いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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高須松平家略系譜

高須松平家略系譜

八世 義居朝臣(従四位少将摂津守)

九世 義和朝臣(従四位少将中務大輔)
実は水戸中納言治保卿の二男

十世 義建朝臣(従四位少将摂津守)

十一世 茂栄卿(初め義此後茂徳)
高須相続の後慶勝卿の後を承け尾張家相続、後一橋家相続、大納言号玄同。

十二世 義端

十三世 義勇






卷十一 附録

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/04/22(月) 10:32:02|
  2. 会津戊辰戦争史2
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会津松平家略系譜

会津松平家略系譜

始祖 保科正之卿(贈従三位左中将肥後守)
慶長十六年五月七日生。
寬文十二年十二月十八日薨。
台徳院殿秀忠公の第四子、初め保科肥後守正光主の養子たり、薨後土津霊神と諡す。
寛永系図には正光主の父君保科弾正忠正直主を以て会津家の始祖とし、従って正之卿を会津家の三代とすれども、正之卿より三代目正容朝臣の時『可為松平』との台命あり、よって寬政の重修諸家譜には、十八松平の次に会津松平を加え、正之卿を始祖とせり、今之に従う。

二世 正経朝臣(従四位侍従筑前守)
天保元年十二月二十七日生
天和元年十二月三日卒
法号鳳翔院殿冝山休公

三世 正容朝臣(正四位左中将肥後守)
寬文九年正月二十九日生
享保十六年九月十日卒
徳翁霊神

四世 容貞朝臣(従四位少将肥後守)
享保九年八月十六日生
寬延三年九月廿七日卒
土常霊神と諡す。

五世 容頌朝臣(贈三位左中将肥後守)
延享元年正月九日生
文化二年七月廿九日薨
恭定霊神と諡す。

六世 容住朝臣(従四位侍従肥後守)
安永七年十一月二十日生
文化二年十二月廿七日卒
貞昭霊神と諡す。

七世 容衆朝臣(従四位少将肥後守)
享和三年九月十五日生
文政五年二月廿九日卒
欽文霊神と諡す。

八世 容敬朝臣(贈従三位左中将肥後守)
享和三年十二月廿三日生
嘉永五年二月十日薨
忠恭霊神と諡す。
初め容住朝臣の卒するや、家老田中三郎兵衛玄幸が謀らひにて侍妾の内妊娠せる者ある由幕府に届、間もなく男子出産の届を為せり、これ容敬朝臣なり、実は水戸中納言治保卿の二男義和主の庶子なり、義和主次いで濃州高須の松平摂津守義居朝臣の養子となれり。

九世 容保公(正三位元参議元肥後守)
天保六年十二月廿九日生
明治廿六年十二月三日薨
忠誠霊神と諡す、実は濃州高須の松平義建朝臣の六男なるが容敬朝臣の養子たり、容敬朝臣は高須の義和朝臣の長子にて義建朝臣の兄君なれば容保公の実伯父なり。

十世 喜徳君(従四位下侍従若狭守)
実は水戸中納言齊昭卿の第十九子なるが、慶応二年二月朔容保公の養子となり、同四年二月四日襲家、明治六年に復帰す。

十一世 容大君(正四位子爵騎兵大尉貴族院議院)
明治二年六月三日生
明治四十三年六月十一日卒
存誠霊神と諡す。

十二世 保男君(正四位子爵海軍少将貴族院議院)
明治十一年十二月六日生
明治四十三年六月十三日容大君の遺命により家督を相続す。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/21(日) 12:41:43|
  2. 会津戊辰戦争史2
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容保公喜徳公の謹慎赦免

容保公喜徳公の謹慎赦免

 明治五年申年正月六日太政官より左の命あり。

 斗南藩旧事務取扱従五位 松平容大
同苗容保喜徳儀以特命御預被免候事
 壬申正月六日 太政官


手代木直右衛門、秋月悌次郎もまた同時に幽囚を免ぜらる〔松平家譜〕。






卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/21(日) 11:44:41|
  2. 会津戊辰戦争史2
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斗南移住者の辛酸

斗南移住者の辛酸

 新封斗南の地たる旧南部領の一部にして、冬春の候積雪ほとんど半歳に亘り、土地は荒藩士全部を移住せしむる能はず、あるいは一時会津に留まる者あり(ニ百十戸)、あるいは農商に帰する者あり(五百戸)、あるいは東京または各地に赴き生活を求むる者あり(三百余戸)、この外すでに北海道に移住せる者あり(約二百)、これを以て斗南に移住せる者は二千八百余戸に過ぎずして、新封地延長数十里の間に点々散在す、しかしてその受くる所の米は一家平均四人扶持(一箇年玄米七石二斗)にして口を湖にするに足らず、徃々飢餓に瀕する者あるに至れり。
 斗南に藩政を布くに及び、山川浩(大蔵)は選抜せられて権大参事と為りて藩公を補佐し、広澤安任、永岡久茂を推薦して権少参事と為し、その地諸藩吏を任じて庶政に当らしめ、藩士を督励して懇田牧畜または商工業を営ましめ、百事やや諸に就き以て廃藩置県に至れり〔諸記録山川浩伝〕。

明治四辛未年三月二十五日太政官より左の命あり。

 斗南藩知事 松平容大
松平容保は和歌山藩同喜徳は久留米藩へ永預之処今般更に其方へ御預被仰付候間両藩より受取可申候事
 三月十五日 太政官


十月手代木直右衛門、秋月悌次郎、青森県に徒さる。

 




卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/21(日) 11:13:29|
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家名再輿

家名再輿

 尋いで松平家家名再輿の命を保科侯に伝ふ。

松平容保儀先般城地被召上父子永預被仰付置候処深き叡慮を以て今度家名被立下候間血脈之者相選可出候事
 己巳九月 太政官〔松平家譜〕


 九月二十九日、土方中辨より口頭を以て保科家へ松平家相続人には容保実子ある由なれば之を以て願い出づべき旨達せらる〔松平家譜〕。

十月八日、慶三郎君の実名を命じて容大と曰ふ〔松平家譜〕。

 同十七日旧藩相梶原平馬、山川大蔵旧家臣一同に代わり家名相続の願書を保科家に致す、左のごとし。

 容保実子
  松平慶三郎
   当歳
松平容保儀先般城地被召上父子永預被仰付置候処深き叡慮を以て今度家名御立被下置候に付血脈之者相選○奉願候様被仰出難有奉畏候依之容保実子慶三郎当歳にて幼弱には御座候得共此者へ家名被仰付被下置候様私共一同奉懇願候此段宜敷御達被下度奉願候以上
 明治二己巳年十月
元松平容保家来
 総代
  山川大蔵
  梶原平馬
 飯野藩御重役御中〔松平家譜〕
 

 十一月四日容大公に家名相続を命ぜられ、華族に列し、陸奥国において三万石の封を賜う〔松平家譜〕。

 十二月三日照姫松平家に引き渡しの命あり、尋いで飯野藩に徒さる〔松平家譜〕。

同七日、我が公和歌山藩に遷さる〔松平家譜〕。

十二月十四日、我が藩邸として外櫻田挟山藩知事上け邸を賜う〔松平家譜〕。

明治三庚午年正月五日家臣を辨官役所に召され命を受くること左のごとし。

 松平慶三郎
元容保家来重立候者除き外四千六百七十余人並に箱館に於いて降伏之分二十九人共御預謹慎慎被免其方へ御渡に相成候間兵部省より請取可申事
 庚午正月 太政官
  松平慶三郎


北海道後志国之内
 太櫓郡 瀬棚郡 歌棄村
膽振国之内
 山輿郡
右其方支配に被仰付候事
 庚午正月 太政官
 松平慶三郎
今般元容保家来其方へ被引渡北海道にて四郡支配被仰付候に付ては格別之御詮議を以て当三月後現米二万石明未年壹万石被下候事〔松平家譜〕


四月斗南藩と称す〔松平家譜〕。

 五月十五日容大公従五位に敍斗南藩知事に任ぜらる〔松平家譜〕。






卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/21(日) 10:52:50|
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