いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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仙台兵の退去

仙台兵の退去

 この時に当り須賀川に陣したる仙台兵は、前後に敵を受け、久しく止まること能はず、総督坂英力は大軍を率いて国に帰らんとせるに、たまたま飛語ありいわく、西軍すでに八丁目(今の信夫郡松川村)に進むと、よって本道より進むの勇なく、薄暮兵を収めて石莚(勝軍山又保成峠とも云う)口に来る、我が将和田八兵衛、北原半介山上の営に在り、半介出でゝ来意を問う、仙将等いわく、前途すでに塞がり本道より弊領地に入るべからず、ゆえに貴封内を過ぎ米沢を経て帰らんとす、半介いわく、この大兵あり路を敵地に開くに何のごときあらんや、今や我が藩兵力を四方に割き寡兵を以て二本松城を回復すること能はざるを憾む、願わくば貴藩これに任ぜよと、仙将等いわく、兵士は疲労し弾薬は欠乏し如何ともするなしと、半介その戦意なきを察し、あえて強いずしてその求めに応ず、仙台兵山上に充満し、わずかに将校を仮営に入るゝに過ぎず、兵士は皆露宿し火を焚きて暖を取る、半介等奔走指揮し辛うじて糧食を供す、かくして仙台兵は猪苗代を過ぎて米沢に入る、仙将日野徳次郎、細谷十太夫等隊兵を率いて尚山上の営に止まりしが、後ついに福島を経て仙台に帰る〔七年史、仙台戊辰史〕。
 八月朔日輪王寺法親王左の手書を伊達慶邦朝臣に賜う。

暄凉適身之候愈御清営令大悦候扨今暁片倉小十郎之急報側向之者内々披露之処其書に云く二本松も落城福島も立退同所軍事局も引拂追々米沢若松始出張之人数繰返し賊兵勝に乗じ川筋も段々下がり瀬上辺へも追々押入桑折宿陣も無心元依て直々引返候云々と右之様子にては早速御国境へも立入候哉に相聞至急之場合と存候間大奮発被有之不囘時日賊徒討滅候半では不相成事にて此方にも甚心細く存候乍御苦労速に御出陣諸隊勉励目出度成功候様致し度此旨極内々御頼申入候余情理乗院より可申述候也
 八月朔日夜認
公現
中将殿
再白時下折角御厭専要に存候本分之趣内々之事に付必す御他言御無用致度候也早々〔七年史、仙台戊辰史、仙台藩戊辰始末〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/11(月) 12:39:13|
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二本松城の陥落

二本松城の陥落

 福島城主板倉勝尚主は二本松落城を聞き、主従共に米沢に遁れたるが、米沢にては勝尚主およびその臣二三の国に入るを許したるも、その他は入れざるを以て諸臣止むことを得ず、また福島に帰る、福島城空虚なること数日なりき。





卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/11(月) 12:27:02|
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守山の降伏

守山の降伏

 七月二十五日蓬田(石川郡蓬田村の大字)の東軍は浜街道の西軍小野新町に向うと聞き、この地を空うしてこれに赴き、且つ三春反盟の色明らかなるを以て、守山藩は孤立の状に陥りついに西軍に降れり〔会津戊辰戦史〕。
 七月二十七日三春藩いよいよ同盟に背きて西軍に降り、薩州、土州、忍、舘林、黒羽、彦根等の兵を導きまさに二本松城を攻めんとす、これにおいて列藩急に兵を発して二本松軍を援く、西軍本宮を攻む、我が兵本宮を守り逢隈川を隔てゝ防戦す、西兵川を渡りて東軍に当り、土州断金隊々長美正貫一郎中流に兵を叱咤して進む、我が兵狙撃してこれを倒す、仙台の将鹽森主税、細谷十太夫、大立目武蔵赴き戦うも支ふる能はず高倉(陸奥街道の一部落にて本宮の南一里弱に在り)に退き、大松澤帰部之輔の兵を合わせて高倉山により銃戦これを久うす、すでにして西軍大挙して来り攻む、仙台兵ついに敗れ西軍本宮による〔仙台戊辰史〕、これにおいて二本松危急に迫る、この夜軍議を城中に開く、あるいは降らんと云い、あるいは戦わんと云い決する所あらず、藩相丹羽一学慨然としていわく、同盟に背き信を失い敵に降りる人これを何とか言わん、むしろ死を致して信を守るにしかずと、議すなわち決す〔二本松藩史〕。
 七月二十九日二本松城東小浜(安達郡小浜町)に屯せる西軍の薩、長、備前、佐土原の兵は拂暁三春藩兵を嚮導として逢隈川の前岸に達し、二本松兵と河を隔て砲戦良々久うしてついに河を渉りて進み、供中口を破りて直進す、会津、仙台の兵来り援けしも衆寡敵せず、敵郭内に乱入す、この時に当り一方本宮を発せる薩、土、大垣、忍、舘林、黒羽の兵はまた三春兵の嚮導により正法寺に向って進み、兵を交え次いで大壇(正法寺、大壇供に陸奥街道に在り)に迫り、激戦互いに勝敗あり〔二本松藩史〕、時に仙台の将氏家兵庫兵を率いて松坂(松坂門は二本松城り南隅の門なり)口に出て戦い、我が井深守之進隊、櫻井弥一右衛門隊は本宮口に在りて奮戦す、使者甚だ多し、櫻井隊(朱雀二番足軽隊なり)のごときは中隊頭弥一右衛門重傷を負い、小隊頭小笠原主膳は戦死し隊員の半数を失う、すでにして敵の一隊は城後を襲い三面合撃す、時に二本松の兵大半出でゝ白河方面に在り、守城の兵甚だ少なく新たに老少を募りてこれに充つ、なお能く殊死防戦すといえども城外の援軍皆敗退して如何ともする能はず、城まさに陥らんとす、重臣等は城主丹羽左京大夫主をして囲を衝いて米沢に、夫人をして会津に遁れしめ、藩相丹羽一学、城代服部久左衛門、同丹羽和左衛門、郡伏見習丹羽新十郎火を牙城に放ち、従容として自刃し、以て国難に殉し、城ついに陥る、その壮烈なる反盟諸藩士を愧死せしむるに足れり。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1





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  1. 2013/02/10(日) 17:14:11|
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棚倉回復戦の不成功

棚倉回復戦の不成功

 七月十六日我が兵、仙台、二本松、三春、棚倉の兵を合し棚倉城を回復せんとし、石川郡浅川村より兵を進め、浅川の渡頭を隔てゝ銃撃す、西軍釜子より来りて我が兵を破り浅川の背後を衝く、三春兵途上より離反し西軍に投じて反撃す、ゆえに東軍すこぶる苦戦し死傷多くついに退く、これにおいて列藩兵を須賀川および郡山に収む、この前後三春、守山二藩の挙動すこぶる疑うべきものあるを以て、仙台の細谷十太夫部下に命じて偵察せしめたるに反盟の形跡明らかなり、よりて列藩の諸将相議して三春、守山を討たんとす、仙台の将氏家兵庫いわく、二藩反盟の疑ありといえども未だ明白ならざるに、同盟の藩を討たば、これより人心離反せん、予三春に至り親しくその動静を探らんと、すなわち三春に至り重臣に面してこれを詰る、重臣等欺きていわく、弊藩決して同盟に背かず、十六日の事は真に一時の錯誤に出づと、兵庫悟らず帰りて諸将に告ぐ、諸将またこれを疑わずついに大敗を招くに至れり〔仙台戊辰史〕、小藩が両強軍の衝に在りて存亡の危急に際し、進退の節を変ずるは多少憫察すべきの事情なきにあらずといえども、初は深く秘してその進退を明かにせず、両軍に均しく孤媚を呈し、一朝決意するや、たちまち反噬の毒を逞うせる者、東に三春あり、西に新発田あり。
 この日東海岸方面においては、仙台兵は常盤街道を進み、米沢の兵に西方松林の間に伏し、純義隊、彰義隊、中村の兵は東海岸の防波堤により西軍の来るを待つ、しばらくして西軍大に来り仙台兵に迫り砲銃隊乱射す、仙台兵進んで戦うといえども衆寡敵せずして退く、西軍の追撃すこぶる急なり、この時西方の林間に伏したる米沢兵と東海岸の諸兵と共に起こりて西軍の背後を衝く、西軍狼狽し屍を越えて走る、東軍勝ちに乗じて追撃して四ッ倉に走らす、西軍殺傷過当、東軍の傷兵はわずかに十余人に過ぎず、この日兵を熊野に収む、列藩の将校相議していわく、東軍大旋を得るも援なし、しかして西軍ますます加はり勢支ふべからず、各兵を率いて国に帰るにしかずと、十七日全軍酒を酌んで告別し、互いに戦闘辛酸の労を慰し、十八日兵を各封内に収む、林昌之助はこの地を去り二十二日若松に入り、入城して両公に対面す、人見勝太郎は仙台に至る〔林一夢日記、七年史、仙台戊辰史〕。

{按ずるに東軍が兵を各封内に収めて友藩相馬を孤立せしむるに至りしは武士道上赦すべからざる罪悪なり、この東軍の内に会津兵は純義隊一隊のみ、ただし兵卒は旧幕府の招募兵にて隊長小池周吾および幹部に数人の会津兵ありき、これらの人々は責任を免れ難きは勿論なり。}




卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/10(日) 13:11:15|
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法親王軍務を総攬す

法親王軍務を総攬す

 七月十三日法親王白石城に移る、仙台の額兵隊(皆西洋兵式を学ぶ者、星恂太郎これに長たり、仙台第一の精兵にして、服色は英式に習いて赤色を用い、戦に臨み裏を転じて黒色となすの方法なり)従って警衛す〔仙台戊辰始末〕、板倉、小笠原両侯、片倉小十郎城外に迎ふ、これより法親王奥羽列藩の推戴を容れ軍務を総攬す、仙台藩相但木土佐等もっぱら従待す。
 七月十四日子の刻仙台兵根田に至る、その将泉田志摩は途中大和久(矢吹の近くその南に在り)より遁れてついに戦地に至らず、会々大雨泥濘脛を没し進退意の如くならざりき。
 同十五日東軍白河城を攻撃せんとし、昧爽上小屋を発し、一番砲兵隊木本隊は長坂方面に向い、鈴木式武隊、井深守之進隊、杉田兵庫隊、野田進隊、仙台兵は大谷地方面に向かう、坂平三郎は山神山を扼す、砲兵隊の陣地は地の利を得ず、西兵接近し来り山上より砲撃す、砲兵隊応戦せしも、本道大谷地方面の諸隊利あらずして退却し、西兵我が背後を衝かんとしたれば兵を上小屋に収む〔小原書出〕。
 この日阿部葆真主白石城に至り法親王に謁し、板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣と共に軍議を裁断す、また米沢藩下条外記白石に来りていわく、寡君白石に来り法親王に謁せんとしたるに、十一日秋田封境に苦戦し我が兵利を失い、親兵を出してこれを援くるを以て来ること能はずと〔南摩筆記〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/09(土) 15:54:11|
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