いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十九  密勅     『京都守護職始末2』

 賊臣慶喜を殄戮せよ     この月(十月)十三日、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の諸卿から、薩摩、長門の二藩に、左の密勅【注一】を下し賜わったと言う。

詔(みことのり)す。源慶喜、累世の威を籍(か)り、闔族(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)して顧みず、罪悪の至るところ、神州まさに傾覆せんとす。朕、今民の父母として、この賊にして討たずんば、何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや。これ、朕の憂憤のあるところ、諒闇も顧みざるは、万止むべからざるなり、汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、もって速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安きに措(お)くべし。この朕の願い、敢えて懈(おこた)ることあることなかれ。
 慶応三年十月十三日奉
  正二位 藤原忠能
  正二位 藤原実愛
  権中納言 藤原経之


 これと同時に、わが公と定敬朝臣を誅伐すべき旨の密勅をも下されたと言う。

   会津宰相
  桑名中将
右二人、久しく輦下に滞在し、幕賊の暴を助け、その罪軽からず。これによって、速やかに誅戮を加うべき旨仰せ下され候事。
 十月十四日
  忠能
  実愛
  経之

 
 嗚呼、わが公は、文久二年守護職の大任を受けて登京して以来、六年の間、公武の間に周旋して、幕府をして朝廷に尊崇せしめ、先朝の叡旨によりて公武一和を謀ったのに、はしなくも天譴に触れ、遂にこの密勅が出るに至ったのは、天か、命か。それとも姓駑にして至誠九天に達しないためであろうか。





 疑うべき問答録     最近出版された。岡谷某が正親町三条実愛公に倒幕の詔に関して質問した質問録【注二】というものをみると、

問 倒幕の勅書を薩長二藩に賜わったのは、いかなる次第でしょうか?
答 余と中御門の取り計らいだ。

問 中山公と(のの誤であろう)御名もありますが、これはいかなる次第でしょうか?
答 中山故一位は、名ばかりの加名である。それは岩倉(岩倉具視)の骨折りだ。

問 勅旨と称するものと、綸旨(りんし)との違いはどうですか?
答 薩長に賜わったのは綸旨というべきだろう。

問 綸旨の文案は何人(なんぴと)の起草に係ったものですか?
答 玉松操【注三】と言うものの文章だ。玉松は至って奇人であった。

問 筆者は何人(なんぴと)ですか?
答 薩州に賜わったのは余が書いた。長州に賜わったのは中御門が書いた。

問 右のことは二条摂政(二条斉敬)や親王方と御協議のあったことですか。
答 右のことは二条にも親王方にもすこしも漏らさず、極内々のことで、自分ら三人と岩倉の外、誰も知るものはない。

 
 とある。摂政関白殿下にも知らせ賜わなかったことであるなら、いったい如何なる手続きで執奏せられたのであろう。その手続きが踏んであったのなら、ここに記されてあるべきであるが、何の記載もない。疑うべきの極みである。





 将軍参内     十五日、将軍家は召しによって参内。わが公が扈従したが、その時、左の詔を賜わった。

祖宗以来御委任、厚く御依頼あらせられ候えども、方今、宇内の形勢を考察し、建白の旨趣尤もに思し召され候間、聞こし召され候。なお、天下と共に同心力を致し、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉るべく御沙汰候事。

大事件外夷の一条は、衆議をつくし、その外諸大名の伺い仰せ出だされ等は、朝廷、両役に於て取り扱い、自余の議は、召しの諸侯上京の上御決定これあるべく、それまでのところ、支配地、市中取締り等はこれまでの通り、追って御沙汰に及ばれ候事。






 軍職を辞退     これによって、二十四日(十月)、将軍家は左の上奏をして、軍職を事態した。

臣慶喜、昨秋相続仕り候節、将軍職の儀、固く御辞退申し上げ、その後、厚く御沙汰を蒙り候につき、御受け仕り、奏職罷りあり候ところ、今般奏問仕り候次第もこれあり候間、将軍職を御辞退申し上げ奉りたく、この段奏聞仕り候。以上。

 即日、左の裁可を賜わった。

諸藩上京の上、追って御沙汰これあるべきこと。





 わが公の進退     ここにおいて、わが重臣らは、公の進退を評議して、「大将軍がすでに政権を奉権し、軍職を解かれることを奏請したとなれば、元来、幕府が設けた守護職の役を依然として奉職していては、事理を解しないように思われるであろう。その上、幕府を離れて独立することは、藩の遺訓に悖(もと)ることになる。速やかに職を辞されて、幕府と存亡を共にされんことを」ということになった。
 わが公は、この論をきいて、「なるほど、その議も一理あるが、朝廷がお召しの諸侯が上京し、衆議を経る時までは、旧通り幕府が百事を執り行なうようにということである。このことを知っていて、予が急に職を辞退すれば、おそらく軽忽のそしりを免れないであろう」と言われた。
 よって、老中板倉勝静朝臣に相談したところ、まず辞退を止めて、単に進退伺いを出すべしということになり、十一月朔日、左の書を呈した。

この度御改革を仰せ出でられ候については、守護職の儀、如何心得てしかるべきや、伺い奉り候。

 即日、「追って相達し候までは、これまでの通りと心得らるべく候」と指令があった。





 領国へ親書     十月十六日、わが公は、家臣内田武八(この頃、藩の用所、密事頭取の役にあった。密事頭取は幕府の奥祐筆頭取に相当する)を会津につかわし、親書を持たせて、幕臣を戒飭させた。その書面は、

態(わざ)と武八をつかわし候。ここもと容易ならざる形勢は、委曲を家老共より申しつかわし、承知致し候筈に候。この上は拙者の恃(たの)むところは、家老はじめ、一和一力に相成り、あらん限りの力をつくし、累代の御恩を報じ奉り候外、他事これなく候。
右はもとより覚悟の事に候えども、今日俄かにかくまで切迫致し候ことは、じつに不慮の儀に候。この上は、いかなる不慮の儀生じ候も計りがたく、ついても、軍政筋をはじめ改革をもっとも第一の急務と致し候ところ、右は明春、ここもとへ打寄り決議候筈に候えども、前段の都合については、大儀ながら至急に登京致しくれ、ただちに論決の上、万事、今日より手卸し致し候よう致したく候。
しかし、若狭も在国の事にこれあり(これより前、わが世子喜徳公は、九月十一日京師を発して東下した)、ことに留主の儀は古より大任と致し候ことに候えば、これまた申し合わせの上、一人は居残り、国内の儀いささかも案ずる筋これなきよう、破格に吟味をこらし、二百里の外相隔たり候とも、ここもとと合体し、予が苦心を察し、憤発興起致しくれ候よう頼み入り候なり。






 長藩奉命せず     さきに幕府が勅を奉じて、長門藩の重臣と末家の輩を大阪に召したが、来ようとしなかった。この頃になって、長州藩士らが、京師に潜入しはじめたという流説が紛紛と飛んだ。
 そこで、十一月朔日、幕府は左の書を奉って、勅旨を候した【注四】。

長坊の処置重大の事件につき、改めて衆諸侯の公議の上、朝廷より御沙汰あらせられ候御儀と存じ奉り候。

 十四日になって、左の勅が下った。

毛利大膳家老以上上坂のこと、幕府より沙汰これあり候ところ、なお、朝廷より御沙汰これあり候までは、上坂見合わすべき旨、相達せらるべく候事。

 よって、幕府は安芸藩に通牒して、このことを長門藩に通達させたが、長門藩は命を無視して、毛利淡路名代毛利内匠らは国を出て、十二月朔日、すでに摂津の尼ガ崎まで来たとの報があった。そこで幕府は、朝命を伝え、大阪で後命を待つように言ってやった。





 【注】

【一 密勅】 薩州藩は、一旦は土州藩の大政奉還建白の企てに同意したが、本心は挙兵討幕であり、大政奉還の成果を一気にくつがえす秘策、すなわち討幕の密勅降下を画策していた。薩州藩は、西郷、大久保が藩論を指導していたが、藩上層には倒幕を支持せぬものも多く、そのためにも詔勅の権威が必要であった。岩倉具視と手をむすんだ大久保、西郷は、十月八日中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之に詔勅の降下を要請し、岩倉の腹心玉松操の起草した倒幕の詔勅案を中山を経て「上奏」したという。但し「上奏」も「宸裁」も、それを証拠だてる史料は見当らない。この密勅降下は公卿では岩倉、中山、正親町三条、中御門以外は知るものがなかったが、同じ十四日、将軍慶喜は、武家伝奏を通じて、大政奉還の上奏を差し出した。十月十五日、内御所において各親王、摂政以下の正式朝議が開かれ、慶喜の奏請を勅許するその御沙汰書が出た。討幕の密勅が出ると日を同じくして、大政奉還建白が勅許されたことは、討幕の密勅の名義を失わせる効果をもつものであった。

【二 質問録】 岡谷繁実編「嵯峨実愛維新内外事情問録」(史談会速記録)。岡谷繁実(一八三五~一九一九)は館林藩士で、漢学文才に長じ、正親町三条実愛の知遇を得た。征長の役に際し、長州救解のために朝廷・長州間の裏面工作をおこなった。「名将言行録」等の著がある。

【三 玉松操】 一八一〇~七二。侍従山本公弘の第二子に生まれ、幼年、宇治醍醐寺に入り僧となったが、後還俗して山本毅軒、また玉松操と改称した。博学で、とくに皇学に詳しく、岩倉具視の知遇を得、その腹心として謀議に参画した。明治二年堂上に列せられ侍読となったが、新政を喜ばず辞官した。

【四 勅旨を候した】 長州藩は、先に幕府から末家および家老の上坂を命ぜられていたので、これに応ずるとの理由で、徳山藩世子毛利元功、支族吉川経幹の名代として家老宮庄主水、本藩家老毛利内匠に率兵上坂を命じた。そこで幕府はこの企てを阻止するため、末家、家老召致の中止を奏請し、十一月十四日の勅となったのである。

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  1. 2012/11/19(月) 16:15:02|
  2. 京都守護職始末2
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二十八  政権奉還の上表     『京都守護職始末2』

 政権部門に移りて二百余年     薩摩藩士小松帯刀、土佐藩士後藤象二郎らは留まって、将軍家に謁し、今日の英断で大綱はすでに定まったから、速やかに上奏あらんことを勧進した。将軍家はこれを採納し、翌十四日、松平定敬朝臣から、左の上表を奉った。

臣慶喜、謹んで皇国の沿革を考え候に、昔王綱紐を解きて相家権を執り、保平の乱により、政権部門に移りてより、臣が祖宗に至り、さらに寵眷を蒙り二百余年、子孫その職を奉ずといえども、政刑当を失うこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致すところ、慚懼に堪えず候。いわんや、当今外国の交際日に盛んなるより、いよいよ政権一途に出で申さず候わでは、綱紀立ちがたく候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷へ帰し奉り、広く天下の広義をつくし、聖断を仰ぎ、同心協力、ともに皇国を保護仕り候わば、必らずや海外万国と並び立つべく、臣慶喜、国家につくすところこれに過ぎずと存じ奉り候。なお、見込みの儀もこれあり候わば、申し聞けるべく旨、諸侯へ相達し置き候。この断、謹んで奏聞仕り候。以上。

 この日、帯刀、象二郎らは二条殿下に謁し、将軍家よりの上表を速やかに允裁あるべきを勧め、また二条城に登城して、老中に謁して、上奏がただちに勅裁ありそうな情勢であることを告げ、なお、、細目などは、不日建議すべき旨を陳べて退いた。

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  1. 2012/11/19(月) 16:00:40|
  2. 京都守護職始末2
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二十七  政権奉還の議起る     『京都守護職始末2』

 公然たる廃幕論     この時にあたり、雲上の風色はまったく一変して、次第に幕府を疎外するのみならず、ややもすれば欠点を挙げて、これを強調し、公然と廃幕を囂々(ごうごう)するに至った。
 ゆえに、わが公が一歩退けば、たちまち公武の間は全く疎隔し、また一歩進めば、たちまち朝議の紛乱を招く有様である。ただわずかに、先朝から信頼を寄せていられる二条殿下と中川宮から、朝廷の消息を伺うのみで、それだけが、からくも公武一和をつなぐ一すじの細糸であった。





 後藤象二郎来る     果せるかな、十月四日、土佐藩士の後藤象二郎が、わが藩士に会見を求めてきた。そこで、外島義直と手代木勝任、上田伝治に合わしめた。象二郎が言うには、
「方今天下の形勢は、外患日に迫り、内は人心和せず、今、一大革新を断行しなければ、おそらく手のつけられない事態に至るであろう。寡君は憂慮措くあたわず、ひそかに思うには、方今、朝命と幕命とが二途に出て、往々適従するところに迷わしめ、特に外国交際のごときは、最も至難を極めている。これを善処するには、政令が一途に出て、人心の帰嚮を一定するの一あるのみ。そもそも徳川氏が政権を執って以来三百年になる。どうして幕府が百世もつくづくことがあろうか。今や政権を万世一系の皇室へ返し奉り、この時勢の危殆を挽回し、国威を日々に新しく拡張し、皇室を泰山の安きに置くのには、ただこの一策があるのみ、と涙をふるって、二、三の家臣に命じ、今回、政権の奉還を幕府に建議した。わが藩と貴藩とは、日頃交誼親眤の間柄であるから、腹心を吐露して申し上げるのだ。どうかこの議に賛助してほしい。万一あるいは賛助されないとしても、わが藩ではこの議を中止するわけにはいかない。すでに他の一、二藩と約するところがあり【注一】、期限もまた旦夕に迫っているゆえに、告げる次第である」
 と言った。わが家臣は、帰って報告した。
 すでにして、将軍家もまたわが公を召して、土佐藩の建議を示し、採納するつもりでいるとの意中を告げた。わが公は、その英断を賞揚し、遂に政権奉還の議は決した。
 わが公は家臣を諭して、「政権が将門に帰してより、皇室の式徴は、志あるものの常に慨嘆するところであった。今や大将軍家は、大義に照らし、時勢に鑑みて、断然明決された。これよりはその意を体して、ますます忠誠をつくし、万一の報効を勉めねばなるまい。汝らも、よくこの意を体し、努力して事に従え」と言われたので、一同粛然としてその命を奉った。
 この日(十月四日)、後藤象二郎が二条城に登城し、老中板倉勝静朝臣を通して「今日の急務は、よろしく天下の広議を集め、一新更張の方針をとり、皇国独立の基礎を鞏固(きょうこ)にし、それによって外侮を防ぐことが第一である。事一日おくれれば、一日だけ宇内の大勢からおくれることになる」と上言した。
 勝静朝臣はこの言を採納し、さらに諸藩の意見を諮詢したいと答えた。





 各藩の意見を徴す     十三日(十月)、幕府は在京五十余藩の重臣らを二条城に召し(わが藩は内藤信節、外島義直、広沢安任らが登城した)、将軍家みずから左の書を示して、意見を徴した。

わが皇国、時運の沿革を観るに、昔王綱〔天子のおきて〕紐を解きて、相家権を執り、保平の乱【注二】、政権部門に移りしより、わが祖宗に至り、さらに寵眷(ちょうけん)を蒙り二百余年、子孫相受け、われ、その職を奉ずといえども、政刑当を失うこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致すところ、慚懼に堪えず候。いわんや当今、外国との交際日に盛んなるより、いよいよ朝権一途に出でず候わでは、綱紀立ちがたく候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し、広く天下の広議をつくし、聖断を仰ぎ、同心協力して、ともに皇国を保護し、必ず海外万国と並び立つべく、わが国家につくすところ、これに過ぎず候。さりながら、なお見込みの儀もこれあり候わば、いささかも忌諱を憚らず申し聞かすべく候。





 【注】

【一 他の一、二藩と約するところがあり】 慶応三年六月、土州藩の後藤象二郎は、山内豊信の命によって長崎から京都におもむく時、坂本竜馬とともに立案したのが、「船中八策」といわれるもので、政権を朝廷に帰し、広義政体の採用によって新政を樹立する方策であり、在京藩重役の同意をえて、これにもとづく大政奉還の建白をすることに決した。そこで象二郎は、薩州藩士小松帯刀、西郷吉之助を説き、その同意をえ、ついで芸州藩家老辻将曹とも会談し、賛成をえた。七月象二郎は、藩地の意向をまとめるため帰藩し、山内豊信の同意をえて、正式の藩論を決した上で、九月四日京都に帰った。しかしこの二カ月の間に、薩州藩の西郷と大久保は、挙兵倒幕の方針を実現する準備を急速にすすめていた。そして、大久保は薩藩の代表として長州を訪問し、九月十九日木戸孝允、広沢真臣ら長藩代表との間に、出兵盟約をむすび、別に薩州藩主島津茂久の弟島津備後は、九月十七日入京した。上京した後藤は、小松、西郷と合ったが、西郷は挙兵倒幕の計画を語って、大政奉還に関する貴藩との盟約を破棄する旨申し入れた、後藤は、芸州の辻の賛成をえて西郷説得に努め、ようやく十月二日、建白の提出に異論ない旨の言質をえたのである。こうして十月三日、後藤は老中板倉勝静を訪れ、山内豊信よりの大政奉還建白書を提出した。

【二 保平の乱】 保元平治の乱の略。保元の乱は、保元元年(一一五六)鳥羽法皇と崇徳上皇との不和を中心として起り、藤原頼長が崇徳上皇を奉じて政権をとろうとして、源為義、源為朝らを味方にして挙兵したが、官軍の源義朝、平清盛の軍に敗られ、上皇は讃岐に遷された戦乱。平治の乱は、平治元年(一一六〇)藤原信頼と源義朝が京都で謀叛を起し、源氏が平氏の軍に破られた戦乱。なお、第一四章注一参照。
この二つの戦乱によって、朝廷と藤原氏の勢力はとみに衰え、源平二氏を中心とする武士階級の興る気運がひらかれた。

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  1. 2012/11/19(月) 15:55:18|
  2. 京都守護職始末2
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二十六  嗣子余九麿初めて参内する     『京都守護職始末2』

 従五位下若狭守     六月九日、わが藩の嗣子余九麿が、はじめて将軍家に謁見した。将軍家は、この日、特にわが公父子を便殿に召して、宴を賜うた。
 六月二十八日になって、将軍家は余九麿を召して、親しく首服〔元服〕を加え、奏請して、従四位下侍従兼若狭守に叙任した。慶喜の喜の字を偏諱して、喜徳と名のらせ、刀一口(豊後定行作)を賜うた。わが公父子は謝礼として、太刀、馬代、巻物などを献上した。その他、静寛院宮【注一】、天璋院殿【注二】、御台所【注三】にそれぞれ献上物をした。
 越えて、七月二十三日、わが公は世子とともに参内し、任官、叙任の恩を謝し、天顔を拝し奉った。ただし、先帝の諒闇中なので、天盃を賜わることはなかった。
 これよりさき、わが公は春以来の病痾が全く癒えず、ややもすれば発病して、たちまち重きを加えることがしばしばであった。思うに、去年の大喪に、哀痛の極み、鬱憂が疾病を招来したものと思われる。家臣共はこぞって日夜痛心し、将軍家もまた憂慮された。





 東帰許可の事情     さきに幕府は、わが公の東下の内請を許しておきながら、言を左右に託して、なお、その東帰を許可しない。六月に入って、病状がすこし軽くなった。そこで、家臣を中川宮、摂政殿下、勝静朝臣のもとにやって、東帰の許可の催促をした。
 当時、在京の重臣から会津にいる重臣に送った書簡中、その時情を知るに便であるので、左に掲げる。

当十二日、板倉様へ罷り出で、主人御暇の儀、出勤致し候わば、早速御沙汰下され候よう、かねがね厚く仰せ聞けられ置き下され候ところ、ようやく当朔日出勤仕り候えども、今に何の御沙汰もこれなく候。
いかようの御都合御座あるべきや、相伺いたく罷り上り候旨申し上げ候えば、ことごとく御出勤に相成り候わば、早速御暇を仰せ出だされ候筈に候ところ、委細相弁じ候通り、今般、四藩出京しての建言等の儀については、只今御暇(おいとま)と申す所にも至り兼ね候儀に候えども、元来、止むをえざる次第これあり御暇下され候筈に候えば、この節御暇下され候外これあるまじく候えども、一旦罷り下られ、それのみにて登京致されざる含み等これあり候ては、必至と相成らざる旨仰せ聞けられ候につき、その段は、かねて御請合も申し上げおき候儀にもこれあり、且つ一年なり一年半なり御暇下され候年限中なりとも、事変と承り候わば、すぐさま駆け戻り候儀に御座候間、その段は決して御懸念下さるまじき旨を申し上げ候えば、御暇下され候に至り候ても、余九麿殿、年始、八朔、五節句【注四】の登城の儀相伺われ候うえ、御元服、首尾よくすまさせられ候うえにこれなく候わでは、相運ばざる義に候間、右伺い、急に差し出され候よう致したく、且つ摂政様、宮〔中川宮〕様にも、先だっては、御暇の儀止むをえざることと御決着に相成り居り候儀に候えども、御懸念もこれあり、この節に相至り候ては、いかが思し召し候や、なお右御両方へも、最も一応相伺い候うえ相運ぶべき旨、御懇切に仰せ聞けられ候につき、若殿様御登城御伺いの儀、早速取り計らわせ候ところ、一昨十三日、御伺いの通り仰せ進められ、且つ同日に摂政様へも罷り上り、御名(容保)御暇の儀、今に御沙汰御座なく候につき、板倉様へ罷り上がり御催促申し上げ候えば、なお御評議下さるべき旨、仰せ聞けられ候ところ、幕府より御伺い下され候わば、早速御暇下され候よう御含み下しおかれたき旨申し上げ候えば、この節に相成り候ては、別して御名殿を御留め申したきことは山々に候えども、只今強いて御留め申し候ては、御家の御ためにならざるはもちろん、押上げ天幕の御為に相成らざる儀につき、御暇下され候外これなく、委細は先だって、国情止むをえざる次第を承り留め候うえは、きっと決心罷りあり候儀に候えば、差し含み居り候はもちろんに候間、幕府の方へよく申し候よう、且つまた御暇下されて然るべしとの評議の節、宮には、只今会津家へ御暇を下され、もし跡に事変これあり候わば、いかがなされ候やなどと、御不承知の御口上等これあり候ては不都合に候間、宮へもとくと申し上げおき候よう、しかしながら、一旦罷り下り、それのみに致され候ては、決して相成らざる儀に候間、この段は、その方共も厚く相心得罷りあり候よう仰せ聞けられ候につき、御名様はもちろん、私共に致し候ても、ここもとを引き離れ候事はぞっこん相好まざる儀に候えども、かねて申し上げ候通りの件々、止むをえざるの次第これあり、御暇相願い候儀にて、事変これあり候わば、すぐさま罷り登り候儀にて、下りきりにいたし候所存など毛頭御座なく候間、その段はいささかも御懸念なし下されざるよう仕りたき旨、申し上げ候儀に候。
御名殿御暇については、その方ども、誰が残り候や、これまでよりも心易く、節々尋ねくれ候ようなどと、いろいろ御懇切の御事共にて、御一人様御居り等までも仰せ聞けられ候段々、深く深くありがたき仕合せと存じ奉り候旨、厚く御礼申し上げて退き候儀に候。
昨十四日、賀陽宮様へ罷り出で、摂政様、伊賀守(勝静朝臣は、この頃伊賀守と称していた)様へ申し上げ候都合をもって、逐一申し上げ候えば、先だってとは時勢も違い候ゆえ、御暇下され候外これあるまじくと存じ候えども、当節の形勢次第に切迫致し候。この末の見込みなどつきかね候儀、薩州なり、長州なりが暴動致さざるも、畢竟会津家を憚り候ゆえの儀に候間、今しばらく見合わせ候ようにと仰せ聞けられ候につき、主人罷り下り候とも、余九麿罷りあり、私共はじめ人数もそのまま残り居り候儀に候間、右の御懸念はさしてこれあるまじき旨申し上げ候えば、たとえ余九麿罷りあり、人数も残し置き候とも、御名罷りあり候程には、とても行き届かざるは顕然にて、且つ御名罷り下り候わば、容易に出京はこれあるまじくと、この段も案ぜられ候趣、仰せ聞けられ候につき、かねても申し上げ候通り、私の勝手をもって御暇相願い候には毛頭御座なく(中略)、御暇下され、罷り下り、再度罷り登らざる所存等毛頭御座なく、御暇下され候年限中なりとも、事変これあり候わば罷り登り候はもちろん、たとえ途中よりなりとも駆け戻り候儀にて、その段はきっと覚悟罷りあり候間、決して御案思下されざるよう仕りたき旨申し上げ候えば、大いに御うなずきの御様子にて、段々申し候趣もこれあり候については、御暇下され候外これあるまじく候えども、再度登京致さざる含みなど、いささかもこれあり候ては、必至と相成らざる儀、その方共も、きっと心得罷りあり、御用これあり、召され候わば、たしかに急速に登京致し候よう、せいぜい致すべき旨仰せ聞けられ候につき、その段きっと御請合い申し上げ、御暇の儀懇願致し候えば、差し含み罷りあるべき旨、仰せ聞けられ、且つ右については、余九麿にすこしも早く参内これあり候よう致したき旨、仰せ聞けられ候につき、そのへんの所も、よろしく願い奉り候旨を申し上げて退き候儀に候。(下略、六月十五日付)






 中川宮の憂慮     しかるに六月十六日、中川宮がわが家臣内藤信節を召して語られるには、「今日、諸公卿が俄かに参内して、殿下に何か要請しようとしているそうである。それで、殿下も、予も、病気と言って参内せず、しばらく彼らを避けて、動静を見ていようと思う。おそらく彼らの要請の大意は、毛利敬親父子の官位を復し、すみやかに上京させ、また大樹をしりぞけ、老中板倉伊賀守、小笠原壱岐守(長行朝臣、この頃壱岐守と称していた)、大目付永井玄蕃頭などを長門藩に引きつれてゆこうということと思われる。目下の情勢はかくのごとくで、如何ともなしがたい。ゆえに、宰相(わが公)が輦下に留まって、守護に精励してくれなければ、京師はたちまち不測の変を生ずるであろう。汝らも努力してほしい」ということであった。





 薄氷の上の幕府     ついで八月八日、将軍家もまたわが公を召して、親しく目下の情勢を縷々説明し、「殊に薩、土、肥前等が毛利敬親父子の官位復旧のことなどを建議し、先朝の勅詔をことごとくひるがえそうとしている。しかも朝廷は、このことを秘密にして、予に与り聞かせまいとしている。幕府の危いことは、じつに薄氷を踏むようである。一歩を誤れば、たちまち天下は擾乱となろう。ゆえに、卿も病気を勉め、東帰の念を断ち、在京して補翼されたい」と、寄命すこぶる懇篤であった。
 しかし、わが家臣の中には、なお前議をすてず、強いて東下の要請を議論するものもいた。
 わが公はこれを慰諭し、「わが藩の宗家との関係は、列藩と同じようには考えられない。宗家と衰退存亡を共にすることは、藩祖の遺訓である。今この危急の際に、宗家のひとり倒れるのを見るには忍びない。畏くも先朝の叡旨を奉体して、公武一和のため斃れて止むのみである」と言われた。
 家臣は言う言葉がなく、涙を呑んで大息するのみ。ふたたび東下を口にするものはなかった。





 【注】

【一 静寛院宮】 前将軍家茂夫人。和宮。一巻一九頁注六を見よ。

【二 天璋院】 前々将軍家定夫人。

【三 御台所】 将軍慶喜夫人。今出川実順の妹。名は省子(のち美賀子)。

【四 八朔、五節句】 八朔は陰暦八月朔日のこと。この日農家では、新穀を収めそれを祝う。五節句は、正月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)の五つの式日。
 

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  1. 2012/11/19(月) 15:39:45|
  2. 京都守護職始末2
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二十五  わが公再度参議の恩詔を拝し、これを受ける     『京都守護職始末2』

 わが公感激す     二十三日、わが公は召しによって参内、伝奏衆飛鳥井雅典卿から、左の勅を伝えられた。

先帝の叡慮を遵奉、永々守護の職掌を相励み、その功少なからず、叡感候。これによって、参議に推任され候事。

 また命があり、再度の推任であるから固辞しても允(ゆる)さないということであったので、わが公は、恩命の至渥に恐懼し、それでもなお辞退の念があったので、このことを重臣たちに謀った。重臣たちは口をそろえて、「先帝の叡慮伝々とあり、特に固辞しないようにと言われたのを、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」と言う。
 そこで、ただちに幕府に稟し、五月二日、左の上表をして恩を謝した。

不肖の容保、守護職を命ぜられて以来、先帝の海嶽の厚眷、かつて分寸の功労もこれなく、恐懼仕り居り候ところ、料(はか)らずも天崩れ、地折れ、臣の慟哭、この上なく御座候。なお、報恩の道を日夜に心配仕り候えども、今上〔天皇〕御継述の日なお少なく、臣将順の儀も未だ浅し。
しかるに今般、存じ寄らず先帝の叡慮を遵奉し、永々守護の職掌を相励み、その功少なからずとの叡感思し召され、参議に推任せられる旨仰せ下され、伏謝して感泣す。すでに先年、参議を推任せられるの旨、御沙汰を蒙り、臣が不肖の堪ゆるところにこれなきをもって、先祖正之へ御追贈の儀を願の通り仰せつけられ、臣が栄耀これにすぎざる儀に御座候。
然るところ、またまたこの度の御寵命、重々の天恩、幾重にも辞謙申し上ぐべき儀に御座候えども、微衷を御垂憐のうえ、両朝のかくまでの御重命をこの上固辞仕り候ては、かえって恐縮至極に御座候間、その趣を幕府へも相伺い、謹んで御請け申し上げ奉り候。以上






 四藩主の建白     四月二十三日、慶永卿、豊信朝臣、久光朝臣、宗城朝臣が左の書状を幕府に奉り、意見を述べてきた。

天下の大政は公明正大、至公の極をつくし、明世的当、内外緩急の弁を明らかにし、御施行御座なく候わでは、相行なわれがたき儀もちろんに候。全体救うべからざるの今日に至りたる根由を推察仕り候えば、はばかりながら幕府の年来の御失体より醸し出され候。殊に長防再討の御一挙より、物議沸騰し、天下離反の姿に相及び候次第に御座候。
これによって、明日至当の筋をもって防長御処置急務たるべく、兵庫開港、防長の事件は、大いに緩急、先後、順序あるの段談合の上、しばしば建言仕り候儀にて、とくと退考仕り候ところ、右区別をもって曲直、当否の分を立てさせられ、御反正の御実跡の顕(あら)わるると顕われざるとに相拘わる事につき、虚心をもって御反察あらせられ候よう願い奉り候。
二件につき、朝廷に奉せしめらるべき旨拝承仕り候えども、全国の御安危に関係仕り候につき、是非、至公至大の道をもって、私権を抜かせられ、治久の大策を立てさせられ候よう御座ありたく、重大の事柄黙止しがたく、なお再考の趣言上仕り候。誠惶敬白。(五月二十三日


 これでみると、けだし防長のことを先にし、兵庫のことを後にずべしと言っているもののようである。





 衆論嗷々     二十四日、朝廷は諸侯を召し、この問題を延議せしめたところ、衆論嗷嗷として、ようやく翌朝になって、開港の止むをえないことに決定した。そこで、朝廷は左の勅令を配布した。

長防の儀、昨年上京の諸藩と、当年上京の四藩等、各々寛大の処置を御沙汰あるべく言上、大樹に於ても、寛大の処置を言上これあり、朝廷にも同様に思し召され候間、早々寛大の処置を計らるべきこと。
兵庫開港のことは、元来容易ならず、殊に先帝止めおかせられ候えども、大樹、余儀なき時勢を言上し、かつ諸藩の建白の趣もこれあり、当節上京の四藩も同様に申し上げ候間、まことに止むを得させられず、御差し許しに相成り候。ついては、諸事きっと取締り相立て申すべきこと。
  五月二十四日


 追達
兵庫止められ候こと、条約結約【注一】のこと、右取り消され候。


 この日、久光、豊信の二朝臣は、朝議に参列しなかったのに、「四藩も同様に」云々の言葉があるのは、怪しむべきことのようである。





 再び四藩主建白     つづいて、二十六日に至って、四人の人々が上書【注二】して、意見を述べてきた。その書面いわく、

兵庫開港、長防処置の一件は、当時容易ならざる御大事と存じ奉り候。全体、幕府の長防再討の妄挙は、無名の師を動かし、平威をもって圧倒致すべき心づもりに候ところ、全く奏功に至らず、天下の騒乱を引き出し候次第ゆえ、各藩人離反して、物議相起り候時宜に御座候。ついては、即今、国基を立てさせられ候急務は、公明正大の御処置をもって天下にのぞませられず候わでは、一円治り相付かず候。
長防の儀は、大膳父子の官位旧に戻し、平常の御沙汰に相成り、幕府反正の実跡相立て候儀第一と相心得申し候間、断然明白の実蹟相顕われ候うえ、天下の人心はじめて安堵仕るべく候。第二に、兵庫開港は、時勢相当の処置を立てさせされ、順序を得申すべくかねて勘考仕り候。先に御下問を蒙り候えども、未だ一同、勅問に対しお答え仕らざるうち、前文二件、順序区別をもって幕府へしばしば申し出でおき候ところ、一昨二十四日、長防の儀は寛大の処置を計らるべく、兵庫開港の儀は、当節上京の四藩も同様に申し上げ候間、まことに止むを得させられず御差し許しに相成り候云々の御沙汰の御書付を拝見し、じつもって意外の次第、驚愕に堪えざる仕合わせに御座候。
朝廷よりの御沙汰の儀なれば、容易に申し上げ奉るべき筋これなく、甚だ恐縮の至りに存じ奉り候えども、皇国の重大事なれば、事実相違の儀を黙止し罷りあり候場合に御座なく候間、止むをえず、一応御伺い上げ候。以上。(卯年五月二十六日)






 薩長提携成る     敬親の家臣らが禁闕に向って発砲したごときは、その罪を免かるべきでないことである。しかるに、それを今、何のいわれもなく、官位の復旧を論議するなどとは、じつに理解できないことである。また、「無名の師」云々の口実も、前に論じたごとく、慶勝卿の退兵を曲解したもので、再征と称するが、じつはこれも再征でなくして、退兵したのを再度集合させたにすぎない。
 思うに、この頃、薩長の提携全く成り、薩摩は幕府を攻める口実として、長州再征問題を言い出したのであろう。それにしても、慶永卿らの意中こそ奇怪至極である。





 【注】

【一 条約結約】 『徳川慶喜公伝』によれば「条約結改」となっている。条約改正の意味である。

【二 四人の人々が上書】 四月二十三日の松平慶永・山内豊信・島津久光・伊達宗城連署の建白書は、長州処分を寛大にして、この問題を解決するを先決すべしという勅旨であった。これにたいし幕府は兵庫開港の勅許を主眼としたが、四侯の建議に鑑み、長州処分と兵庫開港の同時解決を奏承することとした。朝議には、慶永、宗城のみが加わり、摂政の要請にもかかわらず、久光は病と称して応じなかった。薩州藩は、二十四日の御沙汰書中に、四藩と幕府と同意見のように扱っているのは、事実と相違していると不満をもち、この点を明らかにする伺書を朝廷に出すことを越前・土州・宇和島に交渉した。宗城はただちに同意し、慶永・豊信は強いて反対しなかったので、薩州藩の手で、二十六日付伺書を四藩の名で提出することとなった。
思うに、薩州としては、異論のきわめて多い両問題につき、幕府と責任をともにするのを嫌ったのである。慶永は、他の三藩と幕府との間を仲介しようとしたが、幕府としては、長州藩の嘆願書の提出をまって、藩主父子の官位復旧、領地安堵の処置をとることで、自己の両目を保とうとし、この方針を固辞したため、慶永の尽力も奏効しなかった。
八月四日、朝廷は、先の四藩の伺書にたいする返答の御沙汰書を出した。その内容は、長州処分の寛大と兵庫開港は幕府と同一なので、御取捨の上仰せ出されたのだというあいまいなもので、慶永は服したが、久光と宗城は承服せず、再度伺書を出した。こうして四侯と幕府・朝廷との関係は悪化したので、慶永・久光・宗城は八月に帰藩してしまった(豊信は早く五月帰藩)。
すでにこの時薩州の藩論は、倒幕の実行にかたまり、倒幕のための薩長芸同盟締結の交渉に着手していた。

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  1. 2012/11/19(月) 15:27:10|
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