき旨仰せ出だされ、いささかの差支えもなく大軍火急にさし出し候段、かねて武備充実、行届き候段、深く叡感思し召され、じつに御頼母しく思し召し候。よって目録の通り下賜候事。
 御目録
 大和錦 二巻
 白金  二百枚


 わが公は謹んでこれを拝戴し、賜わった銀を士卒に分け与えた。士卒はみな天恩の渥(あつ)いのに感泣し、報効の念はますます堅かった。
 その日は、朝から降雨しきりで、前に雨天順延の命があったので、過激の堂上の人々が、きっとわが藩が油断していることと思い、急に叡覧の命を下し、不意をついてわが藩の狼狽、遅滞するのを待って、大いに武備の不整を鳴らし、わが公に怠慢の恥辱を与えようとの魂胆であったのが、準備一つも欠けるところなく、すぐさま大軍の操練を叡覧に供え、意外の賞賜までこうむったので、案に相違した彼の人人は、これより、さらにわれわれを憎む心をつのらせたと言う。

 



 日光戦袍に輝く     八月五日、ふたたび馬揃を催して、天覧に供した。その儀はすべて三十日のときと同じである。
 わが公は、前日賜わった大和錦を、戦袍〔陣羽織〕につくってこれを着て、軍隊を指揮した。
 その日は天気晴朗で、日光が戦袍に映え、璨然(さんぜん)として、あたかも天恩を一身に荷う栄を耀(かが)やかすかの観があった。薄暮に調練が終り、諸隊粛々として退場した。聖上は、特にわが公を戎衣のままで、御車寄(おくるまよせ)の階(きざはし)の下まで召され、叡感の詔があったゆえ、水干(すいかん)と鞍、黄金三枚を添えて賜わった。
 わが公が最初入京したときは、都の人々は、東北の雄藩とはつたえきいていたが、まだその実力を見たことがなかったので、ひそかに軽視する輩も多かったが、今目のあたりその操練を見て、進退、肘が指を使うごとくであり、また兵仗の具備しているのを知って、初めて噂ばかりでないことがわかったという。(この日、わが藩の練兵の後で、因幡、米沢、備前、阿波などの練兵もあった。)

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  1. 2012/11/05(月) 11:41:26|
  2. 京都守護職始末1
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二十四  二条斉敬公懇話の大略     『京都守護職始末1』

 頻々たる暴行     前殿下二条斉敬公、徳大寺公純公、近衛忠房卿らの公武一和論の人々は、過激の堂上らのもっとも忌憚するところであった。
 彼らの主張する親征の議も、叡慮がこれを好みたまわぬことをようやく伺い知り、前殿下や二条公らを威嚇して、徐々に至尊に迫り奉ろうと計り、その手段として、あるいはその諸大夫の暗殺を試み【注一】、あるいは無署名の張り文をしておどすなど、あらゆる威嚇の手段を用いてくるのであった。

 



 大野重英の復命     二十二日、二条公からわが藩臣を召されたので、わが公は家臣大野重英をやって、謁見させた。斉敬公とねんごろに話しあいがあったが、当時、重英が復命のための手控(てびかえ)があり、当時の政界のありさまをうかがうのに便利である。

 二条斉敬公懇話の大略
このあいだ中、治部(北小路治部権大夫、二条公の家臣)方へ迫り、また一作夜は無頼の徒が投げ文をいたし候。これは陽明家(近衛家)、徳大寺へも同様にいたし候につき、早速、関白、議奏へも届けに及び申し候。右の書中、姦吏に通じ、賄賂を受け候などとこれあり候ところ、幕府と別格の間柄には候えども、大樹在京中、閣老以下諸役人ついに尋問にあずかり候議はこれなく、なおさら、賄賂など申し受け候議はさらにこれなく候。
しかるに右様所置候を遺恨に存じ、余を威(おど)さんがためならん。三郎召登せの次第は【注二】、薩藩人らが陽明家へ嘆願いたし、是非とも御召し下されず候では、一統の存意もこれある由を迫り申し候につき、存意の次第を相たずねられ候。一向に申さず、気込みは一通りならず、いかにも事情切迫の様子につき、宮(中川宮)、内府(徳大寺公純公)等にて申し談じ、関白へ申し出で候ところ、関白よりの挨拶には、真木和泉守事は、国事係の気にも入りおり候間、かの者に相たずね、御挨拶いたすべしとの事に候。その後和泉に相たずね候ところ、御親征の議についてめさせられ候わば、なんの故障もこれあるまじきとの事につき、議奏へ談ぜられ、勅命相下り候儀に候。それより二日後に、水藩の原市之進、梅沢孫太郎が参り、島津三郎上京の儀を御周旋あそばされ候由、いかようの御次第に御座候や、三郎儀上京もいたし候わば、諸藩の群議沸騰いたし、たちまち内乱も生ずべき形勢に御座候と、大いにツッカカり申し聞け候につき、薩州の事情切迫の次第もこれあり候について、一列申し談じ、関白へ申し入れ候までにて、採用は職柄の仁にこれあり候事ゆえ、殿下へ申し入るべくと申し聞け候ところ、疾(と)くに申し上げ候ところ、御殿へ申し上ぐべき旨の御沙汰につき、参殿仕り候。
なにとぞ、御沙汰止みに相成り候よう御取はらかいなさるべくと申し候につき、すでに勅命下り、もはや二日も相立ち候儀に候えば、今さらいたしかたあるまじく、もっとも、あまりに勅命かるがるしく相なり候間、よんどころなき旨を申し聞かせ候ところ、よんどころなく罷りかえり申し候。
さて、その後、宮中大議論にて、すでに関白、議奏などは、三郎上京の議、そのままさし置かれ候わば群議沸騰いたし、有志五百人屯(たむろ)いたしおり候間、右の者どもいかなる暴発いたし、道路へ血を流し候ようの儀今も測りがたしと、余以下へさし迫るは必定と、名を指して申さぬばかりの仕合わせ、右の形勢なれば、ついに三郎上京の儀は、召し留められ候儀に候。


一 御親征の儀も御評議のところ、重大の事件ゆえ、諸侯を召し登され、御たずねなさるがしかるべくと申し上げ候ところ、蔭にて、今時分に右よう優長の儀どうもならぬなどと申す者も相聞え候ところ、余が存意にては、とても一列どもの力には行届きがたく候間、大あたまの大名に、鳳輦出御の折きっと押しもらいたきつもりに候。しかるに備前、因州など同様くらいの事申し候につき、まずにやにやに相成り、詰(つま)りは久留米の細川良之助【注三】(今の長岡護美)を召登せ候事に相成り候。これは、察しには、細川は轟(武兵衛)、久留米は真木(和泉)が居るゆえ、自由になるとの見込みならん。

一 御親征御用意のため、廃絶の器械の御手入れを仰せつけられ候。小栗下総守儀御使としてさし下され候ところ、小身者の儀につき、叡慮も貫徹いたしかね申すべく候間、この度は、松平式武大輔(伊予松山城主の世子)御さし下しに相成り候旨、廻状にて議奏より申しよこし候。
 
一 まことの推察に候えども、今度男山行幸【注四】を申し立て、鳳輦を八幡へすえ奉り、軍議を聞こし召さると申し、十四五日も御逗留あそばされ、浪華城へ入られ【注五】、従わざるものを征し、五畿内を召し上げられ候との密議これあるかのようにも察せられ候。

一 今日も水藩の梅沢孫太郎来り、関東よりの事情を同役より申し越し候旨にて、その大意は、今度小笠原大膳大夫(小倉藩主)、長州よりの援兵に出でず、則ち勅命に応ぜず、もっとも領分へ長州より台場を築き候を、朝命はこれあり候とも幕命これなく候では、御請け申しがたき旨にて、家老出府致し候ところ、幕吏どもは大いに同意いたし、長州を糺(ただ)し候などの議論もこれあり候由。もともと攘夷の儀は、幕府へ御委任の事なれば、幕命則ち勅命に候間、了管これあり候者は、たとえ朝命にても容易に打払いなどいたさざるは当然に候えども、かの水人らは、ただただ違勅とのみ申すかどに執着いたし、真偽を弁え候ほどの所存はこれなく候間、右ようの儀を申し聞かせ申せば、因循とか姑息とか心得、殿下、三条などへ申しふらし候間、近親の間柄に候えども、かように親密の談は、御名殿(わが公を言う)ばかりに候。この段は厚く相心得、密々に申し上げ候よう。

一 改めて御頼み入り候儀のこれあり候。この間中御用談と殿下も承知のうえ、一列の宮(中川宮)、内府(徳大寺公純公)等、度々前殿下(近衛忠煕公)並びに宮などへ参集候ところ、中条中務大輔、石薬師に罷りあり候間、始終、往来の様子を見聞いたし居り候間、大いに心配いたし、形のごとき振合(ふりあい)にては、堂上が二派に相分れ申すべしとの案じ事にて、殿下へ罷り出で、その段を申し入れ候ところ、殿下も承知のことゆえ、心付けはまことに深切なる儀に候えども、決してさようの儀にはこれなく候間、心配いたすまじき旨申し聞かされ候由。しかるところ島津の一条相起り候については、殿下を出しぬいて一列が申し談じ候よう相響き、大いに不都合のことに候。中務は正義、正直にて胸中清冷に候間、また先の勘考もこれなく、ピョイピョイと申し出で候間、案外害の生ずるをば測りがたく候間、この段御心得置きなされ、深密の事は仰せ聞かされざるよういたしたき旨申し上げ候よう。その外咄したき儀、多分にこれあり候えども、一朝一夕にはつくしがたく、その内度々参りくれ候よう。もっとも今日の談も、種々込み入り候て、不つつかの儀もこれあるべしと、御懇談の御事どもにて、暮合より四ツ少し前まで御懇談仰せ聞かされ候。

 



 高台寺に放火     この月(七月)二十日の夜、盗賊が高台寺に火を放って、焼いた。そして、寺側に左のような板札を立てていった。

高台寺の奸僧ども、朝敵春嶽の寄宿差し許しの段、不届至極につき、神火を放って焼き捨て候。向後、右ようの者これあるにおいては、同罪に処すべき者也。(亥の七月)

 これより前のこと、慶永朝臣が攘夷の勅命を辞し、命を受けないで帰国されてから、過激の堂上や浮浪の徒らは、朝敵春嶽と称して、その名は言わず、厭悪することもっとも深かった。しかしわが公は、このような多事の時に、有為な親藩をいつまでも封邑に屏居させておくのはいけないと陳じて、大いに救解につとめたので、後見職をはじめ老中の人々もこれを然りとし、謹慎を解くことになった。しかし、まだ勅勘解除の命は下りない。慶永朝臣は上国の不穏を憂うるのあまり、京師へ出てこようとした。浮浪の徒らが、この夜の暴挙に及んだのもそのためであった。(後で聞くと、これは肥前島原の梅村真守、伊藤益荒、保母建、因幡の石川一、常陸の渋谷、伊予などの浪人のしわざであると言う)。

        



 【注】

【一 あるいはその諸大夫の暗殺を試み…】 七月十九日徳大寺家臣滋賀右馬大允が襲われて重傷を負い、二十五日前吉備津宮神官大藤幽叟が三条湖畔でさらし首にされ、翌日、開国論者と目された松平慶永の宿舎と予定された東山高台寺が焼かれ、ついで本願寺用人松井中務は慶永に通じたとの理由で殺された。そのほか公卿への投書、貿易商への脅迫がしきりにおこなわれた。これらの「天誅」のねらいは、「攘夷親征」の実現を促進するにあった。

【二 三郎の召登せの次第】 島津久光は、文久三年三月二十日、京都で長州系尊攘派の勢力が強くなったのに不満をもち、帰藩した。その後姉小路公知暗殺事件によって、薩州藩は乾門守衛の任を解かれ、同藩の京都での勢力はまったく失墜した。そこで、再び島津久光を京都に召致する朝命を出させることを、薩州藩志士は運動していた。その結果、近衛忠煕、二条斉敬、中川宮の周旋で、五月二十九日久光を召すの宸翰が伝えられた。

【三 久留米の細川良之助】 細川良之助(長岡護美)は、熊本藩主細川韶邦の弟で、久留米藩ではない。

【四 男山行幸】 男山八幡宮は石清水八幡宮の別名。

【五 浪華城へ入られ…】 文久三年六月十六日、長州藩尊攘派の領袖、桂小五郎(木戸高允)、清水清太郎、佐々木男也、寺島忠三郎と真木和泉は、東山翠紅館に会合し、攘夷親征の策を協議した。この席上、和泉は「五事建策」を提示した。そのねらいは、天皇みずから攘夷の権をとることによって、一気に王政復古を実現しようとしたもので、その五事の中に、天皇が大阪に進駐すること、五畿内の土地を朝廷に収めることを論じている。この情報が二条斉敬のもとに入っていたのである。

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  1. 2012/11/04(日) 17:49:59|
  2. 京都守護職始末1
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二十三  わが公と近衛前殿下に賜わった御宸翰     『京都守護職始末1』

 東下の勅は偽勅     これよりさきに、主上から伝奏衆に勅書を賜わった。
 その大意は、元来容保を東下せしめることは、もともと朕の望むところではないが、いかにせん、朕はこれを支えることができない、やむなく東下の命を下したけれども、これは朕の真意でないことであり、容保がもし辞退するならば、朕がもっとも悦ぶ事なのであるから、再命しないことをあらかじめ汝らに知らせておく、今後、もし再命の勅の出ることがあっても、これは朕の真意ではないことであるから、汝ら、この書面の写しをつくって容保に示し、朕の真意を知らせるように、ということであった。
 伝奏衆は恐懼なすところをしらぬありさまであったが、今になって、わが公東下の命を偽勅だとすれば、これまでの勅が、あるいは皆偽勅だったかもしれないということになり、たちまち衆心の疑惑をひきおこし、はては天下の離乱を生ずることとなるかもしれないとして、書を奉って、真勅をわが公に伝達する事を宥恕されたい旨を請うた。おそれ多いことである。
 主上もいまは詮方なくおぼしめし、二十九日、近衛前殿下の手で、ひそかにわが公に左の宸翰を賜うにいたった。

今日その方を召しおき候は、関東の事情の検知、並びに大樹の所置の感咎との両端にてその方を使とし、下向しつくる由にて候。もっとも攘夷の次第の尋問はさもあるべき儀には候えども、このごろ、守護職のその方を使として下向の儀は、朕においては、好まず候えども、当時の役人並びに堂上の風として、申し条を言い張り候次第、とても愚昧の朕、申し出で候ともせんなき事ゆえ、各々の申す通りに相成る次第に候間、ただ今もかくのごとく厳重の沙汰のようながら、実勅にてはこれなく候間、さよう承知し、その方の領掌の可否は、存分に任せて返答すべく、決して下向(げこう)を強いて申しわたす所存にはこれなく候事。
ただし、かようの儀を申し候と存じ知り候わば、各々はまた蜂起し候わん間、中庸の商量、嘉祥たるべく候事。
 六月秘々


 前殿下にもまた、同時に左の宸翰を賜うた。

イマ会津ヲ東下セシムル者ハ、過グル日申セシ如ク、勇威ノ藩ナルニ因ッテ、ココニ居レバ奸人ノ計策行ナワレ難キガ故ニ、コレヲ他ニ移シ、事ニ托シテ守護職ヲ免ゼントスルナリ。関白モマタ、コレヲ疑エリ。コレ則チ、朕ガ尤モ会津ヲ頼ミトシ、遣ワスヲ欲セザルトコロニシテ、事アルニ臨ミテ、ソノ力ヲ得ントスルナリ。今偽勅甚ダ行ナワルルガ故ニ、コノ後何等ノ暴勅ノ下ルモ測リガタシ。真偽ノ間、会津ヨク察識スルヲ要ス。

 



 天恩の優渥に感泣     そもそもわが公は、入京のはじめから、至誠をつくして公武の一和に心力を労し、汲々として勅旨の遵奉にはげんできたけれども、もともと先例のない役であり、また君臣ともに野朴の武人であって、縉紳家の都ぶりを心得ず、いわば暗中的(まと)をねらうようであるうえに、四辺は反対の徒にかこまれ、ややもすれば陥(おとしい)れられる。公武一和論の諸侯は相前後をして京師から去り、顧みると身一つがいつ天譴にふれるかとおそろしく、瑞々(ずいずい)としてあたかも薄氷を踏むおもいでいたところへ、再応の宸翰をいただいたので、天恩の優渥なことに感泣し、同時に、聖明が常に姦人のために蒙蔽され、かしこくも御憂悶の日々をすごさせ給うのを知って憤慨にたえず、ただただ、いよいよ死を誓って、万一の時に報じ奉ろうと心に期するのみであった。
 叡慮がかくのごとくであるので、わが公の上奏は採納されたが、しかし、わが公に代わって東下する人撰が問題となった。
 わが公に代わって東下すべきは所司代であるが、ちょうど牧野忠恭朝臣が所司代の職を辞し、その後任者の任命がきまっていなかった。町奉行永井尚志(主人正)は、姉小路公知朝臣暗殺の疑惑で召し取った田中雄平の自殺の責任で屏居していたし、同役の滝川具挙(播磨守)は任を離れることができない。そこで、禁裡付武家小栗正寧(始め長門守、後に下総守)に勅をもたらせ、東下させることとなり、家臣の小室当節を随伴させることとした。

 



 真木和泉     それと言うのも、そのころ三条実美卿の威権が満朝を圧し、卿のもっとも信頼しているのが真木和泉【注一】であって、わが公の東下の策を建てたり、将軍家を譴責する勅書をつくって卿にすすめたのも、みな和泉から出たことである。
 その後、実美卿が京師を脱走したとき【注二】、狼狽のあまり一つの文函を忘れていった。それをひらいたところ、なかに和泉の書いた建策のおぼえ書の小冊子があって、他見を禁ずと表に記してあった。かの勅書を首(はじめ)に載(の)せ、ふかいおぼしめし云々の語で、幕府を威(おど)す題目とするなどと注がしてあった。これによって、勅書の出所もわかるというものである。宸翰に、真勅ではないとあったのも、このことを差したのである。





 牧野鋼太郎上京     小栗下総守が東下したのとゆきちがいに、七月十二日、江戸からの使番、牧野鋼太郎が上京し、わが公に老中からの内状と将軍家の上書、慶篤卿、慶喜卿、両殿下に宛てた書状などを示した。その書状に、

攘夷の一条は、御東下の後、早々に御取りかかりに相なるべきところ、当時の人心にてはとてもできがたく、水戸殿、一橋殿へも御相談これあり候ところ、急速の攘夷はとてもむずかしく、万国の形勢をとくと御熟慮これあり、両公より上へ御建白これあり。右については、別紙の通り、上より関白殿へ御さし出しに相成り申し候。ついては、貴所様にも御注意柄をとくと御了解のうえ、方今の時勢じつに皇国の御一大事ゆえ、とくと御熟慮、一方ならぬ御周旋をなにとぞ御成相成り候よう祈願し奉り候。(前後略、六月二十九日付、老中連名)

 将軍家より上奏の大意

今度、攘夷の儀、水戸中納言、一橋中納言と申し談じ、叡慮を貫徹仕り候よう仰せつけられ、謹承仕り候。しかるに、右両家申し談じ候ところ、方今、海外万国の形勢、皇国の人心の折り合い等、熟視詳察仕り候えば、当今の場合、攘夷の儀、軽挙妄動にては必勝の成算これなきのみならず、かえって夷狄の術中に陥り、皇国の御恥辱と相成り候ては、なんとも恐れ入り奉り候間、内治を相整え、人心一致仕り候機に臨み、闔国の力をもって掃攘仕り、叡慮を徹底相成り候よう仕るべく存じ奉り候。ついては、攘夷の期限の儀は、一切御委任下しおかれ候よう願い奉り候。これによって水戸、一橋両家よりさし出し候書面を相添え、叡覧に入れ奉り候。恐惶謹言。(六月二十九日)

 この上奏は、まことに至当なことであったが、当時攘夷で勃々たる朝議に反抗し、局面を一変させる意見であるから、後見職か老中でも上京したうえで、これを奉ると同時に、規画の順序や方策の次第等を巨細に上陳するのが至当である。すでに前日、攘夷の督促の勅命が下りたばかりであるのに、これと引きちがいに、このような上奏をすれば、過激の堂上がたちまち猛(たけ)り立って違勅よばわりし、どのような変が起らないともわからない。しかるに幕府の有司らは、京師の事情にうとく、ただ昔の慣例に従って、文章一つで事がすむと思っている。迂闊もまたはなはだしい。

 



 上書執奏せず     そこで、わが公のはからいで、将軍家からの上書を執奏しないことにして、この旨を鋼太郎に言いふくめ、ただちに東帰させ、また老中に書を贈って、事の次第を弁明した。
     
このたび御直書さしあげられ、御使者牧野鋼太郎が持参いたし、拙者、関白殿下へ、右御使を相勤め候よう仰せ下され、はたまた、御直書の写しを拝見仰せつけられ、したがって周旋いたし候よう仰せ下され候趣、謹んで承知仕り候。すぐさま殿下へ罷りいでて周旋仕るべきはずに候えども、いずれにも重大の事柄ゆえ、とくと勘考仕り候ところ、攘夷の儀は叡慮、終始易(かわ)らせられず、ふかくおぼしめし込ませられ、すでに昨年、勅書を御受けあそばされ、そのうえ、上様親しく叡慮をも御伺い、御決心あそばされ候はもちろん、その最初、水戸中納言殿、一橋中納言殿、いずれも叡慮を御遵奉なされ候儀、じつに至々極々の重大の事件に御座候ところ、御直書の通り、方今の時勢、人情やむをえざるの儀には御座候わんなれども、叡慮は終始易らせられざる御儀に候えば、右の時勢、人情、やむをえさせられざるの件々を、何ゆえ、方今万国の形勢、皇国のおり合いかた掃攘相成らざるか、何ゆえ、夷狄の術中に陥り、何ゆえ、皇国の恥辱と相成ると申すかの儀、はたまた、しからば、いかが致し候て、この末内治相整い、人心一致に赴き、いかが致し候て闔国の力をもって掃攘いたすべきなど申す成算の大略、かくのごとくに御座候間、期限一切は御委任下されたき旨、一一演説、御嘆願なされ、ついては御たずねに相成り候かどは、随って御弁折なされ候わば、自然に叡慮御感動の道もこれあるべきや。先(せん)だって小栗下総守をつかわされ候儀も、右等視察いたすべしとの御旨意に御座候。されば、いずれ事柄を着実に御取扱いなされ候御方にこれなくては、御誠意を貫徹仕りかね候間、上様へ仰せ上げられ、一橋中納言を御名代として至急に御上京、右へ各様の内事情貫通の御方が御付添い、御登京御座候うえにて仰せ上げられ候て、当然の御儀と存じ奉り候。
拙者一通り御使者相勤め候は、容易なる儀に御座候えども、当表(おもて)の模様、只今は御書さし出し候節にはこれなく、たとえ拙者が演説仕り候とも、御地の御様子、御書面外の儀は、想像いたし候のみに候えば、なにか口実のようにも相響き、かえって御不都合も計りがたく、その間の深意、筆紙につくしがたき事どもに御座候。
もっとも、朝廷御尊崇の儀に於ては重大の事柄、ここもとよりの勅使は三条中納言、姉小路小将(前年攘夷督促の勅使)へ仰せつけられ候ところ、この度、御使番をさしのぼされ候も、あまりに不次の御儀にて、旁々(かたがた)事実御不都合を生じ候てはいかがかと存じ奉り候につき、御直書は至重の儀に御座候えども、上様の御為筋を存じ奉り候上より、恐れながら拙者一まず御預り罷りあり候間、早々の御登京をひとえに待ち奉り候。
右は畢竟、事柄を重んじ、事実成就を期し、忌憚をかえりみず申し上げ奉り候(七月十五日)


 



 京師の事情を陳上     なお、家臣野村直臣を随伴させて、くわしく京師の事情を陳上させ、さきにわが公にかわって東下した小栗下総守に、左の書を送ってその斡旋方(あっせんかた)をたのんだ。

一筆申し進め候。残暑の節、長途の御旅行いよいよお障りもこれなく候や。御苦労千万、御察し申し候。
しらからばこの度、牧野鋼太郎を御使としてさし登せ候について、閣老よりその表の事情も申しつかわされ候儀もこれあり候えども、なにぶん貫通いたしがたき次第にて、御所へ申し上げ候程の儀には相成らず候間、なおまた、同人へ御用仰せつけられ、ただちに引き返し、家来も相添えさしくだし候につき、なおもっていよいよ御留府、事情を熟察いたされ、右同人等下着次第、一同にて尽力いたされたく候。もっとも、それ以前に御自分御出でたち、御上京などこれあり候ては、御所向御不都合の次第もこれあり候間、万一御出でたち候わば、途中よりにても引き戻られ候よういたしたく存じ候。事情の儀は、後より牧野下向、並びに家臣へも申し聞かせ、委細を申しふくめ候。
右、申し進めたく、わざと飛脚をさしむけ、かくのごとくに候。以上。(七月十三日)


一簡申し進め候。残暑の折、御東下ことに重大の御用向仰せを蒙られ、日夜御配慮の儀、察し入り候。
されば、前便申し述べ候牧野鋼太郎をさし登せられ候について、閣老中より申し越し候儀これあり、なお返書、別紙の通り申しつかわし候ところ、叡慮御挽回の儀は、じつに重大の御事柄にて、御自分には当表(おもて)の都合、委細御承知の通り、なかなかもって容易に相届き申すべくとも存ぜられず候。かつ御使者柄にて、天朝御尊崇の筋へ相響き、ますますもって上様のおぼしめし相届き申すまじきやと、ふかく心配いたし候間、中納言殿へ、老中差添え、登京いたされ候よう申し進め候儀に候。
この趣意を、貴所とくと御領承、国家のために幾重にも御尽力、諸役人までも御説得これあり候よう、ひとえに御頼み申し候。右、申し進めたくかくのごとくに御座候。早々頓首。
なおもって、時下、折角御自愛候ようにと存じ候。家臣野村左兵衛へ申しふくめ候儀もこれあり候間、同人よりとくと御聞き取り下さるべく候。以上。(日付不詳、ただし
 七月十三日後)


 



 所司代を更迭     この月(六月)、京都所司代牧野忠恭朝臣が、病気の理由で辞職を願い出たので、幕府では稲葉長門守正邦朝臣をその代わりとした。越えて七月二十一日、左の命が正邦朝臣に下った。わが公が去る六月の稟請を実行したものである。

以来、肥後守の指図(さしず)をえて相勤め候よう到さるべく候。非常の節、京都守護職の儀は、松平肥後守に御委任なされ候間、御警衛筋等の儀は、すべて肥後守の指図をえて相勤め候よう。大阪御城代、並びに右に付属いたし候役々の外、京地御固めの近国の諸大名、伏見、奈良の奉行をはじめ、その他の役々へ相達せらるべく候。





 激派堂上の焦り     ときに朝廷においては、長門藩が外船を砲撃したことから、有為の諸藩が必ずそれに傚(なら)うものと期待していたのに、闃(げき)としてなんの報告も来ないので、過激の堂上は大いにいらだち、ただちに諸藩にむけて左のような勅令を下した。

海岸防禦の儀、度々御沙汰のところ、往々不備の聞えこれあり候につき、今度、紀州の加田浦、播州の明石浦へ、監察使【注三】を立てられ候。これまで傍観、畏縮の藩もこれあるとの趣に候。爾後右ようの輩これあり候えば、きっと御沙汰、官位を召し上げられ候。列藩においてもその心得にこれあるべく、御沙汰候事。

 七月

別紙の趣、心得のため、幕府へ御通達これあるべく候。かつ、親藩御一列中へも、早々御伝達これあるべく候。よって申し入れ候也。(七月二十三日、わが公宛、野宮定功、飛鳥井雅典、両伝奏署名)


 そこで、ただちに朝廷から外様諸侯にこれを令し、親藩、譜代諸侯へは、幕府から伝達することになった。このわけへだての処置も、それによって漸次に公武の疎隔をなさしめようとはかった、過激堂上の謀略であった。
 わが公がこのことを幕府に報告すると、幕府でも、ふたたび長門藩のような暴挙があって、国家に累を及ぼすことがあってはと慮って、左の令を頒布した。

海陸御警衛の儀については、この程相達しおき候儀もこれあり。ことにこの度、京師より仰せ出され候趣もこれあり。万一非常の節に、傍観、畏縮の輩は、官位を召し上げられ候趣も仰せ出され候間、なおこのうえも、海陸の警衛を充実いたされ、隣国応援などかねて手はずの行届き候よういたさるべく候。もっとも兵事はかれこれの曲直を相正し候儀につき、無謀妄動等はもちろん、進退攻守とも指揮を相守り申すべき事。

 



 四侯朝議に列す     すでに朝廷は、因幡(池田慶徳朝臣)、備前(池田茂政朝臣)、阿波(蜂須賀茂韶朝臣、阿波の世子)、土佐(山内豊範朝臣)、米沢(上杉斉憲朝臣)、福山(阿部正方)の藩主らを召して、幕府は攘夷を拝命していながら因循で今に至ってなお実行せず、長門藩がすでに先端を切ったのに、諸藩のあとにつづくものがない、よって、御親征あって、親しく大令を発せられようとしている、よろしくその方略を議して奏聞せよ、とあった。
 因幡侯らは、それに答えて、諸公卿はまだ軍装に馴れない様子、兵備もまだ整っていないようであるがどうかと問いただしたので、さすがの諸公卿も、返す言葉に窮した。
 因幡侯らはまた、守護職として会津侯があり、他の諸藩の兵も在京するものが多いから、よろしくその兵士の操練をさせ、親しくこれを観覧して、砲声に馴れ、兵装をつまびらかにし、その後で、御親征の可否を議論されたらよろしかろうと述べた。
 公卿らもこれに賛成し、ときおり因幡、備前、阿波、米沢の四侯を召されて、朝議に参列させ、勅令もおおむね四侯の手を経て出ることになったが、密議となると、決して参与することができなかった。
特に、いまこの御親征のような重大の件を議するに当っては、守護職すらも召さない。思うにその事情は、前日わが公に賜うた宸翰の旨に照らしてみれば、御親征がはたして叡慮に出たものか否かは、弁を費やすに及ばない。

 



 【注】

【一 真木和泉】 名は保臣。久留米水天宮神官の家に生まれ、尊攘運動に参加、倒幕と王政復古の主張を早くから明らかにしている。文久二年有馬親七ら薩州藩志士と挙兵を計画、寺田屋の変で失敗したが、同三年再び上京し、長州藩尊攘派と結んで、指導的地位を占めた。大和行幸は彼の主として計画したことであった。八月十八の政変後、元治元年(一八六四)長州藩が京都に出兵すると(禁門の変)、これに加わって天王山で自刃した。

【三 実美卿が京師を脱走したとき】 文久三年八月十八日の政変で、尊攘派の勢力が宮中から退けられ、三条実美ら尊攘派公卿七人が京都から脱走、長州に走った。いわゆる「七卿落ち」の時のことで、本書第二十八章で後述される。

【三 監察使】 文久三年七月十一日、国事寄人東園基敬は紀州藩に、同四条隆謌は明石藩におもむき、攘夷監察の任にあたることを命ぜられた。

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  1. 2012/11/04(日) 11:18:21|
  2. 京都守護職始末1
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二十二  守護職東下の御下命ならびに幕府への御沙汰書     『京都守護職始末1』

 守護職解任のたくらみ     ときに京師では、守護職が孤立しているのを見て、堂上が相議して、さきに将軍家が大阪からもう一度上京すると上奏しておきながら、急遽東へ帰ったことさえあるのに、攘夷のことはなに一つ実行していないと、そのことを訊問させるのを名目にして守護職を江戸に追いやり、追っかけて解職の勅命を下し、その職を別人に代らせようと巧らみ、二十五日(六月)容保を召して東下を命じ、併せて勅命を伝えた。

大樹の東下以後、関東の形勢はいかがと、御不安心におぼしめされ候間、事情を熟察して言上あるべく、かつ攘夷の儀、叡慮の貫徹を周旋いたすべく御沙汰候事。
 六月


 別紙、幕府への御沙汰書

大樹、二百年来の廃典を興して上洛あり、万事恭順に、君臣の名義改正の儀はふかく叡感に候ところ、去る九日、暇を賜わり下坂これあり候以前、奏聞の件々の始末分明ならず。ことに蒸汽船にてにわかに帰府し、かつ第一に攘夷の期限の儀において不都合の次第、一にあらず候につき、きっと御糺(ただ)しあるべく候えども、ふかきおぼしめしあらせられ候間、追って御沙汰の儀もこれあるべく候事。

 



 わが公書を奉る     わが公はこの勅旨を拝し、驚愕、痛心、言うところを知らず、謹んで勅諚どおり東下せんか、ようやく基礎ができてきた公武一和が、たちまち一朝の夢となって消えうせることは疑う余地もない。しかしこれを辞すれば、あるいは厳譴をこうむることは計り知れない。百思千考、腸(はらわた)を断つおもいでいたが、ついに一旦の勅命を辞しても、公武一和の趨勢を維持することの重大にはかえられないと固く決意して、謹んで左の書を奉った。

この度御使者となって関東下向、つぶさに言上仕るべく、かつ攘夷の儀、叡慮の貫徹を周旋いたすべしとの御沙汰、不肖の私、万々ありがたきしあわせ、朝に朝命を蒙り、夕に途について微力を尽すべきはずに御座候ところ、なにぶんにも心に落ちがたき仕儀これあり、不行届に候ては、かえって重命を汚し奉り候儀につき、退いてつらつら勘考仕り候ところ、当職相勤め候儀は、もとより重大の儀にこれあり、初発以来、私はもちろん家来どもまでも、決心のうえ罷り発し候儀にて、ここもとを墳墓の地と定め、力の及び候かぎりは輦轂の下、風波おだやかに、宸襟に御不安の儀いささかもこれなきよう、せいぜい仕りたき志願に御座候。これまで、万々不行届の事どもにて、右ようの儀を申し上げ候も恐縮の至りに御座候えども、腹蔵なく心底を打ちあけ申し上げ奉り候。この段は御海恕願い上げ奉り候。
しかるところ、一昨日の御沙汰を蒙り候について、いかにも重大の儀に候ゆえ、私の存意はその節にも申し上げ候通りに候えども、家来どもの存意をも相たずね候ところ、格別の御人撰をもって重き御用を蒙り候断、重々ありがたきしあわせには候えども、この度、長州にては外夷と兵端を相ひらき候儀にこれあり、はたまた摂海に乗り入れ候風説も紛々としてこれあり、有志のことさら登京いたすべき儀に候ところ、当職掌におりながら一歩も輦轂の下を離れ候事、部門においてはかたくなさざるところにして、かつ、大樹東下の節にも厚く申し置き、この節柄、別段に心をつけて守護し奉るようとの命、なお耳底にこれあり、東下以来の模様一つも申し来らず候うちに、ここもとを離れ候ては、大樹の遵奉の意にもこれあるまじく候間、この辺をとくと御勘考あそばされて、御使者の儀は御付武家【注一】か町奉行のうちへ申しつけ、なお、家臣をも相添えて関東へ至急にさしくだし、後見職、年寄どものうち、早速罷り登り、逐一申し上げ、御用をも相伺い候よう申しつかわすべく候間、しばらくの間御猶予あそばし下され、私においては一心に当職掌を相勤め候よう幾重にも嘆願申し上ぐべき旨、家来ども一同も決心のうえ申し出で候につき、私熟考仕り候ところ、攘夷の儀、叡慮貫徹いたし候よう周旋仕り候事は、一昨日も申し上げ候通り、はじめは水戸中納言、次は小笠原図書頭、つづいて一橋中納言、いずれも叡慮貫徹致し候よう周旋仕り候事に候えども、不行届に候は、その間、さだめて止むをえざる形勢のこれある儀にて、私下向仕り候とて、行届き候見込みは御座なく候。
万一世上の風説通り、関東下向の折に外夷摂海へ入寇などいたし候ては、恐懼の至りに候間、重き当職をもって、一日もここもとを離れ申すまじき儀は、もちろん前段に申上げ奉り候通りに御座候間、この辺、厚く御熟考のうえ御沙汰なし下され候よう嘆願し奉り候。誠恐誠惶敬白。(六月二十七日)


 この書をさし上げたところ、伝奏衆は、いま勅旨を幕府に伝えさせる人は守護職以外に見当らない、そのうえ東下について、すでに恩賜の品々まで揃っているのだから、これを変更となると上へのはばかりもあるからと、再三慫慂(しょうよう)に及んだが、わが公も固く前旨を述べて、このことの執奏を請うた。

        



 【注】

【一 御付武家】 禁裡付武士。格式は目付役程度であったが、武家伝奏と所司代の間に介在し、公武間の交渉事務に関与する重要な役目をもっていた。

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  1. 2012/11/04(日) 08:08:24|
  2. 京都守護職始末1
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二十一  わが公から老中へ送った書面     『京都守護職始末1』

 家老を東下さす     はじめ、わが公が登京されるにあたって、幕府から委任された条件があった。この条件に関して論議せねばならないことがあったのであるが、将軍家の上洛も近かったし、将軍家が永く滞京して禁闕を守護されている以上は、別に論ずるに及ばずと思っておられた。
 将軍家が急遽東下された今となっては、黙止してもすまされないので、この月(六月)二十二日、特に家老田中玄清を東下させ、左の書を老中の人々あてに送った。

この後の勤め向の儀について、嘆願の個条を家臣に持たせ、さし下げ候。なにぶんにも右の個条通り御許容下されたく、ひとえに伏して願い奉り候。さも御座なく候では、この後の勤め向なんともおぼつかなく、自然に御免を相願い候段にもよんどころなく相至るべしと、ふかく心配仕り候。よろしく御汲みとり下され候よう希い奉り候。もっとも右家臣へこの表の事情など委細申しふくめおき候間、なにとぞ御聞き取り下され候よう希い奉り候。

 別紙
一 尾州前の大納言様を将軍の御目代として、またまた京地へ差しおかれくだされたき事。

一 大小御目付、御勘定奉行、奥御右筆の類をも差しおかれくだされたき事。

一 御所より仰せ聞かされ候筋は、御入費相掛けり候とも、大概の儀は相伺わずに手切れの取計らい致したき事。

一 関東へ相伺い候儀は、遅滞なく御答えくだされたき事。

一 梱外(こんがい)の全権は御任せられくだされ、以来、所司代はじめ地役人とも選挙、賞罰はもちろん、黜陟(ちゅっちょく)なども御委任くだされ、其の余、非常の節には京地の御固め、近国の諸侯方、大阪、奈良、伏見の奉行をはじめ、役々にも、守護職の指図をえて相勤め候よう御沙汰くだされたき事。

一 同付属の与力、同心差しおかれ下されたき事。


 



 心なき諸有司     玄清はその旨をふくんで江戸にゆき、老中の人々に謁して京師の事情をこまごまと開陳したが、諸有司の多くは京師の情勢にくらく、なかでも、朝廷の事で費用が多くかかっても守護職に一任せよとの項では、特に反対者が多く、財政に関することだからと言ってゆるさない。また、尾張慶勝卿の件では、命をくだしても卿が御受けすまいというので、これまた裁可されない。その他のことは、たいてい請うがままに裁可された。
 高家、目付、奥右筆などを守護職に付属させることは、無用なことのようであるが、当時、幕府の諸有司はおおむね京師の事を知らないで、往々にわが公のことをひたすら朝議にばかり阿(おもね)って、幕府の立場を毫も考えないなどと言うものがあるので、いま、これらの役々を付属させ、守護職の内外の辛苦の実情を知らせ、彼らの口から諸有司の猜疑を釈然とさせることが、そのねらいであった。
 まもなく守護職附属の目付戸川鉡三郎、奥右筆小野田吉次郎、斎藤錠三郎、徒目付水本竜太郎、山本喜六、岩田三蔵その他小人目付六人が京師に着いた。

 



 失当の一例     当時、縉紳家の人々が国事に容啄(ようかい)して、幕府を掣肘しにかかるが、国家の実務にはまったく無経験なので、その処置が事件の大小、軽重、暖急について当を失うことが、すこぶる多かった。
 一例を示せば、元来、兵庫は畿内の重要な港で、幕府では始め長州藩にその守衛を命じ、後に久留米、高松、岡などの諸藩に代らせようと、すでにその決議があったとき、急に朝廷から脇阪【注一】、永井【注二】の二侯に命令して代らせてしまった。そこでわが公は、議をたてまつり、脇阪、永井のような小藩では、わずかに自分の封境を守るにすぎない。兵庫のような至要の地を守らせても、その任に堪えられようはずがない。もっと有力な藩に命ぜられてしかるべきだと説いたが、すでに朝命が出てしまったあとで、どうすることもできなかった。
 すでに万機を旧のとおり幕府に委任されたのに、なお政令が二途に出ること、このとおりであるから、間に立ったわが公の苦心経営もその功がなく、ただただ、時と事との非であるのを概嘆するのみであった。

        



 【注】

【一 脇阪】 播磨竜野藩(五万一千石)主、脇阪安斐。

【二 永井】 大和新庄藩(一万石)主、永井直幹。

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  1. 2012/11/03(土) 11:19:21|
  2. 京都守護職始末1
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