いがぐり史料館

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天神口の進撃

天神口の進撃

 鶴ヶ城内城の諸口中、三の丸の南門最も手薄なり、しかして外郭の天神口は南門より僅かに一丁に過ぎず、如し天神口にして破れんか三の丸甚だ危うし、北出丸、西北丸諸口の容易く破るべからざるにより、三の丸南門の手薄なるを知れるか知らざりしか、大町通りを南進せし敵の部隊は、南町口を出で天神口外郭門に迫れり。

{この時敵の進路につき石黒則賢は本文のごとく主張し、藤澤正啓は城の東西を回りて進みしと主張す『若松記』また元北原釆女の臣荒川類右衛門勝茂の『明治日誌』によれば、進撃隊は敵兵を追いて西に向って進みしなり、これより察すれば敵は四方に退却せること明白なり、普通の場合進路より退却するものなれば石黒の説に従う。}

 この時城内には編制せる軍隊なしと云うもべきなり、ゆえに急遽居合せたる人を以て一隊を編成し、小室金五左衛門を隊長とし、入江庄兵衛、武井柯亭、和田伝蔵を組頭とす。

{石黒則賢の話によれば別に隊長を命ぜられしを聞かずと、併し諸人の説を総合するに本文の如くなるべし『戊辰殉難名簿』に和田伝蔵附、また入江組などあれば、入江、武井、和田の三人が組頭を命ぜられしものゝ如し、当時非常なる混雑の際にて隊長、組頭の任命が隊士に普く知れ渡らざりしなるべし。
『明治日誌』によれば山浦鐡四郎もまた将長の一人なりしが如し。
武井柯亭が書きたるものゝなかに、
『石筵戦不利、亀城亦随而陥矣、敵直進迫鶴城、而南門最急、公至此使勒城中精兵拒焉、其兵僅々不満百、小室某将之、余輿入江某佐之、隙黒川而戦、我衆奮闘乱流、中流斃者十数人、河水為之亦、実明治元年戊辰八月二十有三日也。 柯亭琹士泰。
厳令新下募貔貅、正是人臣致命秋、東照宮前連砲碽、管公遺恨誓将報、数世鴻恩奈叵酬、雷鳴天若墨、淄川忽作赤川流。
とあれば武井と入江とが組頭たりしは疑を入れず、今『名簿』に従い和田伝蔵をも組頭に加ふ。
外郭天神口の南に東照宮あり、湯川は元黒川と云う、淄川は即ち黒川にて湯川を云う。
『若松記』に『小室礒上入江等を頭括の任に命ぜられ』とあり、また進撃者名簿の内に礒上内蔵丞の名あり、また八月二十四日に新に編成せられたる小室進撃隊の組頭に礒上内蔵之丞が命ぜられ、武井柯亭は反て其の下にて甲長に命ぜられたり、これより見れば二十三日進撃の時組頭にはあらざるか、併し少数の隊に組頭の四人ありしは疑うべし、これも混雑の際なれば斯ることも有り得べきなり。

この進撃に『若松記』に左の記事あり。
 しかるに斯迫るにおいては進撃に不若と城中に有合輩二十歳より三十五歳に至るまで文武の官に限らず大広間前(御広間の誤なり)に着到すべきの令再三あり、令を聞て馳せ集まる者年齢に不限義心決心の輩八九十人その大概

頭 小室金五左衛門 
組頭 武井柯亭
礒上内蔵之丞
入江庄兵衛
山口栄吉
八島清三郎
外田数馬
野村権之進
村松八太郎
渡部多門
高田正作
渡部彦太
沼田吉彌
荒川類右衛門
小林薫之進
山田熊之助
栗原市次郎
榊原市次郎
赤井伴助
兼子善助
齋藤市太郎
牧野留五郎
齋藤長助
齋藤岩治
高橋勇三郎
小山萬五郎
和田伝蔵
鈴木延次郎
山田伴助
齋藤右近
津吉啓治
仁科勇八
赤塚喜三郎
柳下恒吉
太田喜市
川井留五郎
安藤監治
春日郡吾
梶原悌蔵
島田治兵衛
平向俊吾
津村粂之助
角田覚四郎
赤塚彦三郎
三瓶忠蔵
石黒恒松
軍目付 井深右近
高津安之助
板橋友蔵(『名簿』に別選組佐川隊、某所傷若松病院、また『若松記』に『手負後死す』とあり、また『名簿』に板橋丑鐡、進撃小室隊八月二十三日天神下とあり、思うに友蔵は丑鐡の誤りならんか)
大和田亀三郎(亀太郎なるべし後のに掲ぐる天神口戦死者氏名表を見るべ)
野村源次郎
山浦鐡四郎
軍目付 千葉盛之進
川上小膳


{編者云う右は第一回の進撃に加わりたる人のみにあらず、第二回の進撃に加わりたる人をも含む、また右の表より洩れたる人もあるべし。}

 進撃の君命を蒙り辱くも昵近(昵近の士が酒の酌をなしたるを云うなるべし)を以て酒を給り西郷頼母取合(君公の命を伝ふるを云う)にて紐制の輩は士中に、襟制の者は三の寄合(会津藩諸職班位表を見よ)に座席を進められ小室、礒上、入江等を頭括の任に命ぜられ上下義心決心凝定三の丸南に集まりたり此頃長州一中隊(これ土州の兵なるが如し、なお調ぶべし)計り南町大橋の辺より湯川に沿て登り来り天神口に迫りて頻に発砲(砲の誤りなり後にも同じ誤りあり)する故門の守兵其他有合丸山喜内、中野輿五郎、目黒源兵衛等進撃せんとする処に浅羽忠之助等も来り小室以下を始めとして一同閧を作り門を開けて必死の鋒を連て突衝しければ敵も頻に発砲せしかど我兵怖るゝ色なく死傷を蹈越し々々短兵急に接ければ其鋒先当りがたくや思いけん忽ち敗走して湯川を渉り淨松寺の石塔を楯とし打放せし故我兵忽河辺に進者二十有余人戦死一先づ郭内(外廓内即天神口門内を云う)に兵を揚げて石垣堤杉等を楯とし暫く炮発敵を退けたり其隙に敵の足溜りを除んと延壽寺(天神口内東照宮の別当なり)、御宮(東照宮なり)に火を放つ佐々木盛之助、渡部多門等、梶原平馬(藩の家老なり)の令を伝へて豊岡社(藩祖以下を祀る社にて東照宮の東に在り)へ火を放つ夫より天神郭(口とすべきか)を守りたり〔若松記〕。

{小室金五左衛門の孫小室英夫が、金五左衛門の従者穴澤友吉に聞きたる天神口進撃の記事会津会々報第十七号に在り、その内に、
『八月二十三日午後一時過ぎ祖父は之等の兵(前に四十五名を集め得たる記事あり)を率い六月十二日(白河方面に戦ありし日を云う)頬の傷口のために繃帯を為せるまゝ指揮刀の代わりに三尺許なる葉のつける松の枝を持ち先頭に立ちて城を出で周囲の敵を迫(追の誤なるべし)い拂ひ大町通り鈴木作右衛門の家敷迄焼き拂ひて城に引上げたり生存者十五名これ第一回進撃なり、帰来直ちに黒鐡御門にてその結果を容保公に言上せしに御嘉賞ありて祖父は若年寄上席に進められし由(祖父が友吉に向いて「金五左衛門に付き南御門天神橋に進撃致しました」と申し上げよと云いし故に友吉は西郷頼母に之を告げしに「一の寄合を申し付く」と申し渡されしと云う云々』会津会会報}


 また鉄砲の精兵をすぐり礒上倉(内蔵の誤)之丞指揮し渡部多門、山口栄吉等二十余人南郭門(天神口の西にあり)に出て打んとするに学校(日新館なり)の潜敵勵しく発砲ゆえに暫く米庫(内城西北出丸の南廓内にあり俗に十八蔵と云う)の北堀端の小堤を胸壁として打合といえども功も見えざれば先づ讃岐口(西北丸の南門)より入城君前に出て形情を伸す。

{前に掲げたる穴澤友吉の説によれば、進撃隊は敵の北ぐるを追い郭外において西下し、南町口即ち南郭門を入り鈴木作右衛門邸付近まで進み、夫より帰城したるものゝ如くなれば、磯上が指揮して戦いたるは此の時のことを云うべし。}

 春日郡吾浅羽忠之助等進で天神橋を渡りしが敵中に入りて城中に返し入る不能彼是六人南面川に至る〔若松記〕。

 扨此小室等進撃に及ばんとして競い進む時西郷勇左衛門(近潔、この時若年寄なり、三ノ丸南門付近に居りしならん)兵を分ちて豊岡の方にも赴くべき旨下令すといえども燃光の気充満各先進を争い耳に入るゝ者なく中に鹿目幸之助、小山萬五郎、齋藤幸助等六七人豊岡守衛に向はしむ輙命を受けて直に豊岡に至りしが止守詮なしと柵を躍り出川端(堀端の誤か)に赴き鹿目以下三人の者共四五発づゝ発砲、敵は川向より烈しく打放難敵三人取て返し西郷勇左衛門に兵二三十人の援を請う、勇左衛門云向はしむべき兵無樓(本丸と二ノ丸との間の堀に架したる橋の名)、陣将(家老梶原平馬なるべし)に赴いて乞うべしと、ゆえに鹿目、齋藤走りて廊下橋に至り乞といえども同く寡兵なり、鐡門に至て乞うべしと不得止又鐡門に趣西郷頼母に委細を達すれば至極然りといえども爰もまた差向べき兵隊もなし、汝ら馳廻て兵を集むべしと云此節君前にて両人進撃嚮導に被命奥番(君側の役、小性の故参者命ぜらるゝ例なり)中田常太郎も周旋して兵を集め稍集るといえども頭なき故漸々散す故に鹿目、齋藤等頭括する仁を乞即刻山浦鐡四郎(手負いにて傷病兵を収容したる大書院に有しか蒙命強て出つ)公に謁し、兵衆も共に公に拝謁し流杯(貴人より賜る杯酒をオナガレと云う)を賜り感戴し血戦を盟て廊下橋に兵を揃ひ直に豊岡に向ふ兵数十人余(若松記、山浦を長としたる一隊は元豊岡守衛の為、編成せられしものなれども其の一部のみが豊岡を守衛することゝなり残余は第二回の進撃に加わることゝなりしならん)此比小室隊を始天神口より突衝する者共すこぶる苦戦ついに敵を追退くといえども我兵の死傷甚だ多ければ一先づ兵を掲げ重て進撃すべしと梶原平馬馬を馳せて赴き令す、故に兵衆一同城中に掲げ君公直に兵衆召労り且つ再び同所進撃の命を受〔若松記〕。

{小室隊の一部は讃岐口より入城せるも、一部は天神口に止まりたるにより梶原の命にて入城せしが如し、隊長小室は何れのところにありしか詳ならず}

 延壽寺前に勢ぞろいし一同閧を作り突て出でければ敵散乱し小室隊は文明寺前(この時野村源次郎疾進して文明寺に火を放ち焔燃)山浦隊は竪町と両道に分つて追撃せんと欲する処、文明寺前火上て小室隊進む不能川を渡て湯川に沿て下り追遂(この字不明)するに敵退きて更に不見漆原にて両隊併合花畑口より入り云々〔若松記〕。

 進撃隊の一員たりし荒川茂の『明治日誌』に進撃の概状を記述すること次の如し。
『敵追々に城に迫り弾丸雨の如し城中よりも有合の銃砲を以て防戦の道を尽くさんと塀に臨めば敵の弾丸塀を貫き傷く者多分これあり櫓より楯を出して砲を防ぐ、然るに天神口大切迫に相成り敵討入らんとするを以て騒ぎ立ちたり早く進撃致すべき命令頻りなり、その時奥番田中常太郎を以て釆女臣も進撃に差出たせと御意之あり。

{この時より籠城中君公は鐡門即ち黒金門に居住せられ、釆女は君側にあり、勝茂もその付近に在りしなるべし。}

 よりて荒川類右衛門、富田三郎、櫻田勇(何れも釆女の家来なり)三人釆女君一同御前に出れば常太郎御披露にて御二方様(老公父子を云う)へ御目付被仰付三人御直臣に被召出類右衛門儀士中一の寄合三郎勇二の寄合席に西郷殿より仰渡され、

{荒川勝茂は北原の世臣にて陪臣なれども家禄百三十石を領し、獨禮目見し茶紐を許され居りし者なるが、激励の意にて異数の陞進を許し士分となし黒紐を許され、富田三郎、櫻田勇は浅黄紐の者なりしが、これまた士分となし花色紐を許されたるなり、石黒則賢の話に此の時士分は物頭席に、士分以下は士分に取立てられたりと云う。}

 恐れ多くも宰相公より御流の御戴頂戴被仰付御酌は御小性御坊主、

{武家の城中等にて今の給士の如き役を勤むる者の内若きは有髪なり、これを会津にては毛坊主と呼び、年長者は剃髪せり、総称して同朋または御坊主と云う。}

 を以て御肴鯡を賜り存分に進撃致すべき旨御直の御意を蒙り誠に以て身に余り感涙膽に銘じ御前を退き山浦鐡四郎を主とし総勢三十八人程その内鉄砲二十人程余は鎗組なり、樓下橋にて勢ぞろいなしたり其の時に一首を詠ず。

進撃にいつるとて白麻はちまき
にかいつくる

かはねをは野山によしやさらすとも
おくれはとらし武士の道

  荒川類右衛門勝茂(行年三十七歳)


 斯くて刻限は八ッ半頃一同閧を作て天神口より討て出で元より討死と一同固く誓約なせし事なれば跡へは一足も引かじと無二無三に突入討るゝ屍を乗り越乗り越喚き叫んで進みけるに敵も其の勢ひに怖れ敗走す、得たりと追撃す、惜しむべし憐れむべし湯川川原にて忽ち二十人余討死す、敵の足溜りなる延壽寺へ火を放ち、

{荒川勝茂は進撃を一回とすれども『若松記』並びに穴澤友吉の談によれば其の二回なること疑なし、記憶の間違いならんが不審なることなり、また二回目の進撃の三時此なりしは『日誌』と穴澤談符合す、その時の死者は野村源次郎一人なりしは『若松記』と『日誌』と符合す、穴澤は富田三郎を負傷者とし、他に死傷者なしとすれども野村の死は争うべきならず、穴澤談『若松記』は富田三郎のみを負傷者とすれども『日誌』は外に井深右近を負傷者とす。}

 小室組は文明(寺の字を脱す)前山浦組は堅町を下り林昌寺へ入り湯川を徒渉して小室組と合兵となり(徒渉のこと、合兵のこと、『若松記』と小相違あり)諏訪通りより(花畑口より入りしこと『若松記』にあり)郭内へ入り一ノ丁へ出て堀半兵衛(半右衛門の誤なり)邸の裏門打ち破り鎗組閧を作りて一同打入りたり鉄砲組は大町通りへ向う鎗組長屋に入れは焼火ありて敵は逃げ失せたりか、ますます進んで北原邸へ入れば、これも廚の圍爐裏へ火を焼き兵粮等を炊きし有様にて敵は皆逃失けり、一同閧三声を揚げ門を出て北方を臨めば敵は街道を理(埋の誤か)みて押寄せたり、東西二方より砲声聞へ亦一ノ丁より発砲し味方の後を断んとす、来る弾丸は雨の如し、山浦大音掲げ敵に後を断れば味方皆殺しとなる疾く引き揚げよと、ありけれは一同引て御用屋敷裏門を破て御庭へ飛入る其の暇に野村源次郎打貫かれ介錯々々と叫へと早や敵は雲霞の如く群がり来る介錯の暇もなく御殿へ入れば御座の御品々は取り乱れ実に哀れなる有様なり、一同免れぬ処なり御殿に火を放ち自刃せんと火を放ち(この四字重復せり)一同覚悟を極めたりしに、山浦声を懸け無益なり如何にしても此場を免れ城中へ入り再挙を謀るべしと頻りなり、皆これに応じ散り散りとなり裏門より遁れ出しは飛丸雨霰の如し米代一ノ丁の川を匍匐し割場の塀へ依り沿へて身を以て免れ西出丸御門より引き揚げたり時に手負いは井深右近、富田三郎股を打抜る白刃を杖とし御門に仆る穴澤最助肩を打抜る戸扉に載せ小書院病院へ送る野村源次郎は大町通り御用屋敷角にて咽を突て死す愍むに堪たり直ちに君の御目見被仰付進撃の景状具に上聞に達す、その人々には長坂源吾、荒川類衛門、三留又右衛門その他は不明なり、皆感涙に咽ふ扨進撃の者一同相纏ひ居り候様被仰付此夜は御広間において夜を明したり。

{但し右言上の諸士(荒川三留なるべし、長坂は士分なれば供番より上席の進級ありたるなるべし)西郷頼母御取合にて於御前に御供番に成し下され候事』}

 右『若松記』並びに荒川勝茂の『日誌』にて進撃の状況を知るべし、如し此の進撃により敵を撃退するにあらざりせば、三の丸は敵に占領せらるゝに至りしなるべし、これが為に落城するに至らずとするも三の丸に在りし老女婦女子の被るべき損害は多大なるべきに、決心せる諸士の奮闘により此の損害を末然に防ぎ得しは幸なりき、且つ此の手いたき防戦により単なる突撃の奏功なきを知りたるか、西軍はこれより後持久して砲撃戦を以て城を陥るゝの策を取り突撃することなかりき。
 斯くて翌二十四日天神口進撃の人々に他の人々を加え、新に進撃隊と称する一隊編制せられ、小室当節隊長を、礒上内蔵之丞副長を武井完平、安藤監治、三澤輿八、梶原悌蔵を甲長に命ぜられ、槍組三組、砲組三組、人員およそ八十七人とす。

 天神口進撃の戦死者

入江庄兵衛 組頭表用人席 百三十石 五十三歳

和田伝蔵 組頭 二百五十石 四十歳

小松忠之進(忠兵衛倅) 玄武 百石(忠兵衛禄か) 五十三歳

津吉啓治(啓太倅) 物頭席 百石(啓太禄か) 二十四歳

大戸新八郎  十石三人扶持 五十二歳

鈴木廷次郎 目付席 十石二人扶持 三十歳

矢島清三郎 目付席 七石二人扶持 二十三歳

山田伴助 目付席 十石二人扶持 二十八歳

仁科勇八 目付席 六石二人扶持 四十歳

平向俊吾 目付席 十一石二人扶持 三十九歳

齋藤右近(飯田左門弟) 十五石三人扶持 二十八歳

外田数馬 目付席 十石五斗二人扶持 二十三歳

赤塚彦三郎(丈右衛門倅) 目付席 七石二人扶持 三十九歳

柳下恒吉 目付席 十一石二人扶持 三十歳

太田喜一 目付席 四石二人扶持 四十一歳

川井留五郎 獨禮 五石五斗二人扶持 五十六歳

山口栄吉(『若松記』による『明治日誌』には栄助とあり)

三瓶忠蔵(『名簿』には忠助とあり『若松記』による) 目付席 七人石二人扶持 二十九歳

津村粂之助(源之丞倅) 目付席 八石二人扶持 三十四歳

角田覚四郎 物頭席 四石二人扶持 二十四歳

大和田亀太郎(亀吉父) 獨禮 六石二人扶持 二十六歳(『日誌』『名簿』共に亀太郎とし『若松記』は亀三郎とす『若松記』天神口戦の負傷中大和田亀太郎あり之に従う又『名簿』に天神口戦死とあり重傷し後死亡せるか)

板橋丑鐡(『名簿』にあれども格式禄年齢の記載なし)

野村源次郎(彦五郎倅) 物頭席

小池五郎三郎 (傳吉弟『名簿』に外に傳吉弟伝) 山川大蔵家来 

相澤勇吉 獨禮 七石二斗二人扶持 二十八歳

天野由之助(由次郎弟) 二十一歳

佐藤悌蔵(覚兵衛倅) 七石二人扶持(父の禄か) 三十八歳

佐藤治左衛門(宇南山良蔵父)高橋外記家来 七十二歳

池澤定治(新吉父) 和田伝蔵付 六石二人扶持(倅の禄か) 四十三歳

小沼富蔵(良助弟『名簿』に八月廿四日天神口とあれども廿三日の誤と認む) 入江組 二十一歳

丹羽富蔵 堤堰方勤務 二十一歳

山内兵馬(駒之助倅、山田とせるものあり誤なり) 徒格 十六歳

坂井藤吾(清八父) 七十歳

丹生谷奥(負傷十月三日御山にて没) 徒 十一石二人扶持 三十二歳

 計 三十四名


 右の外『名簿』に『進撃小室隊八年二十四日丈之助兄佐瀬良之助五十』とあり、二十四日に新に編制せられたる進撃小室隊の『日誌』に記載せられたる名簿に佐瀬良之助の氏名なければ『名簿』の進撃小室隊とあるは二十三日の進撃のことにて、二十四日は二十三日の誤なるが如し、また『名簿』に草風隊指図役八月廿九日天神傷城中熊谷八三二とあり、八月廿九日に天神橋に戦争なし、廿九日は二十三日の誤なるべし、会津史にも此の進撃戦死者名簿に熊谷又八の名あり。

 
 天神口進撃の負傷者

石黒恒松(後則賢) 二十八歳

高津安之助

井深右近

富田三郎 元北原釆女家来近習二ノ寄合

穴澤最助
 
 計 五名



 天神口進撃に参加し後八月二十九日長命寺進撃に参加し戦死したる人々

小室金五左衛門 天神口の隊長進撃隊長番頭席小室進撃隊小隊長『名簿』に進撃小室隊世話役とあり組長のことか、物頭席 二百石 四十二歳

礒上内蔵之丞(忠吾事) 百石 四十三歳

杉本彌次郎(源五右衛門二男) 十石三人扶持 二十八歳

外島良蔵

櫻田勇(元北原釆女家来) 近習二ノ寄合 三十五歳

 計 五名



 右三種以外の人々

武井柯亭 後進撃隊長

山浦鐡四郎

日下部三郎

長坂源吾

荒川類右衛門(元北原釆女家来) 供番 三十七歳

三留又右衛門(元簗瀬三左衛門家来) 供番

穴澤友吉(元小室金五左衛門家来) 一ノ寄合 三十二歳

 計 七名
総計五十一名佐瀬良之助熊谷又八を加へ五十三名とす。


{右の人々の家禄として記載したるものゝ中自己の禄もあるべく、または父兄の禄もあるべし、今これを詳にする由なし。
この進撃に参加したる人々の内にて、その年齢の判明したる人四十名あり、その平均年齢三十五、六強歳なり、進撃に参加せし人にて上記の名簿に洩れしもあるべく、また五十三名中年齢不明なる人十三名あれども、四十名の平均年齢は全体の平均年齢と見て大差なかるべし、少数の老人参加せしため、この進撃を世老人組、または隠居組の進撃とする者あれど、平均年齢により其の誤なるを知るべし〔明治日誌、戊辰殉難名簿、会津会々報、石黒則賢談、若松記、著者聞〕}






卷十一 附録

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/04/24(水) 09:10:44|
  2. 会津戊辰戦争史2
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会津藩の教育

会津藩の教育

 藩祖保科正之公幼より学を好んで和漢諸種の書を読破す、承応元年公四十二歳にして初めて宋の朱熹の小学を読み大に発明する所あり、身を修め家を齊い国を治むるの正学此れに在ることを知り、爾来朱子学および宋の程子の説く所によってますます研鑚を積み、これにおいて朱子学を以て藩学を輿すの誌あり、当時諸藩を通じて学校を設くるもの多からず、会津においては寬文四年藩儒横田俊益、藩士浮洲重治同志と謀り若松桂林寺町に学舎を創建し、稽古堂と称す、俊益この堂の記を作り、且つ溝筵の式を定む、時に臨済宗の禅僧にして肥前の人岡田如黙なる者数年前会津に来り耶麻郡落合村に庵室を結びて之に居り扁して無為庵と曰う、その人博学多識特に経学に精しきを以て稽古堂に招聘して教せしめたるに、家老田中正玄、簗瀬正眞を初め藩士は云うに及ばず農商工の子弟に至るまで来り学ぶ者多し、正之公これを聞きて大に悦び黙に十五人扶持を賜い、その他の租税を免除し、且つ稽古堂に学科五十石を給す、この後年藩学設立の端諸なり。
 延寶二年郭内本一ノ丁甲賀町通に学問所を設けて講所と称し学科百石を給す、是即ち藩校にして藩士子弟の入学を許す、元禄二年講所内に孔廟を建築し孔子の像を安置す、この像は先年山崎闇齊が京都に於いて獲る所の銅像にして闇齊により正之公に献ぜしものなり。
 同年甲賀町口に学問所を設け町講所と称し士民の入学を許す、同時に稽古堂を廃しその学科五十石を町講所に給せらる、後この町講所を青藍舎と称し、またその北郭外に在るを以て北学館と呼ぶ。
 天明八年郭内大町通に更に学問所を建て西講所と称し、本一ノ丁の講所を東講所と称す。
 同年花畑において新に町講所を設け友善舎と称す、また城の南方に在るを以て南学館と呼ぶ。
 講所および町講所の授業は本邦当時の学問たる支那経書、歴史類の素読、講釈にして後書学、禮法および和学等を併せ教ふるに至れり。
 士人に最も必要なる武術は初め学校においてこれを教授せず、これその設備なきを以てなり、藩士の子弟は諸芸者の道場および馬場に就き弓、馬、刀の武技を学びたりしが、天明八年始めて西講所に武学寮を置き諸武技を教授せり。
 東西両講所は元来士族の邸宅を補修して充用せしものなれば、学堂として不完備なるを以てこれを一箇所に拡張改造することに決し、寬政十一年四月米代二ノ丁に工を起こし五年を経て享和三年十月落成せり、日新館即ちこれなり、学校周六丁余、中に聖堂、東西四塾に分ちたる素読所、習書寮、医学寮、講釈所即ち大学たる止善堂、禮式、算術、天文、神道、和学、茶儀の各教授所、天文台、開版方即ち出版所、文庫あり、また武学にありては槍、刀、弓、柔術、各流の道場、武講所、放銃場、水練場皆備はれり。
 会津の学校は以上記せる日新館および南北両学館の外に猪苗代に亀城学館、江戸和田倉会津藩邸内に成章館あり、この他若松市内には一町または二三町毎に素読、書学、算術を教授する者あり、軽輩の士女または商家の子女は之に就いて学ぶことを得、また各村に文武の私塾あり、地方御家人、同心および農夫等の就学に供せり。
 会津の学風は土津公(正之公)以来世々朱子学を以て教化の基礎とせり、天和の頃藩内に心学流行の兆あり、これと前後して王陽明の学を講ずる者あり、これらの故にや寶永五年藩士に孔孟程朱の学流を講習し他の教法は講ずべからざる旨を達せり、しかるに此の頃物徂徠の徒、古学を唱い一時天下を風靡せり、古学とは漢唐儒者の註解に基き経書および論語等を講ずるの学なり、会津藩においては寬政二年折衷派の古学者肥後藩士古屋重次郎を招聘して生徒に古学を講ぜしめ爾来文化七年まで藩学を古学に変更したるが、同年再び朱子学に復旧せり。

{寬政二年古屋重次郎を会津に聘し古学を講ぜしめしより、文化七年に至る二十一年間は従来朱子学たりし藩学を古学に変更せりとは諸書の記する所なり、しかるに会津藩の家政実記によれば、文化年中江戸昌平校の儒者尾藤良助が我が藩に対し会津藩の学風は藩祖土津公以来朱子学を採用せられたることは天下の周く知る所なるに、近来古学に変更せられたりと云うは果たして真実なるや、もし真実ならば何故にこれを変更せられたるかと質問書を贈りたるが、江戸会津藩邸在勤儒者松本和平は之に対し会津藩が朱子学を廃して古学を採用したりとの風説は訛伝なり、我が藩教の朱子学に遵據することは今も猶昔の如く依然変更せず、但一派の学説のみを専修するときは動もすれば固陋沈滞の弊に陥るの恐れあるを以て、修学上の参孝として生徒に折衷的古学を併せ講じたるに過ぎずと弁明したるを以て見れば、この二十一年間は必ずしも藩学を全然変更したりと断定すべからざるが如し。}

 会津教学の主義は前記のごとく一時古学を採用したる形跡なきにあらずといえども、たちまち旧に復し朱子学の教えに従い実学を重んじ、空理に流るゝことを避け、孝悌忠信の風を奨励し、長者を敬い、以て一藩剛健の士気を養成することを勉めたり、これに関する教令は歴代しばしば発せられるが玆に其の一例として特に文化十年五月在江戸の藩子弟に発したる教令の趣意を左に摘禄すべし。
 
一 文武の芸を研磨するは士人の常道なり、しかれども心魂鄙劣なるにおいては仮令諸芸に上達すといえども士とは云うべからざるなり、故に主として士風を励み、礼儀廉耻を先にし、義気を重んずること肝要なり。

一 尊喜長者を敬ひ不孫の風なきことを勤むべし。

一 朋友相会し書を読み文を講じ、および古今の武勇談を為すことは殊勝なれども、猥りに集会し無用の雑談に耽り、甚だしきは飲食を縦まゝにする如きは、士人の体面を損するものなれば深く戒むべし。

一 御家風を守り武士の本意を失はざる様常に心を用ふべし、江戸は地方の風移り易き土地なれば、服装言語は勿論身の帯ぶる諸具に至るまで虚飾を避け質素を尚び、以て軽浮の態に陥らず、律儀実態の風を守るべし。

一 御家中の士は其の身分に応じて交際し、信義を重んじ徳を磨き下等賤輩に交り汚風に染むべからず、これ後年徳器養成の妨と為るを以てなり、また幼少より淫風遊惰を深く戒むべし。


 これを以て其の一斑を察すべし、学校において倫理を教え文武の芸を授くるは、徳性を養い才能を長し以て実用に供せしめんとするにあり、其の品行方正にして学問武芸に達し、または少なくも一芸に通ずる者は、家格により技倆に応じて父の業を継がしめ又は新に採用し、しかして一芸だも善くせざる者は家督相続の際小普請料を納めて修業を断続せしめ、後日修業を了したる後始めて小普請料を免ず゛(小普請料とは文武未熟者より徴収して道路修理に充つる費目なりと云う)、この法を実効せんが為、天明八年講所(日新館の前身)の功令を定め、これを六科糾則と称して発令せり。

六科

一曰、古を稽ひ事に明かに沿道に通し人の長所を知る者、

二曰、人を愛して物に及ほし教化安民の道に志ある者、

三曰、神道和学に達し吉凶の禮吉凶実を弁へ時々損益することを知り、清廉にして能く欽慎なる者、

四曰、古聖人の善とする所を知り、時宜に従い事を処し、武備教練の意を会得し、沈勇にして決断ある者、

五曰、人の為に謀り人の労に代わる己か事の如く、心を尽くし忠信にして獄訟律学に長したる者、

六曰、和順にして物の性に悖らず、土木百工の材能ある者、


 六科中に就いて大に得たる者は大に用い、少しく得たる者は小に用い、これを審かにするに六行を以てす。



六行

一曰、善く父母に孝なる者。

二曰、善く父母に事ひ弟を愛し長を敬し幼を恵む者。

三曰、善く家内および新族に和睦なる者。

四曰、善く外親に至る迄を親み本を忘れざる者。

五曰、友に信ありて人に任ぜられ、その事を擔当して久しきに耐える者。

六曰、親戚朋友に災厄疾病貧窮等あれば、厚く之を賑恤する己の憂に遭ふが如くする者。




八則

一曰、言行を慎まずして父母を危し、事に順ならず、喪に居て哀戚の容なく、懶惰の行ある者。

二曰、薄情にして家内親戚和せざる者。

三曰、兄弟に友ならず師教に循はず、長を侮り幼を愛せざる者。

四曰、言行信ならず、面従後言或は男女穢褻の行ありて近隣朋友に疎まるゝ者。

五曰、怠慢残忍にして親戚朋友等の艱難苦痛を救恤せざる者。

六曰、漫りに浮言を造て衆を惑はし、また非理なるを強弁し道理に従わず、その行悖りて紛飾する者。

七曰、聖人の道を信ぜず、党を結び猥に政令法度および他人を誹譏し、世俗の浮説を信して私智に矜り、弁舌を以て事を壊る者。

八曰、文武は相資する者偏廃すべからず、己が学ぶ所に執滞く能を妬み技を謗り猥に偏執の心を懐く者。


 この日八過の内一も其の身にあれば、仮令才智芸能ありといえども其の咎逃るべからず、常にし心に存して慎むべし。
 玆に子弟入学修業の一斑を挙ぐれば、日新館および南北両学館は士人の階級によりて入学せしむ、日新館の素読所は四塾に分ち、毛詩、三禮、尚書、二経と称したるが、一時これを守約齊、存心齊、服膺齊、持志齊と改称したることあり、郭外に在る北学館、南学館もまた素読所なり。

 素読所は当時における普通教育を授くる所なり、その教育の令条は創定以来多少の変更ありしといえども、その大綱は異なる所なし、左に之を概記。

令条

一、学校は孝悌を本とし子弟をして徳を為し材を達せしめ以て実用の器を養成するにあり(本文只孝悌と云て忠信を云はざるは、孝悌は徳を成すの本なれば、幼時より孝悌を教ふれば従って忠信の道に至るを以てなり)。

一、学校における生徒の席順は尊卑によらず年齢によるものとす(学級によりて場所を異にするは勿論なれども同一学級に在りては身分の尊卑によらず、また優劣によらず長幼によりて席順を定むるなり)。

一、十歳より入学し素読を受け兼ねて筆蹟、諸禮を学び、また希望によりて雅楽を学ぶ。

一、十三より算術を学ぶ。

一、十五歳より弓術馬術槍術剣術を学び、その他の武芸は希望によりて学ぶ。

一、十八歳より兵学を修む。

一、二十二歳より二男以下諸芸の出席随意なり。

一、毎日学校において塾の出入りその他一切の事は什長の指揮に従う、什長は通学生住宅各方面における組合の長にして、多くは年長且つ学芸優秀の者を以てこれに充つ。


 当時学校の課業は各藩を通じて大同小異なるが、日新館においては初めて入学する者は四等に入り、孝経、大学、論語、孟子、中庸、小学、詩経、書経、禮記、易経、春秋、童子訓の素読を受け、これを卒業すれば三等に進み、四書、小学の本文および朱子の註、春秋左氏伝の素読を受け、これを卒業すれば二等に進み、四書、小学の本文、および朱子の註、禮記集註、十八史略、蒙求の素読および解釈を受け、これを卒業すれば一等に進み、四書、近思録、二程治教録、伊洛三子伝心録、玉山講義附録、詩経集註、書経集註、禮記集註、周易本義、春秋胡氏伝、春秋左氏伝、国語、史記、前漢書、後漢書を読講す、しかして一等生は先づ内試験を受けて及第し、更に本試験を受けて及第すれば大学即ち講釈所に入るなり。
 講釈所は止善堂と称し、素読所即ち小学の師表たり、入学生は儒者に就き、または輪講会に出席して経書、歴史および雑書を研究し、併せて詩文を学習す、しかして入学生は学問の外弓馬槍刀の武芸を怠るを得ざるなり。
 藩学日新館の教育は前記のごとく、もっぱら漢学によりしといえども、別に神道および和学科あり、子弟の希望によりて之を教授せり、藩祖土津公は吉川惟足を聘して神書を講ぜしめ、その奥秘を受け、以て中古以来衰微せし神道の復興に力を尽くせり、爾来歴世公の意思を継ぎ、藩学に神道および和学科を置き、神道は卜部、垂加の二派に分ち、その希望によりて教授せり、その書目は中臣秡、日本紀神代卷にして古事記、旧事記は参考として之を教授せり。
和学は一に皇学と称し、人王以降の令典を授く、その書目は令義解、律疏義、三代格、延喜式、六国史および文章、和歌等なり。
 武芸は各種また各流派に就いて稽古場あり、生徒の席順は学校、学館と異なり、入門の前後によりて定む。
 男子十歳にして入学すれば近傍の学友と交際するの義務あり、日々八ッ半時退出するも直ちに家に帰らず必ず朋友の宅に集合し、十三四歳の年長者より忠信孝悌の道を説き、且つ教師長者の教導に従うべきことを励む、もし之に従わず不行蹟の者なれば反覆これを訓戒し、しかも猶改悛の状なき者は其の制裁として、あるいは之を打擲し、あるいは絶交を宣告することあり、その絶交したる者にして改悛の状著しき者は再び交際を断続す、十五歳に至れば昼間武芸に出場するを以て年少者の集会に出席することを得ず、よって彼らは十七八歳未満の朋友と夜間相集会し、前人の嘉言善行を話し、一朝他方面の団体と学校の内外において衝突することあらば、激烈なる争闘を演じ甚だしきに至りては藩の責を蒙ることなきにあらず、これを要するに会津武士剛健の気風は、藩の教令、父師の教導に兼ねて朋友相互奨励より自然に培養せられたる結果なりと云うもべきなり〔会津藩教育考、家政実記、日新館志、及聞書〕。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/23(火) 11:27:30|
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会津へ入る口々

会津へ入る口々

三代口。福島県安積郡三代村三代にあり、勢至堂峠を踰え同県西白河郡白河町に至る江戸への本街道口なり。

赤谷口。新潟県北原郡赤谷村赤谷に在り、同県東蒲原郡津川町より阿賀野川を渡り諏訪峠を踰え新潟県北蒲原郡新発田町に至る街道口なり。

横川口。南口また日光口とも云う、栃木県塩谷郡三依村横川に在り、高原峠を踰え同県上都賀郡今市町に至る街道口なり、また同村上三依より塩原に至る間道ありしが維新後大に修築せられたり。

桧原口。福島県麻耶郡桧原村桧原に在り、桧原峠を踰え山形県米澤市に至る街道口なり。

右四口は東西南北の本街道口なり。


酸川野口。福島県麻耶郡吾妻村酸川野に在り、土湯峠を踰え同県福島市に至る径路、また沼尻峠を踰え安達郡嶽下村嶽温泉を経て二本松に至る径路、また勝軍山一名保成峠を踰え同県安達郡本宮町または二本松に至る径路口なり、新編会津風土記に保成峠につき『山間の路殊に嶮し』とあり、戊辰の年西軍は保成峠を踰えて会津地方へ打入りき。

壺下口。楊枝口とも云う、福島県耶麻郡月輪村壺下にあり、楊枝峠を踰え安達郡高川村中山を経て、また壺下より同村山潟に至り沼上峠を踰え高川村中山を経て本宮町に至る径路口なり。

中地口。福島県安積郡中野村中地に在り、三森峠を踰え同郡郡山市または諏訪峠一名追分峠を踰え又は鶏峠を踰え岩瀬郡須賀川町に至る径路口なり。

馬入口。福島県安積郡福良村馬入新田に在り、馬入峠を踰え白河町に通ずる径路口なり。

蘆野原口。福島県南会津郡二川村高隯(葦野原)に在り、白河湯本村を経て白河町に通ずる径路口なり。

白岩口。福島県南会津郡二川村白岩に在り、これまた白河湯本を経て白河へ通ずる径路口なり。

水門口。福島県南会津郡旭田村水門に在り、白河町へ通ずる径路口なり。

野際口。福島県南会津郡旭田村野際新田に在り、大峠を踰え栃木県那須郡黒礒町に至る径路口なり。

三月澤口。新潟県東蒲原郡下条村三月澤に在り、沼越峠を踰え同県中蒲原郡村松町に至る径路口なり。

釣浜口。石間口とも云う新潟県東蒲原郡下条村石間に在り、同県新潟市に至る径路口なり。

以上の諸口には木戸門を設け番戍を置くことを例とせり。


桧枝岐口。福島県南会津郡桧枝岐村桧枝岐に在り、群馬県利根郡沼田町に至る径路口なり。

六十里越口。田子倉口とも云う、福島県南会津郡伊北村只見より朝草峠を踰え新潟県魚沼郡小出町へ通ずる径路口なり、風土記に『道極めて嶮しく牛馬を通ぜず』とあり。

八十里越口。叶津口とも云う、伊北村叶津より境澤峠を踰え新潟県南蒲原郡三条町へ通ずる径路口なり、風土記に『難所ありて牛馬通ぜず』とあり。

右の三口には木戸門を設くれども別に番戍を置かず里人をして守らしむ、但し元治元年水戸の武田正生の事ありしときより桧枝岐に番戍を置くことゝなれり。


右の外、左の二口あり。

村杉澤口。福島県耶麻郡岩月村入田付を経てまた同郡熱塩村日中を経て大峠を踰え、山形県置賜郡澤村塩地平を過ぎ米澤市に至る道なり、風土記には『路狭くして難所なり牛馬を通ぜず』とあり、これ維新前に村杉澤口と称せしところなるべし、維新後道路改修せられ喜多方より米澤市へ通ずる街道となれり。

熨斗戸口。南会津郡舘岩村熨斗戸付近より湯花水引等の部落を経、枯木峠を踰え、栃木県塩谷郡栗山村へ通ずる径路口なり、風土記に『道殊に嶮しく牛馬を通ぜず』とあり。

右二口の径路は牛馬も通ぜざる難所なれば、木戸門も設けず従って番戍も置かざりしならん。
 右は主として新編会津風土記に據り記載せるも北会津郡東山村二幣地(俗に云う湯の入り道)を経て安藤峠を踰え、岩瀬郡湯本村羽島に通ずる錦澤口と称する道路を逸したるは怪しむべし、あるいは此の道路は風土記編纂(文化年代)後に聞きたる道なるも知るべからず。
 天保四年までは猪苗代湖東浜の安積郡舟津、館、横澤、浜路(今の月形村)の四部落、並びに中野村安佐野は二本松領なりしかば、安積郡浜坪に舟番所を設け、湖浜の二本松領と会津領との間を来徃する船舶を察せしめたり、天保後湖の東浜四部落並びに安佐野領地となりし後は、舟津に木戸門を設け番戍を置き、湖浜の浜路より御霊櫃峠を踰え郡山市に至る径路口とせり、しかして新に領地となりたる五部落を五ヶ郷と称しき〔新編会津風土記〕。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/23(火) 10:51:42|
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会津藩執政年表

会津藩執政年表

 本年表は我が藩人林少左衛門良材が編輯せしところ、寬永八年より文化十三年まで百八十六年の間、会津藩執政の人々、即ち大老、家老、若年寄、奉行(勘定奉行)の任免を表出せるものなるが、文化十三年より明治元年に至る間は後人の書き加えたるものなり、今文久二年我が公京都守護職就任の年より明治元年に至る七年の分を抄出す、但し大老は当時欠員なりしにより別に欄を設けず、また若年寄、奉行の欄には書き落とし多きが如きも増補する道なければ元のまま抄出せり、また表中帰職元之立場とあるは退職せし者を元の職に復帰せしめ、退職前の席次を輿ふる優遇法を云う。

文久二壬戌年
家老 
 六月思召有之御免
簗瀬三左衛門眞粹
萱野権兵衛長裕

 月依願御免
高橋外記重弘
横山主税常徳

 閏八月依願隠居
諏訪大四郎頼徳

若年寄
 閏八月廿五日被仰付
一瀬監物直久

--------------------

文久三癸亥年

家老
 七月依願隠居
萱野権兵衛長裕
横山主税常徳

 月被仰付
田中土佐玄清

 月被仰付十月御免御叱
西郷頼母近悳
神保内蔵助利孝
山崎小助実久

 六月被仰付
一瀬要人隆鎮

若年寄
 四月九日帰職元之立場被仰付六月六日御家老
一瀬要人隆鎮

一瀬監直久

奉行
上田一学兼教

間瀬新兵衛

西郷文吾近潔

山田新八

 九月依願御免
樋口源治

--------------------

元治元甲子年

家老
 三月十五日帰職元之立場
高橋外記重弘

 八月死去
横山主税常徳
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 六月依願御免
山崎小助実久
一瀬要人隆鎮

 十一月被仰付
北原采女光美

若年寄
一瀬勘兵衛直久

 四月四日被仰付
井深茂右衛門重常

 同上
内藤介右衛門信節

 十一月七日被仰付
西郷勇左衛門近潔

 十一十九日被仰付
萱野恒治長修

奉行
上田一学兼教
間瀬新兵衛
西郷勇左衛門近潔

 九月
山田力衛

 正月被仰付
神尾織部

 九月被仰付
北原采女光美

 十一月被仰付
田中蔵人

--------------------

慶応元乙丑年

家老
 十一月依願御免
高橋外記重弘
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 二月帰職元之立場
山崎小助実久
一瀬要人隆鎮
北原采女光美

 五月被仰付
萱野権兵衛長修

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常

 八月晦御免
内藤介右衛門信節
西郷勇左衛門近潔

 五月御家老
萱野権兵衛長修

 二月十五日被仰付
上田学太夫兼教

 五月被仰付
梶原悌彦景武

奉行
 二月十五日若年寄
上田学太夫兼教
間瀬新兵衛

 二月廿六日帰職
樋口源治

梶原織部

田中蔵人

--------------------

慶応二丙寅年

家老
 依願御免九月帰職元之立場
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 四月隠居
山崎小助実久

一瀬要人隆鎮

 十月晦思召有之御免
北原采女光美
萱野権兵衛長修

 三月被仰付
梶原平馬景武

 九月被仰付
上田学太夫兼教

 同上
内藤介右衛門信節

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常
西郷勇左衛門近潔

 九月御家老
上田学太夫兼教

 三月御家老
梶原平馬景武

 九月帰職元之立場同日御家老
内藤介右衛門信節

 八月廿三日被仰付
諏訪伊助頼信

 十月九日被仰付
一瀬傳五郎隆知

--------------------

慶応三丁卯年

家老
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝
萱野権兵衛長修
梶原平馬景武
上田学太夫兼教
内藤介右衛門信節

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常
西郷勇左衛門近潔
諏訪伊助頼信
一瀬傳五郎隆知

--------------------

明治元戊辰年

家老
 八月廿三日甲賀町口に而戦死
田中土佐玄清

 帰職元之立場
西郷頼母近悳

 八月廿三日甲賀町口に而戦死
神保内蔵助利孝
萱野権兵衛長修
梶原平馬景武
上田学太夫兼教
内藤介右衛門信節

 正月二日被仰付
諏訪伊助頼信

 九月十五日一の堰に而手負後死去
一瀬要人隆知

 八月被仰付
原田対馬種龍

 同上
山川大蔵重栄
佐川官兵衛直清

 八月廿五日被仰付
海老名郡治李昌

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂衛門重常
西郷勇左衛門近潔

 正月二日御家老
諏訪伊助頼信

 御家来
一瀬要人隆知

 五月一日白河に而戦死
横山主税常守

 三月廿四日被仰付八月御家来
原田対馬種龍

 三月廿四日被仰付八月御家老
山川大蔵重栄

 七月廿七日被仰付
 八月廿五日御家来
海老名郡治李昌
田中源之進玄直上田八郎右衛門氏雅
萱野右兵衛長誠
倉澤右兵衛重為
手代木直右衛門勝任

奉行
萱野右兵衛長誠

 三月廿四日被仰付
 七月廿七日若年寄
海老名郡治李昌

山内大学


会津藩にて家老の上席たりしは、寬永八年城代保科民部正近、翌年家司任命の同人、慶安三年家司任命の北原釆女次、寬文六年家司任命の田中三郎兵衛正玄なり、正玄寬文十二年に歿し、十数年家司を置かず、元禄二年に至り西郷頼母近房家司に類する家老主に任ぜられ、近房元禄十四年に歿してより九十余年間上席者なし、寬政五年北原内膳光保大老(これ家司、家老主に類するものなり)に任ぜられ、同十年に歿し其の後四年間欠員にて、享和三年田中三郎兵衛玄宰大老に任ぜらる、文化五年に玄宰歿し六年に内藤源助信周任ぜられ、七年同人歿し同年北原釆女光裕その後任なり、文化十四年に歿し翌年政元年西郷頼母近光大老となり翌年歿す、これより戊辰の年に至るまで五十余年の間家老の上席者を置かず。
 家老には定員と云うものなかりしが如し、家司、家老主、大老の外三名以上六名以内なりしが、戊辰の年には軍国多事の為必要に迫られ、別表の如く多数の家老を任命せられたり。
 文化五年門閥家九条の制を定む、この九家の人々は等輩を踰えて上官に任じ、若死するにあらざれば大抵は家老になり得しなり、九家の戊辰の年の戸主の氏名また代々の内の名知行高左の如し。

北原釆女(勘解由、内膳、出雲等) 二千八百石

内藤介右衛門(元武川、文化の初に本姓に改む、五十郎、源助、近之助等) 二千二百石

簗瀬三左衛門(救馬等) 二千石

田中土佐(三郎兵衛、加兵衛等) 千八百石

西郷頼母(民部等) 千七百石

三宅半吾(孫兵衛、対馬等) 千四百石

小原美濃(五郎右衛門等) 千ニ百石

井深茂右衛門(平左衛門等) 千石

梶原平馬 千石


{北原の老役荒川類右衛門の『明治日誌』に、千三百石の高橋外記を九家に入れ、『後世に至り千石梶原平馬を九家の列に加えらる』とあり、何れが正なるを知らず。}

 会津の如き大藩にては万石以上の高禄を有する者あるを常とせしが、右の如く会津藩にては北原釆女の二千八百石を最高禄とせり、けだし成るべく多数の藩士を養う為、少数者に高禄を輿へざる方針なりしによる、ゆえに戊辰の年には千石以上の禄を有せしは右の九家を除き十二家に過ぎざりき。
 会津藩士は知行地を有するものなし、皆知行高に対する蔵米を支給せられしなり、けだし斯くすれば煩雑と入費とを省略する益あるを以てなり、ゆえに原則としては千石の知行に対し、四公六民の割合にて米斗入り千俵を給すべきなれども戊辰の年頃は千石に対し六百俵余外に金数十両ならでは支給せられざりき、昔いつの頃にやありけん、豊作続き米値非常に降り(金十両につき四斗俵七十俵かと記憶す)藩士大に窮苦せるにより家禄の四分の一を遙かに高値(金十両につき四十俵かと記憶す)に見積りて金給せられしなり、この制度を四ヶ一の制度と云いき、しかるに後に米価騰貴しても換金の率依然として昔時と同じかりしかば、恩恵的の制度も後には藩士の負擔を増せるに均しかりき、また借知と云うことあり、これは藩が藩士より知行の内を借り入るゝことなり、但し名は借なれども返償せざる例なりき、この如きにより実収は表面の高より遙かに少なかりき〔会津藩執政年表、明治日誌、会津外史、編者記憶等〕。






卷十一 附録

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会津藩の領地並に知行高

会津藩の領地並に知行高

 会津とは会津、(今の南北会津)耶麻、大沼、河沼四郡の総称なりしが、後世に至り四郡の名紛乱して会津郡を失い、大沼、耶麻、稲河、河沼を会津四郡とす、寛永二十年上使伊丹順齊等より受け取られし領地目録には、大沼郡之内川沼郡、山之郡、稲川郡、小川庄(これ今の東蒲原郡を云う)、猪苗代、安積郡之内(三代、福島、赤津、浜坪、中地の五村なり)とあり、寬文の頃土津公典籍を考え地理を按じ、古文書古器銘により、大沼郡の東南を割いて会津郡を復し、稲河郡を河沼郡に併せて四郡の古に復せらる。
伊丹順齊等の引き渡し目録によれば、引き渡せし領地高は、

二二二三四二、一九三石 本高
 一〇七五六、〇九三石 改出
 二一三八一、七六八石 新田
総計
二五四四八〇、〇五四石


なり、本高とは新検地前の高にして、改出とは新検地により増加せし高なるべし、今本高と改出とを加ふれば、

二三三〇九八、二八六石

を得、三千石余を算用に入れず、また新田をも除きて表高を単に二拾三万石としたるものゝ如し、この時の会津領は今の北会津郡、耶麻郡、河沼郡、越後国の今の東蒲原郡(北蒲原の赤谷部落を含み)の全部、今の大沼郡の東部(面積は今の大沼全郡の一小部分なれど平地多く良好の地なり)なり、しかして今の南会津郡の全部、今の大沼郡の残部、並に下野国塩谷郡の一部(三依村、上三依村、中三依村、獨鈷澤村、五十里村、芹沢村の六箇村、今の藤原村の一部)を領地とせられしなり。
安政七年即ち萬延元年幕府代変わりの時、藩より届け出で幕府の承認を得たる目録に、

 陸奥国

会津郡之内(今の北会津郡なり) 百二十一箇村(若松町を一箇村とす)
 高 四二三六九、〇九〇五石

耶麻郡之内 二百三十五箇村
 高 八二七五八、六七三六一石

大河郡之内 四十九箇村
 高 二二一七九、八一四七石

河沼郡全部 百九十四箇村
 高 五四七六〇、九五一三石

安積郡内 五箇村
 高 六〇八〇、〇五八石



 
 越後国

蒲原郡之内(今の東蒲原郡なり、北蒲原郡の赤谷部落を含む) 七十三箇村
 高 八九七三、三八八石




 安房国

安房郡之内 十箇村
 高 二七二三、七二八七二石

朝夷郡之内 四十一箇村 
 高 一三九二五、九九六一七石



総計
 二三三七七一、七〇一石


 弘化年代に房総沿岸の警備を命ぜられし時、便宜の為、安房国において一萬六千石余の地を賜い、次いで耶麻郡の内一萬五千石の地を収公せられ、直ちに之を預けらる、此の安房国の一部を戊辰の年まで領有せしや否不明なり、如し収公せられしとせば耶麻郡の公地(藩の領地)は直ちに賜はりしなるべきより総高に変化なし。

 右の如く萬延の届け出は二十三万石余りにして、寬永の引き渡し高二十五万石と差違あるは何故なるか知るべからずも、何か形式上斯くすべき必要ありしなるべし。
 藩撰の家政実記に年々の領地の草高を記載す。

{因に記す幕府の頃の知行地は其の領地の総草高なり、草高とは国郡村の台帳に載せたる田畑の数量、等級、収獲率により算出したる総収獲の予定額なり、この草高は新田の開墾古田の荒廃等の為、検地を改め行うにより変すれども、年の豊凶により変ずることなし。}

今、寬永二十年より毎十年の会津領の草高左の如し(斗以下を四捨五入す)

寬永二十年 二五四七〇〇石(藩の検地によるものにて、引き渡し目録の二十五万四千四百八十石と合はず)

承応二年 二四二三九一石

寬文三年 二四八〇七三石

延寶元年 二六六八六二石

天和三年 二六八三八一石

元禄六年 二七八一八四石

元禄十六年 二八一一七二石

正徳三年 二九二一五四石

享保八年 二九七一四三石

享保十八年 二九七六四二石

寬保三年 三〇四〇五二石

寶歴三年 三〇三七七二石

寶歴十三年 三〇一六二四石

安永二年 三〇一二〇〇石

天明三年 三〇〇八〇八石

寬政五年 三〇〇二四一石

享和三年 三〇一〇五二石

 享和三年の後二年

文化二年 三〇一〇九五石


 家政実記は文化三年正月を以て擱筆せしにより、文化二年の草高は実記最終の調なり、その後の調に関しては記録の存するものなし、思うに寬保三年より文化二年まで六十二年の間三十万石余にて増減甚だ少し、これによって見れば文化二年より慶応三年に至る六十二年間の増減もまた甚だ少なかるべし、故に慶応三年においては会津松平家の旧領地高を三十万石と断定して大差なからべし。
 元治元年二月十日京都守護職就任以来の功労を賞し封五万石を加賜し、次いで賜うところの地を近江国の内一万五千石、和泉国の内一万石、越後国の内二万五千石とせり。
 文久二年守護職就任の時、近江の内並びにその他にて役知(職俸)五万石を賜う。
 文久三年累代の領地(寬永後両回収公せられし事あり)、陸奥国会津郡の内並びに大沼郡の内(俗に之を南の山と云う)五万五千石を役知として増賜あり。
 元治元年守護職中費用多端を察し月々金一万両米二千俵を賜う。

{右の手当を内願したる時公用人外島機兵衛が、幕府の勘定奉行松平石見守と交渉の顛末を江戸より京都へ報告せし書面の内に、『機兵衛石見守殿へ相縋り非常御逼迫之様子申述相頼候次第右に付而は精々相心得可申聞候得共御役知拾万外に二万俵(月々二千俵なれば二万四千俵の誤なるべし)つゝ御蔵庭相場に而俵代銀御渡並五万石御加増(増封なり)も有之彼是凡拾七万石余にも相当り可申此上月々一万両つつ御渡と申に而はて一ヶ年拾二万両にも相成一昨年御役知五万石に当り代銀三万両御渡之御都合を以積候へは二拾万石に相当り可申候左すれは都合凡三拾七万石余相成候は御勘定局御規則を以は迚も相整い可申御手順共不被考候間伝々}

 右の如く幕府の方にては余程六ヶ敷模様なりしも遂に聞届けられしなり。
 松平石見守の算用によれば慶応三年末(守護職廃止の時)に於ける松平家家禄は次のごとし。

一 三十万石 旧領
一、五万石 増封
一、五万石 第一回の職俸
一、五万五千石 第二回の職俸、但し累代の領地たる南の山
一、二万四千石 月々二千俵に相当する石高
一、二十万石 月々一万両に相当する石高
 計六十七万千石


 附図(図は割愛する)の黒線内は会津の旧領なり、但し耶麻郡中の預地並びに安積郡中湖水東浜の領地(月形村並びに中野村の一部、尤も此の五部落は領地にあらずして領地なりとの説あり)を含む〔新編会津風土記、家政実記、領地目録、京都守護職始末、会津藩庁記録、古老談話、編者記憶等)。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/22(月) 10:34:11|
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